第21話 コマドリ
レイムス湖に行く前日のこと。
旦那様に呼ばれて執務室に行くと、ドレスを渡された。
今まで一度も着たことのないような、綺麗なライムグリーンのドレスだ。
よく見れば刺繍やレースがとても美しく配置されていて、この季節にぴったりの、素敵なドレスだった。
正直、心が躍った。
『マリーにはこういうのが似合うわ!』と、アデルに渡されるドレスは、どれも落ち着いた色のものばかり。
もっと顔立ちが華やかな人が着れば、清楚で美しく見えるのかもしれない。
私のような地味な女が着ても、余計に地味になるだけなのに。
でも折角アデルが選んでくれたのだし、私を彼女の背景に仕立てる為に敢えてやっているのだとしても、私は喜んでそのドレスを着た。
アデルの為なら、それくらいどうってことなかった。
でも本当は、全然違う服も着てみたかった。
本当は、鮮やかな色の美しいドレスに憧れていた。
だからそのドレスを思わず喜んで受け取りそうになり、ふと、思った。
何故、旦那様がこれを私に?
『いつもアデルを面倒見てもらっているお礼だよ』などと言っていたけれど、旦那様の顔を見て、私は薄寒くなった。
とても、目が暗かったから。
これまで旦那様が私に優しくするのは、罪悪感によるものだと思っていた。
でも最近はなんだか、少し違う気がしている。
旦那様を見ると、背筋が寒くなる。
視線が妙に体中に纏わりつくような気がして、気持ち悪い。
肩に手を置かれたりすると、思わず叩き落としてしまいそうになる。
途端、浮き上がった気持ちは沈んでしまった。
この素敵なドレスには罪がないけれど、旦那様から貰ったというだけで、急激に色褪せてしまう。
旦那様にお礼を言って部屋を出た後、私はずっと迷っていた。
このドレスを、どうしようかと。
翌朝、リンジーがモスグリーンのドレスを押し付けて来た。
わざわざお姉さんから借りてくれたらしい。
ありがた迷惑とはまさにこのことだ。
けれど私はある意味、良かったと思った。
旦那様から貰ったライムグリーンのドレスを、着ない理由が出来たから。
本当は、あのドレスにまだ少し未練があった。
けれど着たいかと言われれば、着たくはない。
正直あのドレスを着たら、何だか、旦那様の暗い瞳の中に取り込まれてしまうような気がした。
ドレスへの未練を断ち切り、大義名分ある着たくもないモスグリーンのドレスに身を包んだ私を、鏡に映す。
その姿は、酷く燻んで見えた。
確かに豪華なドレスかもしれない。
季節な外れな生地、地味な顔をより際立たせる色とデザイン、体型にあまり合っていないことを除けば、きっと素敵なドレスだ。
きっとリンジーのお姉さんである子爵夫人が着れば、さぞ素敵なことだろう。
でもこのドレスを着た私は、より一層貧相で、惨めな姿だった。
ライムグリーンのドレスをくれたのが、お父さんだったら良かったのに。
もしお父さんがくれたなら、何としてもリンジーを説得して、喜んでライムグリーンのドレスを着たのに。
そんなあり得ないことを妄想して、余計に惨めになった。
鏡の中の冴えない女を視界から追い出して、ワードローブを開く。
その中にひっそりと隠すように置いてある、小さな箱を開けた。
中には、美しい髪飾りが入っている。
アデルに付いて街に買い物に行った時、偶然見かけたものだ。
鮮やかな色のガラス細工で彩られていて、見る方向によって色が変わるのが美しい。
私のような女には、到底似合わないもの。
それでもその髪飾りを見た時、どうしようもなく手に入れたくなってしまった。
何か悪いことをしているような気分になって、アデルが商品を見ている間にこっそりと購入したのを覚えている。
買ってすぐは気分が上向いたけれど、部屋に帰って髪に付けてみたら、あまりにも不釣り合いで余計に気分が沈んでしまった。
それ以来、髪飾りはずっとワードローブの中。
時折引っ張り出しては髪に飾り、やはり似合わないと元に戻すことの繰り返し。
その日も、モスグリーンのドレスを着た見窄らしい女の髪に、その髪飾りを飾った。
ドレスと髪飾りが全然合わなくて、また髪飾りを箱に仕舞って、ワードローブの扉を閉めた。
いつもの地味な顔を更に冴えない気分で暗くして、部屋を出た。
そして2階に降りた所で、父に会った。
アデルの見送りに出ようとしているのだろう。
ちらりと、父が私のドレスを見た。
