第14話 ハト
ダヴは気が気ではなかった。
オウルが16年前のあの事件のことを刑事に話すのではないかと心配で、応接室の前を行ったり来たりしていた。
その姿に、先ほどまでの穏やかさはどこにもない。
いや、最初から穏やかなどではなかった。
ここ数日、ダヴは気が狂いそうなほどの焦燥感を感じていた。
あの16年前の忌まわしい事件。
思い出す度にダヴは胸が苦しくなり、吐き気がする。
まさかフィスが、あんなことを仕出かすとは思いもしなかった。
ダヴは辛くて苦しくて、膝を突きそうになる体をどうにか理性で保つ。
けれど今にも崩れ落ちそうだ。
レイムス湖に行く前日。
ダヴはマリーを呼び出した。
最近のマリーは本当にメイヴィに似て来た。
ただ、メイヴィのような屈託のない笑顔をマリーは見せたことがない。
いつも無表情か微笑を湛えるだけで、マリーの心からの笑顔など見たことがなかった。
ダヴは、マリーの笑顔が見たかった。
マリーには本当に申し訳ないことをしたと悔いていた。
メイヴィによく似たマリーには、メイヴィの様な笑顔を見せて欲しかった。
だからダヴは、マリーに舟遊び用のドレスを用意した。
初夏に相応しい、淡いライムグリーンのドレスだ。
いつもアデルを面倒見てもらっているお礼だと、そう言ってドレスをマリーに渡した。
何故ダヴはこんなものを用意したのかとマリーは訝しんでいたが、それを努めて表に出さずにお礼を言って帰っていった。
だからダヴは、マリーのドレスが警察から帰って来たと聞いて、てっきり自分が渡したドレスなのだろうと思った。
あのドレスをもう一度手に取り、それを着たマリーのことを思い返したいと、オウルより先にドレスを確認したけれど、見たこともない季節外れのドレスに愕然とした。
確かに美しく上品なデザインだ。
けれどマリーの年齢では少々、いやかなり浮いて見えただろう。
あれはもう少し年上の、既婚女性が着るようなドレスだ。
何がどうしてこうなったのかは分からない。
しかしこんなドレスで出掛けることになったマリーが、不憫で仕方なかった。
こんなことなら、決してマリーを湖に行かせなかったのに。
ダヴはマリーを愛していた。
ダヴはジェニーレン男爵家の一人息子だった。
その為、幼い頃から後継者として厳しく教育されてきた。
ダヴの父親は、酷く前時代的な人物であった。
とはいえ、それは仕方のないことと言える。
ダヴが成人する前のこの国は、まだ前時代的な価値観が色濃く残っている時代だったからだ。
その時代、ダヴの父親のような考え方の方が主流だった。
ダヴは、その価値観に強い反発心を持っていた。
彼は新しい時代の幕開けが、すぐそこに迫っているということを、肌で感じていた。
先見の明がある、とはこのことだろうか。
あと十数年もすれば、貴族至上主義の時代は終わりを迎え、全く新しい時代が来るだろうと、まだ10代だったダヴは考えていた。
とはいえ、そんな大仰な理由を並べずとも、ダヴが身分主義に反発する単純な理由があった。
ジェニーレン家で働くとあるメイドに、ダヴは懸想していたのだ。
正しくそのメイドこそ、マリーの母親、メイヴィである。
決して目立つ美人ではないが、いつも屈託のない明るい笑顔を浮かべるメイヴィのことが、頭に付いて離れなかった。
あの眩い笑顔が自分だけに向けられたなら、どんなに幸せかと夢に見るほどだった。
そう、モーガンの予想は半分は当たっていた。
ダヴの想い人は、メイヴィその人だったのだから。
ただし、マリーはダヴの娘ではない。
ダヴが期待するよりも、時代の流れは少しだけ遅かった。
ダヴは古めかしい貴族の因習に呑み込まれ、父の選んだ男爵家の娘であるフィスと結婚することになった。
その時ダヴは23歳。フィスはまだ17歳だった。
ダヴがどんなに望まざろうと、この婚姻は避けることが出来なかった。
そしてダヴの結婚から1年後。
オウルとメイヴィも結婚した。
オウルとメイヴィが恋仲であることは分かっていた。
己の結婚にダヴ自身の意志が介入出来ないことも、分かっていた。
だからダヴは、決してオウルを恨めしくは思っていなかった。
彼とオウルも彼らの子供たち同様、兄弟のように共に過ごしたのだ。
ダヴの方が幾分歳上だったけれど、オウルはよく出来た弟のようだと自慢に思っていた。
ダヴはオウルを信頼していた。
オウルならば、メイヴィを幸せに出来るだろうと思い、いっそ安堵していた。
