第24話 駒鳥と鴉
モーガンは一瞬苦しげに目を瞑り、そして口を開いた。
「帰る時が来たよ、リネット。いや、マリー」
リネット……マリーは、そんなモーガンの顔を見つめ、ぱちぱちと目を瞬いた。
「えっと……、もう隠れる必要はないってことですか?」
「ああ。君が記憶を失った原因を作った奴らは、みんな逮捕された。……もう心配ないよ」
心配ない、という言葉に反して、モーガンの表情は暗い。
マリーと離れることへの寂しさか、はたまたあの屋敷に帰すことに躊躇いがあるのか。
それでも、いつまでもこのままという訳にいかないのは、確かだった。
「そっか……もう終わりなんだ……」
「これまで不便をかけたな。何も教えてやらずに、すまなかった」
モーガンは最初から、フライの手先がマリーを襲ったのだと睨んでいた。そうだと仮定すれば、マリーが一命を取り留めたのは、彼らにとって都合の悪いことだとすぐに分かる。
まだ詳細は不明だったが、それでもマリーが襲撃犯たちの顔を見ている可能性は十分にあった。事実、ボートでマリーに近付き矢を放ったなら、きっとマリーは犯人を目撃していただろう。
そんなマリーがもし生きていると分かったなら、今度こそ彼女に危害が及ぶ可能性があった。しかも犯人たちは、マリーをアデルだと勘違いして襲撃したのだ。マリーが生きていることが分かれば、いずれ人違いだったことに気がつく。男爵令嬢の殺害未遂を企てた事実がバレるよりも、使用人の殺害の方がマシだと、フライなら考える可能性もあった。
結果から言えば、マリーが目を覚ました2日後には実行犯が逮捕され、その更に3日後にはフライ男爵の身柄を押さえることに成功したため、杞憂に終わった訳であるが。
あの日、モーガンはナサリーとレイムス湖周辺の巡回の当番だった。
同僚たちとたまたまレイムス湖の近くに居た為に、マリーの救出が迅速に出来たのだ。
これが、あと少しでも遅ければ。
マリーの命は、本当になかったかもしれない。
モーガンがフェン医師から聞いた話では、マリーが精神的な衝撃からか早い段階で気を失ったことが、逆に良かったそうだ。その分自然と体の力が抜け、ちょうど胸から上の部分が水面に出るような形で彼女は浮いていた。
下手にもがかずにいたことで、飲んだ水が最小限に済んだのだろうということだった。
マリーの命が助かったのは、幾つもの偶然が重なった結果によるものだ。
この命を、再び失わせるようなことがあってはならない。
彼女が生きているということは、犯人を逮捕するまで隠しておいた方がいい。
それがモーガンの考えだった。
マリーが記憶を失ったことも、一時的に見れば僥倖と言えた。
姉妹のように仲の良いアデルと間違えられ襲撃されたと知ったならば、マリーはすぐに屋敷に帰ると言っただろう。父や婚約者にも、すぐに会いたいと言うだろう。そう考えたからだ。
今となっては、どうだったかは分からないが。
モーガンはマリーを守るため、オックス署長を説得し、マリーを徹底して隠すことにした。
家族からの批判を承知で。
どうしてそこまでしようと思ったのか、モーガンにもはっきりとは分からない。
ただ血の気を失ったマリーの顔が頭に付いて離れず、何としてでも彼女を守らなければ、と、強く思ったのだ。
モーガンはジェニーレン男爵家にも手を打っていた。
屋敷の面々がフライに狙われることのないよう、もしくは気を病み変な気を起こさぬよう、見張り役たちをジャニーレン男爵家に潜入させていたのだ。
犯人たちが逮捕されたことにより、彼らも元の職務に戻ることになる。
「ダヴを取り押さえた下男」は、昨日国直轄領内の村で起きた家畜泥棒の捜査に行くことになった。
モーガンが念の為と雇った「オウルの部屋の場所を教えたメイド」は、モーガンが贔屓にしている裏の情報屋の一員に戻るのだ。
これで全て解決した。
マリーは元の場所へと帰るべきだ。
そう、すべきなのに。
「あの。全部私に話してくださいませんか。私がどんな人生を歩んでいたか。一体何があったのか」
マリーの声が、思考に沈んでいたモーガンを引き上げる。
マリーはモーガンを真っ直ぐに見つめていた。
つい視線を逸らしそうになる自分を抑えて、モーガンも真っ直ぐにマリーの視線を受け止めた。
「……そうだな。君は聞く権利がある。いや、聞くべきだろう」
モーガンの声色は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
モーガンはマリーを寮に残し、一度警察署に戻った。
署長への報告と、ラークを連れてくる為だ。
現在警察署内ではダヴとオウルへの事情聴取が行われている。16年前の事件についても、話を聞く必要があるだろう。
事件の内容ごとに「時効」を明確に定めるべきという議論が最近になって行われ始めたが、現状統一の基準は存在しない。だが慣例で、殺人事件であれば20年は遡って罪を追求する。それは警察組織が創設された時の意気込みとも言えよう。
ダヴが直接殺害した訳ではないが、真実を隠蔽したことへの罪は問うことになるだろう。
オウルも無実とは言えない。
ジェニーレン男爵家に何らかの被害が行くことを想定しながら、情報を渡したのだ。犯人の協力者と言って過言ではない。また彼も16年前の事件を秘匿したことになる。
今後の彼の姿勢にもよるが、牢に入ることも考えられた。
いずれにせよ、まだ取り調べには時間がかかる。
そんな警察署に、マリーを連れて行くことは憚られたのだった。
