第1話 鴉
煙が充満する室内で、モーガン・クロウは写真を睨みながら煙草を燻らせていた。この煙の元を辿れば、全て彼の指先に辿り着く。
灰皿には既に山のように吸い殻が溜まっている。彼が思考に没頭すればするほど、その山は高くなる。
年季の入ったマホガニーのデスクに両の足を組んで乗せ、そこには質は良いがくたびれたウイングチップが嵌まっていた。
年は30の半ばだろうか。
真っ黒で癖のある黒髪に、全体的に縒れた印象の服。無精髭こそないものの、あまり爽やかとは言い難い容貌だ。
しかしそれでも不快感を感じない理由は、本人の見目の良さにあるだろう。
マホガニーに乗る足の長さを見れば分かる様に、とても背が高く引き締まった体躯をしている。写真を睨むその三白眼は、一瞬銀を思わせる灰色だ。
モーガンは独り身ではあるが、決して女に不自由はしていなかった。
コンコンとノックの音がしたかと思うと、ガチャリ、とすぐさま部屋の扉が開いた。
それまで滞留していた煙草の煙が、空気の流れに乗じて幾分外へと逃げ出していく。
その煙を手で払いながら、男が1人、部屋に足を踏み入れた。
「クロウさん。またそれ見てるんですか」
男は、モーガンの手に収まる写真に目をやり、声を掛ける。
まるで良い加減にしなさいと子供を諭すような表情だ。
写真には、マリー・ロビンが引き上げられた直後の湖が写っている。
「ああ。これは事故じゃない。歴とした殺しだ」
「またそんな物騒なことを。そんなことよりも、こっちの方を頼みますよ」
男の手には、分厚いファイルが握られている。
その中には最近巷を騒がせている強盗事件の資料が収められていた。
「おいラーク。『そんなことより』はないだろう。彼女に失礼だ」
「すみません……。でも、それは事故の線で捜査することに決まりましたよね」
ラークと呼ばれた男は、ほんの少し罰が悪そうな顔をした。
ラークはモーガンよりも幾分若い。しかし童顔なために、実年齢よりももっと幼く見える。
そのためか、ラークがそんな顔をすると、モーガンが酷いことをしたように見えるから不思議だ。
モーガンはそんな理不尽さを感じながらも、再び写真に視線を落とした。
モーガン・クロウは、この道15年の刑事だ。
それは同時に、最古参の刑事であるということになる。
「警察」という組織が誕生して、まだ15年しか経っていないのだから。
今から30年程前。
この社会に君臨するのは王であり、貴族であった。
この王国の興りを伝える伝承によれば、王こそが平和を
そして己の欲望を
つまり民は、王侯貴族の統治によらなければ、途端に自制の利かない獣に成り下がる卑しい生き物だと言われていた。
この、誰が何のために伝えたのか想像に難くない伝承は、王侯貴族たちに大義名分を与えた。そして徹底した身分制度により人間の命は線引きされ、そこには超えられない大きな隔たりが存在した。
王侯貴族は尊く、平民は卑しい。
命の価値が、同等であるはずがない。
それが常識であり、世界の理であった。
貴族は領主としての権力を行使し、時にそれは平民たちを苦しめた。必ずしも貴族たちは、良き支配者とは限らなかったから。
長きに亘り有する権力は、貴族たちを傲慢にし、そして堕落させた。
伝承による大義名分が、その堕落を加速させた。貴族としての義務を果たさずとも、権力を有することの妥当性がそこにはあったからだ。
多くの貴族たちはその権力に見合った働きをせず、むしろ民からの搾取に勤しんだ。
当時の市井の治安維持は領主の権限であり、領主の抱える私兵が担っていた。それはつまり、領主である貴族の腐敗が、如実に市井の治安に現れるということだ。
堕落した貴族の治める領地では、犯罪が横行し、治安を治めるべき兵たちによる略奪さえも
それでも、民はただ耐えるしかなかった。
貴族と平民たちでは、その価値が全く異なったから。
しかし、時代は転換の時を迎えた。
蒸気機関の登場や製鉄業の発展により、中産階級はみるみると力を付け、目覚ましい変貌を遂げた。
商才のある者たちはより裕福になり、反対に、高貴な血筋以外これといった力を持たない貴族たちは、己の
市民運動も活発に行われ、ついに王は貴族たちの持つ権利を一つ、剥奪することにした。
それはつまり、治安の維持を市民自らの手に委ねるということだ。
こうして市民の期待を一身に背負い、今から15年前、「警察」の組織は誕生したのだった。
実を言えば、モーガンは元々男爵家の出身である。
悪どいことは何もしていないが、力がある訳でもない弱小男爵家は、為す術もなく時代の荒波に呑み込まれ、あっという間に没落してしまった。
けれど、元より平民寄りの生活をしていた家だ。一家は粛々と状況を受け入れた。