やはりおかしいと思ったのだろうか。
けれど、すぐに視線を外して『お嬢様をお待たせするなよ』と言った。
如何にも。
如何にも、私のドレスなど興味がないという様子だった。
父との関係は、16年前のあの時から決定的に変わってしまって、自分でももう諦めたつもりだった。
でも何故か急に悲しくなって、『そうね』とだけ言って、足早にアデルを部屋に迎えに行った。
もしもあの時、お父さんが『そのドレスは止めた方がいい』と言ったら、きっと着替えていたかもしれない。
そんなこと、言う筈もないけれど。
アデルを連れて、玄関ホールでクリフと合流する。
クリフはいつも通りの優しげな笑顔で、アデルも一見いつも通りだった。
けれど、私には分かる。
どうやら2人は喧嘩でもしたらしい。
どうせよくある痴話喧嘩だろう。
クリフだけ見ていれば分からなかったかもしれないけれど、アデルはどことなく不機嫌で、馬車の中はあまり会話は弾まなかった。
『そのドレス、どうしたの?』
馬車の中でクリフは聞いた。
『リンジーに貸してもらったの』
『そっか。似合ってるよ』
クリフは笑顔でそう言った。
似合ってるのか。
そうか。
このドレスは私に似合ってるんだな、と諦めに近い気持ちになった。
湖に着いて、船遊びをすることになった。
湖畔にはたくさんの係留杭が刺さっていて、いくつもの手漕ぎボートがぷかぷかと浮いていた。
それをクリフが手繰り寄せて、まず私が、次にアデルが乗った。
クリフがボートを漕いで、私たちは水面に手を下ろしてその冷たさを楽しんだり、景色を楽しんだりした。
私たちは笑顔で楽しんだ。
まるで何も知らなかったあの頃に、戻ったような気がした。
船遊びを終えて、昼食を摂ることになった。
料理人が作ってくれたベーグルサンドは、きっと絶品だ。
昨日ランチのメニューを相談した時、私の好きなクリームチーズを入れてくれると言っていた。
私は楽しみだった。
船遊びからようやく上向いた気分を更に高めさせて、敷物を広げる。
3人用の敷物は大きくて苦戦していると、クリフが手伝ってくれた。
クリフが嘘を吐いていると分かってからも、特に彼とは不仲ではなかった。
だって、ただ好きではなくなっただけだから。
恨む気持ちや怒りを覚えるのは、相手に関心がある時だけ。
私はクリフを、どうとも思っていなかった。
何とも思っていない他人には、それなりの礼儀正しさで接していればそれでいい。
私から婚約解消を切り出すのは、2人の関係を知っていると言うようなもので嫌だったから、ただ何も言わなかっただけ。
早くクリフから言ってくれないかと日々思っていた。
『アデルお嬢様。出来ましたよ。足元にお気をつけくださいね、転んでしまわれますよ』
私がそう声を掛けると、目に見えてアデルは不機嫌な顔になった。
『マリー。私もう大人よ。あなたに言われなくても分かるわ』
『アデルお嬢様……? どうなさいましたか?』
『私、帰る』
そう言ってアデルは1人で歩き出し、どこかへ行ってしまった。
いつもなら、すぐに追いかけただろう。
アデルの足なら、私が少し小走りになればすぐに追い付く。
けれどその時は、心底、本当に心底、うんざりしてしまった。
アデルのことを愛している。
誰よりも大切な妹のような子。
アデルになら、どんな扱いをされても許してあげられる。
私のことを如何に馬鹿にしようと。
婚約者を奪われても、尚。
……本当に?
頭の中で誰かが言った。
本当にそう思ってる?
声が頭の中で響いていた。
『マリーが探してきてくれないか』
頭の中の声に支配されそうになった時、クリフが言った。
何故、私が?
あなたが行けばいいのに。
あなたたちは愛し合っているんだから。
アデルだってあなたが行った方が嬉しいはずよ。
こんな、見窄らしい女じゃなくて。
そんな思いが駆け巡った。
きっと痴話喧嘩をして気まずいからだと思い至ると、酷く投げやりな気持ちになった。
『わかったわ』
私がそう言うと、私の気分を察したのか、やたらとクリフが慌て出した。
『きっと君じゃないとアデルお嬢様は納得しない』
『マリーの言葉でなければアデルお嬢様には響かない』
『アデルお嬢様も僕も、誰よりも君のことを信頼しているから』
この男は何を言っているのだろう?
私のことなんて、何も考えていない癖に。
信頼?
それは、私が何も知らないだろうと見くびることを言っているの?
