第19話 騎士のお誘い
リリアーナとハリーが茨の城へ来てから、早くもひと月が経とうとしていた。
秋間近の夏の終わり。
リリアーナは
といっても、ソワレ侯爵邸で暮らしていた時のような息苦しさはない。
生活範囲は自室のみから館全体へ大幅に拡大されたし、なにより、おはようからおやすみまで、絶世の美形に甲斐甲斐しく世話を焼かれる、三食昼寝付きの生活なのである。
王族もびっくりの、高待遇だ。
その上、ハリーの料理は見た目も味もパーフェクト。デザートまで抜かりない。
(お昼ごはんも、最高でした……)
胃袋をすっかり掌握されたリリアーナは、今が午後のお茶の時間だということもあって、りんごがゴロゴロ入ったアップルパイを頬張っていた。
幾重にも重なった層はサクサクで、ゴロゴロりんごはクタクタに煮込んだものではなくて、噛むと少しシャクッとするくらいの食感が、実にリリアーナ好みである。
テーブルマナーもろくに習ってこなかったリリアーナは、少しでも綺麗に食べようと一気に口へ詰め込む癖がある。
そんな彼女にハリーは一瞬もの言いたげな苦しそうな顔をしたけれど、すぐに笑顔を貼り付けた。
頃合いを見て、礼儀作法の練習もしていこう。
そう、心に決めて。
「今日のパイはどうだ? 気に入ったか?」
心配することなんかないのに、ハリーはいつも不安そうに聞いてくる。
だからリリアーナはすぐさま、ゆるんだ笑顔で、
「ん!」
と答えた。
口いっぱいにアップルパイを詰め込んでモグモグしている姿は、食いしん坊なリスみたいだ。
令嬢としては落第点だけれど、ハリーはむしろ嬉しそうに、リリアーナの唇を拭っている。
(は、恥ずかしい……)
「あ……リリアーナ、ちょっと」
「え?」
顔を背けたリリアーナを追いかけてきたハリーの指が、彼女の唇にのっていたパイのかけらを取っていく。
ためらいもなく唇に触れてくるハリーは、きっとリリアーナのことを妹かなにかだと思っているに違いない。
(そうでなければ、不用意に触れたりしないはず)
ハリーは真面目で誠実な人だ。
まさか彼が下心ありきで世話を焼いていると、本当はパイのかけらなんてなかったのにあったように振る舞っているなんて思いもしないリリアーナは、意識しそうになる自分を戒めるように、自嘲のため息を吐いた。
あまりにナチュラルに世話を焼いてくるものだから、親族か近所に弟か妹に近い存在が──ハリーには姉と兄しかいないから──いるのだろうなと思いきや、聞いてみたらいなかった。
ふにゃっとはにかみながら、
「ずっと、構われる立場だった。騎士になってから気づいたのだが、俺は世話焼きな
と言われて、断れる人がいるだろうか。
(少なくとも、わたしは無理)
そもそもリリアーナは断ることが苦手だし、なんなら必要とされることが予想外に嬉しすぎた。
(今まで放置されてきた弊害が、ここに出ているような気がする)
両親はサティーナばかり、サティーナは自分のことばかりだった。
だからちょっと、身を委ねすぎているかもなぁという自覚はある。
ハリーを逃がしてあげようと思っていたあの日の自分は、どこへ消えてしまったのか。
どうかなと危機感を覚えて遠ざけようとしたこともあったけれど、なんだかんだ言いくるめられたり、宥められたり、それもダメだと分かるとハリーは捨て犬のような情けない顔をして「やりたいんです、やらせてください」と懇願してくるので、そうなるとリリアーナは罪悪感でいっぱいになって、結局は受け入れるしかなくなっていた。
(ある意味、幸せな悩みよね)
両親やサティーナも、まさかリリアーナがこんな生活を送っているとは、夢にも思っていないだろう。
冷たい
(追放された身の上で、こんな生活を送っているなんて……女神様に感謝しかないわ)
羽化してきらきらしい容貌になった彼は目に痛く、以前の彼だったらもう少し一緒に居やすかったのにと思わなくもない。
そういう時、リリアーナは一人になりたくなったが、彼との同居生活はおおむねうまくいっていると思う。たぶん。
「リリアーナ」
「ハリー様、どうかしましたか?」
ティーカップ片手に最近のことを思い返していたリリアーナは、名前を呼ばれ、キョトンとした顔でハリーを見上げた。
午後のお茶の時間が終わると、いつもならハリーから刺繍かレース編みを習う時間だった。
けれど、片付けを終えて戻ってきたハリーは、少しの緊張をにじませて、こう言った。
「今日は、街へ出ないか?」
予想外の提案に、リリアーナは目を見開いた。
もともと丸い目が、さらにクリクリッと丸くなる。
「え……でも、
「ずっと探っていたが、監視している者はいないみたいだ。だから、外出しても問題はないと思う」
リリアーナは戸惑った。
茨の城へ入ったら最後、もう出ることは叶わないと思っていただけに、心が揺れる。
「出ても、大丈夫なんですか?」
念押しするように確認すると、ハリーは縦に大きく頷いた。
「身分を隠す必要はあるが、問題ないと思う。変装用の服も用意してみたのだが、どうだろうか?」
どこから取り出したのやら。
彼の手にはいつのまにか、シュタッヘルの女性が着ているようなワンピースがあった。
無地の生地でつくったワンピースは、襟と袖と裾に精緻な薔薇の刺繍が刺してある。
(この刺繍はあの時の……)
教えてくれている時にそういう刺繍をしていたなと思い出して、リリアーナの胸がほっこりあたたかくなった。
「わぁ、かわいい……これ、ハリー様が作ったんですか?」
「ああ」
「すごい……すごく、かわいいです。わたし、街へ行きたいです。これを着て、行かせてください」
「そうか。じゃあ、まずは準備をしようか」
「はい!」
差し出された手に、手を乗せる。
やわらかく握り込まれた手に一瞬胸がドキッとしたけれど、
「まずは支度をしないとな」
意気揚々と部屋へ連れて行かれて、あわや着替えさせられるのではと、リリアーナは慌てふためいたのだった。
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