モーガンは爵位を受け継がない次男であったため、これまでと特に何も変わりないと何の抵抗も覚えなかった。
そんなモーガンが刑事となったのは、正直に言って、ただ安易な発想の先の巡り合わせでしかない。
銃が得意だった為、幼い頃は漠然と軍に入るものと思っていた。けれどモーガンが成人する頃には貴族が持つ私兵は撤廃され、残るは国に属する「国防軍」か新たな組織である「警察」か、という選択肢の中で、モーガンは迷わず警察を選択した。
国防軍は領地の私兵とは全く異なり、厳格な縦組織で
そんな組織はモーガンにとって息苦しいと思ったし、元々思い描いていた未来と近いのが警察だと、単純にそう思っただけだった。
そうした安直な考えで警察に志願したモーガンとは裏腹に、世間ではそう簡単には捉えなかった。
元貴族であるモーガンが警察組織に加わるということについて、社会的に大きな議論になった。
それはそうだ。
支配からの脱却の象徴的存在である「警察」に元貴族が居れば、それは形ばかりの組織で誤魔化しているに過ぎない。
そう考える者が居たとて何も不思議ではない。
そうした一切の問題を頭に入れていなかったモーガンは、本人の意思とは関係なく、貴族と市民の争いの真中に立たされた。
モーガンを獅子身中の虫として投げ入れたい貴族側。
新時代の黎明に水を注されたくない市民側。
両者の論争は白熱を極め、更にはモーガンに便乗しようと多くの元貴族たちによる警察志願が行われ、事態は混乱を極めた。
しかし最終的には、モーガン自身が両派の意見を折衷する形で「警察組織の中で一切の役職にも就かず、一切の決定権を持たないことを誓う」と宣言し、他の元貴族の志願者たちはそれでは意味がないと皆志願を取り下げて、この論争は一応の収束を見たのだった。
モーガンとしては、甚だ不本意な宣言をしてしまうことになったのだが、それは自戒の意味も含んでいた。
若気の至りでもある。けれど何故このようなことになったかと言えば、それはモーガンが自分自身を「貴族」という枠で捉えたことがなかったことに原因がある。
モーガンは生まれてよりこの方、貧困と共に歩んできた。
舞踏会や夜会など顔も出したことはなく、「社交界」とは本の中の出来事でしかなかった。
自分は平民。
事実爵位もなければ継ぐ予定もないのだし、その考えに全く違和感がなかった。
けれどこの一件で、己の認識とは無関係に自分はあくまでも「元貴族」の枠組みに入るのだと痛感したのだった。
以降、モーガンは警察の中でも酷く浮いた存在となった。
モーガン以外の刑事たちは皆平民で、上層部は時代の転換に功を成した中産階級の出身で占められた。
元貴族であるモーガンは、自身の宣言の所為もあって、
モーガンはこの15年、とにかく可もなく不可もない働きに努めてきた。
いっそ警察を辞めるということも考えたが、それは状況が許さなかった。あそこまで紛糾したというのに、モーガンがあっさりと警察を去れば貴族側の面目が立たない。
モーガンは己の浅慮な行動で、自分自身に首輪を付けてしまったのだった。
そんなモーガンである。
彼がこんなにも何かに執着を見せるのは、かなり異例なことであった。
唯一、モーガンと親しいと言っていいラークは、それが酷く不思議で仕方がなかった。
ラークが警察に入った当初、彼の世話役になったのがモーガンだった。
あの話題のモーガンが世話役などツイていないとラークは思ったものだが、これがどうして2人は馬が合った。
ラークが独り立ちをして久しいが、2人の関係性は今でも続いている。
先輩として、そして友として慕うモーガンの常ならぬ行動に、ラークは困惑していた。
「随分そのヤマに肩入れするんですね。クロウさんらしくない」
「まあ、な……。でも事故にしては不審な点が多いだろう。元々整備不良だったなら、あそこまで漕いで行けなかったんじゃないか? そもそも、彼女はあの重たいドレスで何故ボートに乗ったんだ。しかも1人だけで」
「それは……確かに説明出来ない点はありますけど、故意によるものとするには弱すぎますよ。何にせよ、彼女はもう帰してやらなきゃならないんじゃないですか?」
湖で彼女が見つかって、今日で3日。
家族には「遺体の検分があるためしばらく預かる」と伝えてある。
確かにいつまでもこのままとはいかないだろう。
「……悪いがラーク。ちょっと出てくる」
「えっどこ行くんですか? ちょっと、クロウさん!!」
止めるラークの言葉を振り切り、モーガンは警察署を後にした。
向かうのは、マリー・ロビンをよく知る人々の所だ。
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