あなたの言う信頼は、こうも相手を馬鹿にすることなのね。
『わかったわ』
私はもう一度そう言って、歩き出した。
アデルを探しに行った訳ではない。
私自身、どこに行くのか、何をしに行くのか、何も分からないまま歩いていた。
私は自分に問いかける。
今までずっと見えないようにしていたもの。
自分の、本当の気持ち。
本当はずっと前から、ずっとずっと前から分かっていた。
私は、悲しかった。
傷ついていた。
辛かった。
アデルのことを、愛してるのに、愛したいのに、憎い気持ちが止めどなく溢れてどうにもならなかった。
必死で見ないようにして、必死で隠してきたけれど、本当は、ずっとアデルが嫌で堪らなかった。
アデルだけじゃない。
お父さんも。
私は愛してるのに、愛したいのに、何で彼らは私を愛してくれないのだろう。
何で私を傷つけることばかりするのだろう。
クリフだって、かつては本当に心から愛しいと、そう思っていた。
恋心は熱に浮かされたものだったとしても、彼と図書室で話しながら感じた胸の高鳴りは、本物だったのに。
あんなにも、心からの笑顔を向けられる相手はクリフだけだったのに。
クリフのことをどうとも思っていない?
そんなの嘘。
優しい記憶がある分、辛くて悲しくて憎かった。
何故、誰も私を愛してくれないの?
私の何がいけないの?
私は、愛するような価値もない人間なの?
そんな思いが溢れてきて、堪らなくなった。
そして気付いたら、先ほど船遊びをしていた湖畔まで辿り着いていた。
さっきの船遊びはとても楽しかった。
とても気持ちが良くて、晴れやかな気分になった。
ぷかりぷかりと浮かぶボートは、まるで誰かを待っているかのように見えた。
私は衝動的に、ボートに乗り込んだ。
どうしてそうしたのか、自分でもはっきりしない。
もう一度爽快感を味わいたかったのか、気持ちを落ち着かせる為だったのか。
ただただ、ここではない何処かに行きたかった。
一人でボートに乗るのは一瞬怖かったけれど、綱を外して、初めて自分でオールを握り、少しずつ漕いでいく。
徐々に漕ぐのに慣れて、顔を上げた。
すると、岸が少しずつ遠ざかっていくのが分かった。
私は何とも言えない開放感を感じた。
どんどんと漕ぐ速度を上げていく。
ぐんぐん岸は遠ざかる。
まるでこのまま、どこか遠くへ行けそうな気がした。
私の背後に広がっているのは、もしかしたら南の国の海かもしれない。
東の国の仙境かもしれない。
ここではない何処かの、遠い国かもしれない。
そんな錯覚を覚えた。
私はこの時、人生で一度も感じたことのないほど、自由だった。
ダンッ、と何か鈍い音がした。
初めての自由の解放感に浸っていた私は、一瞬何の音だか分からなかった。
けれどすぐに、異変に気が付いた。
ボートの左側面に、矢が刺さっている。
周りを見渡すと、少し先に一隻のボートが浮いてた。
男の人が2人乗っている。
そしてその内の1人は、弓のようなものを持っていた。
男の人たちが乗ったボートは、すぐに岸へと戻っていった。
何で?
何故こんなことをするの?
私が、何をしたというの!?
咄嗟に矢を抜こうとして、それが悪手だったとすぐに分かった。
矢を動かしたために、木が腐っていたのか穴が広がり、そこから水が入ってくる。
私は急いで岸に戻ろうとオールを漕いだけれど、焦ってしまって上手く漕げない。
更に水圧で、穴がどんどんと広がっていく。
ボートの中にはみるみる水が溜まり始めて、あっという間に半分沈んでしまった。
私はどうにかボートに掴まっていたけれど、ボートはどんどん沈んでいく。
ついにボートが完全に沈んでしまうと、私は必死に手足を動かした。
季節外れの毛織のドレスはとても重くて、体に纏わりついて上手く動けない。
必死に助けを呼ぼうと声を出すけれど、口に水が入って上手く声にならなかった。
ああ。
私の人生はここで終わるのだ。
結局どこにも行けないまま、籠から逃げ出せないまま、ここで終わってしまう。
水が肺に入る。
苦しい。
私の人生は、一体何だったのだろう。
マリー・ロビンの人生は、あまりにも惨めではないか。
絶望しながら、意識が遠退いていく。
朦朧とした意識をどうにかしようと必死にもがいても、自分の意思ではどうにもならないと悟った。
そしてぷつりと、意識が途絶えた。
次に目を覚ました時、私は何もかも、自分がマリー・ロビンであるということすら、忘れていたのだった。
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