刑事たちのデスクの奥にある署長室に入ると、オックス署長はフライ男爵の件で中央とのやり取りに忙しそうだった。
しかしモーガンが入ってきたことを認めると、一度手を止めて、モーガンに向き合った。
なまじっか「お前の推理は外れたんだ!」と朝に怒鳴ったが為に、若干の据わりの悪さが感じられる。
モーガンはそんなオックス署長の様子には気付かない振りをして、全てをマリーに話すと告げた。
オックス署長はその報告を静かに聞いた後、ゆっくりと頷いたのだった。
朝は早く帰すようにと急かしたものの、オックス署長自身もマリーのことは気に入っていた。
気立の良い素敵な女性だ。
ジルと仲良さげに話している姿は、まるで本当の親子のようだった。
もしも本当の娘だったなら……と思ったことも、確かにあったのだ。
一抹の寂しさは、そっと胸の内にしまっておいた。
モーガンは署長室を出て、書類仕事をこなしているラークを呼び、再び寮に戻る。
自分一人だけでは、どこまで客観的に話せるか不安になったからだ。
ラークもマリーとは親しくなっていた。
彼女の作るオムレツは美味しいし、ラークの話を笑って聞いてくれる姿を見ると、癒された。いっそこのままここに居てほしいという思いもあるが、元より決まっていたことだ。
それにラークよりもモーガンの方が辛そうに見える。
どうにも素直になれない先輩のために、喜んで付き添いを承諾したのだった。
モーガンとラークが寮に戻ると、マリーは食堂の椅子にポツンと座っていた。
どこか緊張した様子で、モーガンたちが入って来たのを認めると、顔を上げ、にこりと笑った。
「ラークさんまで。すみません」
「いいや良いんだよ。クロウさんだけじゃ心許ないからね」
ラークが茶化してそう言うと、モーガンは「生意気だぞ」と頭をこついた。
そんな二人の様子にマリーは、くすりと笑いを漏らしたのだった。
「本当に仲がいいんですね」
「そんなんじゃない。ただこいつが馴れ馴れしいだけだ」
「またまた。俺のこと大好きじゃないですかクロウさん」
マリーはあははと声を立てて笑うと、ふと、一瞬にして不安そうな顔をした。
「……私にも、そういう人がいたんでしょうか」
マリーはそう呟くと、何かを決意したようにまっすぐ前を見て2人に言った。
「お願いです。包み隠さず、全て話してくれませんか」
マリーの願いに、モーガンとラークは顔を見合わせた。
元のマリーが、どこまでのことを知っていたのか、分からなかったからだ。
オウルの不正な情報提供について何か勘づいていたのか、ダヴの異様なまでの執着を知っていたのか。アデルとクリフの不倫に、気付いていたのか。特に後者に関しては、事件と直接の関係がない。
オウルとダヴに関しては彼らの罪と関係がある為、話すことが出来るだろうが……。
モーガンは逡巡した後、アデルとクリフの件も含めて、全てを話した。
彼女は全てを知る権利があると思ったし、記憶を失う前の彼女は、何となく知っていたような気がしたからだ。
モーガンは語った。
出来るだけ客観的に。
事実のみをなぞる形で。
16年前の事件については、まだこれから調査が必要だ。
オウルの話したことだけで真実を語ることは出来ないが、そう注釈した上で話した。
マリーは冷静に、落ち着いて聞いていた。
モーガンが触れたマリーという女性は、コロコロと表情の変わる感情豊かな女性だった。そんな彼女なら、事実を知って苦しむのではと思ったのだが。至って淡々と、しかしながらどこか諦観した表情で、マリーは聞いていた。
自分の記憶にない自分の話をされるというのは、どんな気持ちなのだろうか。
モーガンはそんなことを思った。
「よく、分かりました」
モーガンが全て語り終わると、マリーははっきりとした口調でそう言い、頷いた。
「大丈夫? 急にたくさんの話を聞いて、びっくりしたんじゃない?」
ラークは気遣わし気にマリーの瞳を覗き込んだ。
モーガンも心配そうにマリーを見つめる。
けれどマリーはにっこりと笑って、元気よく頷いた。
「大丈夫です! むしろ
どうやらその顔に嘘はなさそうだ。
そして、少しの間をあけて、もう一度モーガンの目を真っ直ぐに見つめた。
「あの、父に会わせて頂けませんか。今警察署にいるのですよね」
「ああ、そうだが……」
「少し、話がしたいんです。お願いできませんか」
モーガンとラークは押し黙り、暫し考える。
「あの人も娘が亡くなったと思ってずっと落ち込んでますから。早くネタばらしをしてあげた方が良いと、俺は思いますよ」
ラークはモーガンに言った。
彼は娘の死を嘆くオウルしか見ていない。
モーガンから3日前の様子は聞いているが、俄には信じられず、不憫に思っていた。
モーガンとて、今日のオウルの様子を見れば、彼は彼なりに、マリーを愛していたのだろうとは思った。だからと言って、きっとマリーが感じていただろう寂しさの言い訳にはならないが。
けれどそれは、モーガンの所感に過ぎない。
何も覚えていないマリーの願いを跳ね除けるほどの理由を、モーガンは自身の感情以外には何も持っていなかった。
「そうだな。分かった、そうしよう」
モーガンの言葉に、マリーは神妙に頷いた。
側から見ればそれは、記憶を失ってから初めて会う父への緊張だと見えただろう。
しかし実際には、マリーの、ある決意によるものだった。
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