第2話 出会いの日

「痴漢です、この人!」


 晴樹がいつものように大学に向かう電車の中で、女の人のバイオリンみたいな声がつんざいた。


 続いて、車両内が雨の日の森のようにざわめいた。


 都会から少し離れた電車とはいえ、通勤時間ということもあり、車両内に人はそれなりに多い。


 声の主は女の子らしい小さな手で、ごつごつとした男の手首を必死に掴んでいた。


 よく見ると、彼女は切れ長の瞳が印象的な薄顔の美人であった。


 集合写真だと真ん中で派手なポーズをしているのではなくて、端っこで仲良い友達とピースしていそうな印象を持った。


 絹のように滑らかな黒髪を不安げに揺らし、キッと相手をにらみつける。


 しかし、相手の男は一切動揺しなかった。


 それもそのはず――


「何!? ウチの彼氏が痴漢したっていうの?」


 なんと彼女(と思われる存在)が隣にいたのだ。


 男は歪んだ笑顔で言った。


「あれかな? 日頃の鬱憤うっぷんを晴らすために、冤罪に仕立て上げるやつ。君みたいなのがいるから痴漢問題が根本的に解決しないんだろうな」


 わざとらしい大声による男の訴えは、車両内を一瞬で伝播していった。


 うーわ、立ち悪い女。絡まれなくてよかったァ。女がみんなあんなのとは思わないでほしい。


 そんな侮蔑が次々と聞こえてくる。


 ちょっとは男を疑ってもいいんじゃないかと思わなくもないが、如何せん男の見た目はかなりのイケメンで清潔感があり、痴漢とは縁遠いものに見えるのだ。


 このままじゃ、彼女が不憫すぎる。


 誰か彼女の疑いを晴らせる人間はいないのか。


 晴樹は無意識に自分以外の誰かを求めていることに気づいた。


 厄介事に関わりたくない、というより晴樹は変化に臆病な節がある。


 ここで彼女を助けてしまえば、退屈だが深く傷つくこともない平凡な日常に亀裂が走って、大きく変化してしまうだろう。


 それがやけに怖くて、助けなくていい言い訳を知らず知らずのうちに考えていた。


 あと少し待てば誰かが助けてくれるとか。


 そもそも自分の見間違いかもしれないとか。


 そう思って、必死に辺りを見渡すと、見ないふりか、あるいは差別や偏見に満ちた顔が妖怪のように密集していて、それが妙に腹立たしかった。


 見過ごせば自分も妖怪の仲間入りかと思うと業腹だった。


 助けられるのは僕しかいないか。


 ふっと息を吐き、「すみません」と啖呵たんかを切る。


「僕、見ました。お兄さんが痴漢しているの」


 闖入者ちんにゅうしゃに真実を突きつけられ、男の顔はだんだんと崩れていった。


 反論の隙を与えることなく、晴樹はスマホをちらつかせる。


「撮ってるんで言い逃れできないですよ」


「ッッッ!?!!?」


 実を言うと晴樹は犯行の瞬間を見ただけで、録画なんてしていない。


 一か八かではあったが、鎌をかけてみたら見事に男は引っかかって、わかりやすく動揺した。


「は? うそでしょ? 信じらんない」


 男の彼女(と思われる存在)は、男の表情の変化から真実を悟ったようで、思いっきり男の足を踏みつけた。


 ちょうど、電車は駅に着いたので、彼女(と思われる存在)は大股でそそくさとホームへ消えていった。


 晴樹の目的地ではなかったが、痴漢男を警察に突き出さないといけないので、同じく電車を降りた。


 そして駅員に痴漢男を任せた。


 事情聴取があるとのことなので、しばらく駅のホーム(人通りは極端に少ない)に留まることになったが、それは晴樹だけではなかった。


「あの、ありがとうございました」


 被害を受けた女性がぺこりと頭を下げた。


「頭を上げてください。僕は当たり前のことをしただけですので」


 なかなか頭を上げてくれないなと思っていたら、ポタポタと地面に染みが生まれていた。


「ごめんなさい。ホッとしたら涙が……」


「気にしないでください。僕はずっとここにいますので」


 彼女はすすり泣きながら、ハンカチで目元を隠す。


 まるでベタな恋愛漫画のような展開だから、妙にリアリティのある夢だと思った。


 ――小学生の時は自分だけバレンタインのチョコをもらえていないことに劣等感を抱き――


 ――中学生の時は自分がモテないのはいじられキャラだからだと思い込ませ――


 ――高校生の時はアニメキャラに影響され、自身のぼっち生活を正当化し続け――


 ――大学生になり、恋愛なんかなくても幸せになれると多様化した世の中に甘えた――


 実際問題、晴樹は恋愛のない現状に満足していた。


 旅行先で友人から罰ゲームと称してマッチングアプリを始めさせられそうになった時は、負けないよう全身全霊をかけたし、風俗に誘われた時もおばあちゃんが死んだことにして断った。


 自分には恋愛なんて必要ないと思っていた晴樹は――目の前で涙を流す彼女に一目惚れした――


 チャンスがなかったから恋愛に興味を持てなかっただけで、所詮、すべてがお膳立てされたかのような光景を目の当たりにすると、晴樹はいつもは気に留めたことがなかった寝ぐせに苛立ちを覚えた。


 同時に、進展しない沈黙にいたたまれなくなった晴樹は彼女に尋ねる。


「名前は何て言うんですか?」


 いきなり聞くのは変だったか。


 いや、でも名前がわからないと会話する上で不便だと思うし、いや、でもやっぱりタイミングは悪かったんじゃないか。


 彼女が困っていたらどうしようと不安で頭がいっぱいになりながら、おずおずと様子を窺うと、彼女は一息ついてからごく自然に言った。


茉莉まつりって言います」


 凛とした見た目と茉莉という可愛らしい響きのギャップに、頬が緩みそうになる。


 苗字は? と聞き返したくなったが、何とか踏みとどまった。


 苗字を知ってしまうと、苗字にさん付けで呼ばなければいけない義務感が発生する予感がした。


「茉莉さん、茉莉さんね」


 苗字を知らないという免罪符を片手に、余計に一回多く彼女の名前を口に出した。


 それだけで幸福に感じられるなんて、自分はなんて単純で浅ましい生き物なんだと落胆半分諦観半分で思った。


「あなたの名前は?」


 親に守られている小動物のように安心しきった表情で、茉莉が訊く。


「晴樹。晴れるに樹木の樹で晴樹」


「晴樹さんですね。うん、覚えました」


 穏やかに目を細める茉莉を見ていると、晴樹の顔が熱くなっているのがバレると思い、思わず目を逸らす。


 女の人に下の名前を呼ばれることがめったになくて、どうにも落ち着かない。


 意趣返しと言わんばかりに、下の名前だけを伝えたことに対し、茉莉は少しも訝しげな様子を見せない。


 苗字を言わなかったのは正解だったと晴樹は安堵した。


 晴樹が目を逸らした先に、先ほど茉莉が流した涙の跡があった。


 水玉のように広がっていたそれは、何らかの熱で蒸発していて、すでに消えかけていた。


 事情聴取の時間です、と呼ばれ、晴樹と茉莉は歩き出した。

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