第5話 トビ
「クソッ。しくった」
パタンと扉が閉まりモーガンが出て行くと、クリフは前髪をくしゃりと乱して舌を鳴らした。
最近ではすっかり出ることのなくなった、
『何故アデルはクリフの居場所を知っているのか』というモーガンの言葉に、不覚にも、一瞬狼狽えてしまった。
(いつもならこんなヘマはしないのに。……流石に動揺してんのか?)
これまでクリフは、数多の嘘を吐いて生きてきた。
それが彼にとっては日常であったし、それが彼の生き方だった。
だから、罪悪感を持ったことも、後悔したことも、一度もない。
それはマリーに対しても、例外ではなかった。
貧民街の娼婦の息子として生まれたクリフは、路地裏で多くのことを学んだ。
人は誰しも嘘を吐く。
正直者は馬鹿を見る。
誰もが信じたいものを信じ、真実など大して重要ではない。
クリフを路地裏に捨て男と消えた母親が、また別の男と親しげに街を歩くのを見てクリフはそう思った。
彼女が過去を、クリフのことをあの男に正直に話していたのなら、あんな幸せは訪れていないだろうから。
嘘に対する罪悪感を失った少年は、どんどん嘘が上手くなった。
そして、自分の見た目は人を騙すのに非常に向いていると云うことを学んだ。
クリフがまだ幼い頃、きちんと顔を綺麗に洗って路上に立った時には、不思議と貴婦人やらお嬢様やらからの施しを多くもらえることに気が付いた。
微笑みながらそこらで摘んだ花を差し出せば、八百屋の娘や定食屋の女将は喜んで食べ物をくれた。
そして一度クリフが涙を流せば、人々は彼に同情した。
そんなクリフを憐れみ、路地裏から屋敷に連れ帰ったのが、フィス・ジェニーレン男爵夫人、アデルの母親だった。
クリフは初めての世界に興奮を覚えた。
隙間風の吹かない部屋。
雨漏りしない屋根。
上等な服。
暖かいベッドに温かな食事。
どれもこれも、クリフが夢にまで見た生活がそこにはあった。
ジェニーレン男爵家では、使用人であっても衣食住が十分に用意され、待遇はかなり良い家として有名だった。
クリフは自分の幸運に、そして好機を掴む才能に感謝した。
クリフがジェニーレン家の敷居を跨いだのが、齢10歳のこと。
それまで『クリフ』以外の名を持たなかった彼は、その日から『クリフ・ミルヴァス』となった。
フィスが姓を付けたのだ。
この時代、平民であっても姓を持つことが主流になっていたが、貧民街では別であった。
故に「姓がない」というのは、それだけで出身が分かってしまう。
そんな彼をフィスは憐れんだのだ。
そこから彼は、完璧に『クリフ・ミルヴァス』を演じた。
そう、演じていたのだ。
笑顔を絶やさず、好感の持てる爽やかな男。
それが『クリフ・ミルヴァス』だ。
クリフは自身の親が誰であるか知らず、生涯1人で生きてきたのだと嘘を吐いた。
娼婦の息子だと言うよりは、まだ親無しの方がマシだと思ったからだ。
その作戦は功を奏し、哀れな子だとフィスはクリフを可愛がった。
かといって特別扱いをした訳ではない。
クリフは下男からコツコツと始めて、やがて従僕となった。
そんな折、図書館の整理の仕事を始めてすぐ、クリフはマリーと出会った。
いや、出会ったことにした。
使用人の中でも、マリーは特別な存在だった。
ロビン家は古くからジェニーレン家に支える一族だ。
だからマリーの父が執事長であることも、マリーの母がアデルの乳母になるのも、当然のことだった。
ジェニーレン家の女主人が居ない今、マリーがハウスキーパーの役割まで兼任している。
それは本人の優秀さも当然あるけれど、ロビン家の血筋ということも大きく影響しているだろう。
主人ではないけれど、自分達とは一線を画す存在。
主人の信頼を得ていて、アデルからは姉の様に慕われている。
そんなマリーは、使用人たちの中のお嬢様だった。
実際、マリーのことをそのように呼ぶ者も居た。