ダヴは、メイヴィの幸せを誰よりも願っていたのだから。
ダヴは、自分の想いを一切誰にも打ち明けていなかった。
確かに、メイヴィの隣に居るのが自分ではないことは残念だ。
だからと言って、オウルを恨んだことも、メイヴィを奪おうと思ったことも一度もない。
夫婦になったからには、フィスを大切にしようと精一杯尽くしたつもりだ。
それぞれに、与えられた運命と人生がある。
ダヴはそれを粛然として受け止め、現状に不満を持つようなことはなかった。
なのに。
額から血を流すメイヴィを見た時、頭が真っ白になった。
しかも、この惨劇を引き起こしたのが、フィスだという。
ダヴは、腸が煮えくり返るほどの憤怒が巻き上がるのを感じた。
せっかく
その瞬間、ダヴにとってフィスは、大切にすべき家族から、唾棄すべき
メイヴィを抱き抱えるオウルを引き剥がしたい欲求だけはどうにか抑え、メイヴィを病院へと連れ出した。
事態は一刻を争う。
ダヴは必死だった。
しかし同時に、ダヴの脳内は凄まじい速さで回転し、あらゆることを計算していた。
まず第一に、この惨劇を知る人物は最小限にすべきだ、と云うこと。
それは家門の為もあるが、それよりも
これほどの惨状を齎した犯人であるフィスがすぐに亡くなっては、あれこれ憶測が広がってしまうだろう。
それに万一、万一メイヴィが助からなかった場合、殺人犯の居た屋敷に彼女の墓を作ることは難しい。
オウルだけであれば如何様にも説得出来るだろうが、世論はそうはいかない。
例え墓であっても、メイヴィと離れることになるなど、ダヴには耐え難かった。
第二に、マリーが目撃してしまったことは、誰にも言うべきではない、と云うこと。
そうすれば、きっとマリーは彼だけを頼ってくれるだろうと、ダヴは願った。
マリーはとてもメイヴィに似ている。
あのオレンジの瞳は、本当にメイヴィそっくりだ。
そんなマリーの、一番の理解者でありたい。
それにオウルもマリーにこの事実を知られていないと思った方が、心穏やかにいれるだろう。
そうダヴは考えた。
なんと歪んだ屈折した考えだろう。
それが如何にマリーやオウルにとって残酷なことであるか、ダヴは気付かない。
メイヴィの死を隠すと言うことは、フィスを庇うことであると捉えられてもおかしくはないのに。
幼いマリーが目撃したことは、父であるオウルは知っておくべきだったのに。
この時のダヴの判断が、後に父娘の間に大きな溝を作ることになろうとは、ダヴは考えもしなかった。
……いや。
二人の間の溝を認識して尚、彼はこの時の判断を間違ったものとは思わなかった。
彼の中では、これは致し方ない結果で、最善の方法だったとして認識された。
こうしてメイヴィは秘密裏に病院に搬送されるも、そのまま亡くなり、その死の原因ごと秘匿されることとなった。
そしてもう一人。
フィスの死も、その真相は闇に葬られた。
真実を知るのは、ダヴただ一人だった。
応接室の前で、ダヴは冷や汗を掻いていた。
もしもメイヴィの墓がこの屋敷から移されたらどうしようか。
レイムス湖の管理組合の代表には、十分
あとはマリーをメイヴィの隣に埋葬するだけなのに。
マリーの死を招いた者を見つけ出そうと、警察に協力しようとしたのが間違いだったのか。
オウルは一体、何を話すつもりなのか。
このままでは、全て奪われてしまう。
応接室の前で親指の爪を噛みながらブツブツと呟くダヴは、完全に常軌を逸しているように見えた。
温厚で人格者なダヴ・ジェニーレンなど、そこには存在していなかった。
16年前の事件の時から、既に何かが狂っていたのか。
マリーの死が引き金なのか。
ダヴの信じた人生の中では手に入らずとも良いと思っていたはずなのに、今では誰かの手に渡るなど許せない。
何故なら、自らが信じた運命が、人生が、全て狂ってしまったから。
ダヴはもう、以前のように全てを手放すことが出来なくなってしまった。
なんとしても、マリーを手に入れなければ。
なんとしても、メイヴィを奪われないようにしなければ。
しばらく応接室の扉の前でブツブツと呟いていたものの、何か思いついたのか急にダヴは踵を返した。
顔には恐ろしいほどの狂気の笑みが浮かんでいる。
そして、メイヴィの眠る、裏庭へと向かったのだった。
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