マリーはその呼び方を嫌がっていたが、使用人たちの間では周知の事実だった。
だからクリフがマリーのことを知っているのは、当然のことだった。
そしてマリーが本をこよなく愛することも、広く知られていた。
けれど、アデルといつも行動を共にしているが為に、元の地味な容姿が強調され、しばしばその趣味は揶揄の対象となった。
「アデルお嬢様の引き立て役」「地味な日陰の本の虫」そう噂されていた。
マリーにそのことを気にしている様子はなかった。
けれどそんな彼女が、男慣れしていないだろうことは、十分に窺い知れた。
クリフはマリーに近付くため、自ら図書室の整理を買って出たのだ。
全ては、もっと高みへと向かうため。
マリーと婚姻を結べば、クリフは婿養子としてロビン家の一員になる。
そうすれば、次の執事長の座にはクリフが座る可能性が高くなる。
そしてあわよくば、アデルと親交を持つことも出来る。
もしや自分ならば、アデルに気に入られて更に高みへ、男爵家の一員になることも可能かもしれない。
何もかも、打算だ。
マリーのことも、アデルのことも、ただ自分の地位を高める為の道具にすぎない。
マリーと親しくなるのは、酷く簡単なことだった。
マリーが図書室で読んでいた本を夜の内に読破して、翌日話し掛けた。
キラキラとした笑顔でマリーが本の感想をクリフに語り、クリフはそれを大袈裟に肯定するだけでいい。
アデルはあまり本を読まないために、誰かとこのような話をしたことがなかったのだろう。
マリーはすぐクリフに好意を寄せるようになり、意識的に好青年な笑顔で接すれば、その好意は時を経たずして恋愛のそれに変わった。
マリーを惚れさせることなど、クリフにとっては、赤子の手を捻るより簡単なことだった。
マリーの希望もあり、程なくしてクリフはマリーと婚約した。
貧民街出身のクリフとの婚約は難しいと思いきや、驚く程何の支障もなく、すぐに認められた。
自分の働きぶりが評価されたのだろうと、クリフは鼻が高くなった。
マリーの婚約者となったからにはと、クリフは従僕を続けながら執事としての仕事を勉強するようになった。
しかも、執事長であるマリーの父自ら指導すると云う特別待遇だ。
クリフは着実な出世街道に乗ったことが、嬉しくてたまらなかった。
そしてマリーと婚約すると、期待通り、アデルとも接する機会が増えた。
アデルが自分に惹かれていることはすぐに分かった。
けれど浮気者と思われてはいけない。
あくまで自然に、アデルと接触する機会を作っては、得意の笑顔で応対した。
そして、アデルがクリフに想いを伝えた、あの日。
クリフは思わず、内心歓声を上げた。
あまりにも理想通りに、素晴らしい結果を齎したと、心が躍った。
敢えて『マリーと婚約したのは、アデルに近づく為だった』と伝えた。
アデルのような夢見がちな少女は、心変わりしたと言われるより、元から愛されていたのは自分だったと思う方が、自尊心を満足出来るのだ。
思い通り、その台詞を聞いたアデルはうっとりと満足気に頬を赤らめていた。
クリフはアデルに貰ったネクタイピンを、まるで
(チョロかったな。2人とも)
クリフは心の中で、マリーとアデルを嘲笑った。
けれど。
『素敵ね、そのピン』
ある日マリーが、出し抜けにそう切り出した。
仕事の休憩時間、一緒に昼食を摂っている時のことだった。
マリーはにこりとした笑顔で、クリフのネクタイピンを見つめた。
『私だったら、絶対に選ばないデザインね。でも素敵。よく似合ってるわ』
思わせぶりなその言葉に、クリフはドキリとして、嫌な汗が流れるのを感じた。
別にマリーにどう思われようが関係ないが、浮気者だと噂されるのはまずい。
正当な男爵家の一員になる為にも、この好青年の仮面は被り続けなければならないから。
けれどマリーは結局、それだけで特に何も言わなかった。
(まさか、バレたのか?)
クリフは舌打ちしそうになるのをグッと堪える。
マリーは男慣れしておらず、そういうことには鈍感だと思っていたのだが。
もし気が付いたのなら、よく居る女たちのように嫉妬して泣いたり怒ったりするでもなく、酷く落ち着いているのが気味が悪い。
(こういう女が一番厄介なんだよ。クソ面倒だ)
内心悪態を吐きながら、『この間マリーが熱を出した時、アデルお嬢様が買ってくれたんだ。護衛のお礼だと言ってね』と柔かに答えた。
こういう場合は、下手に嘘を吐かない方がいい。
最小限に事実を伝えた方が効果的だ。
『そうだったの。良かったわね』
そう言ってマリーも、柔かに笑った。
そのマリーの笑顔に、クリフは苛立ちを覚えた。
レイムス湖に行く前日。
アデルにいつまでもマリーと別れないことを追求されると、クリフは珍しく歯切れ悪く答えた。
と言うのも、アデルの我儘に辟易とし始めていたからだ。
確かにアデルは可愛らしいが、ただそれだけだ。
年が10近く離れている所為もあるだろう。
ただの子供としか思えない。
『あなたと一緒になるためなら、当主になっても構わない』などと彼女は言っていたが、正直何を血迷ったことを言っているのかと思った。
話していてもドレスや化粧品の話ばかりで、知性が感じられない。
一昔前の貴族令嬢ならば、むしろそれが良しとされる風潮だっただろう。
しかしもう時代は変わった。
貴族の権威が失墜する中、生き残りをかけて幾つかの家門では、他でもない女性たちが立ち上がった。
固陋な老当主たちを押し退け家の矢面に立った女性たちは、過去の栄光をかなぐり捨てて、新たな時代を柔軟に受け止めた。
そんな彼女たちの働きにより生き永らえた家門を見た人々は、男女の役割についても、改めて考えざるを得なかった。
今では、優秀で向上心の高い若い令嬢ほど、経済サロンの議論に参加したり事業を始めたり、積極的に活動を始めている。
まだそれが主流というほどではないが、「女は美しく淑やかに控えているのが美徳」という価値観は、確実に崩れ始めていた。
そんな時代に、アデルはまさに「ただ外見が美しいだけ」の旧時代の貴族令嬢だ。
外側ばかり美しくとも、中身が空っぽで魅力が感じられない。
それを「庇護欲を掻き立てる可愛らしさ」と感じる男性も居るだろうが、クリフはそうではなかった。
出世の為とはいえ、クリフはアデルと一緒に居ることに苦痛を感じていた。
その為、クリフとしては珍しく、マリーとの婚約をずるずると引き伸ばしてしまっていた。
アデルがマリーの言葉にいじけてどこかへ行ってしまった時、クリフは心底うんざりしていた。
なんと子供染みた行動だろう。
帰りたいなら勝手にすればいい。
そう思った。
だからつい、言ってしまったのだ。
『マリー、君が探してきてくれないか』と。
『きっと君じゃないとアデルお嬢様は納得しない』『マリーの言葉でなければアデルお嬢様には響かない』などとそれらしい理由を付けて、クリフはアデルを追いかけることを放棄した。
そんなクリフに、一切不満を漏らさず、マリーは『わかったわ』と言って、アデルを探しに行ったのだ。
それが、まさか。
どうして、こんなことになったのか。
クリフは簡単に嘘を吐く。
人を騙しても気にしない。
けれど、誰かの死を目の当たりにしても動じないほど、冷酷には出来ていない。
湖から引き上げられた、血の気のないマリーの顔を思い出す。
一瞬しか見えなかったはずなのに、頭にこびり付いて離れない。
これまで数多くの修羅場をくぐり抜けてきたクリフでも、親しく接していた人物の死には動揺してしまったようだ。
そう、本当は昨日、執事長から刑事が来る話は聞いていたのに、つい聞き流してしまった程に。
「まあ、死んじまったもんは、しょうがないけどな」
クリフは一つ、溜め息を吐いた。
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