第5話 茉莉の思い

 最近、茉莉には気になる人ができた。


 気になる、という心情に引っかかりを覚えなくもないが、茉莉の今の気持ちを表すには『気になる』がおそらくは最も適しているだろう。


 恋には落ちていない。


 恋が海だとするならば、茉莉の気持ちは海面付近を低空飛行している渡り鳥だと思う。


 自ら羽をもいで、その身を沈ませるには、まだ水面下を知らなすぎる。


 寒流なのか暖流なのか、どんな魚が泳いでいるのか、水底までの深さはどれぐらいだろうか。


 合格発表の日、自分の受験番号を順に目で追っていく時のような期待ともどかしさと恐怖を持って、茉莉は晴樹を想っている。


 茉莉は家のダイニングで夕食の準備として皿やお箸などを並べている。


 夏希はそれにテキパキと盛り付けていく。


 ルームシェアをしている二人は、家事の担当を分けている。


 茉莉は料理をしたがらないので、食事全般は夏希が担当することになっているのだ。


 今晩のメニューはオムライスと付け合わせのサラダ。


 夏希がチキンライスの上に乗っている黄色のふわふわに包丁を入れこむと、たまごが絨毯じゅうたんのようにスッと広がった。


 たまごを照り付ける光の反射が、そのトロトロ具合を掻き立てさせる。


 その上からデミグラスソースが慎重にかけられていき、口に入れていなくてもすでにあの、ほんの少しだけ酸味の効いた香ばしい風味が思い出される。


 全ての準備が整い、「いただきます」と言って手を合わせる。


 茉莉は一口食べただけで、頬をとろけさせた。


 ソースやチキンライスのバラエティに富んだ濃い味たちをふわふわのたまごがマイルドに包み込んでいる感じがクセになる。


 また、チキンライスに含まれているマッシュルームを始めとした様々な具材が口の中を踊るように弾け、食感を楽しむこともできる。


 茉莉は「おいしい」と唸ってから、夏希に言った。


「今日はなんでこんなに料理に手が込んでいるの? いつもは炒め物とかインスタントみそ汁とかじゃない?」


「なんだか最近、茉莉ちゃんが変わった気がしてさ」


「変わった? そう?」


「変わったよ」


「何が?」


「顔」


「メイクは特に変えてないけど」


「そうじゃない。表情のことよ。笑顔が増えた気がする」


「じゃあ気のせいだね」


「今のもいい。なんか健康的な笑顔って感じ」


「何それ」


「あたしにもわかんない」


 ケラケラと二人で笑い合う。


 健康的な笑顔って何だろ?


 けど何となく、今の私は健康的な気がする。


 というより夏希と一緒にいて不健康なわけがないんだから。


 夏希はふう、と一息吐く。


「ま、話はズレたけど、要は茉莉ちゃんが変わった気がするから、あたしも変わりたいって思ったわけなの」


「それでこのオムライス? 高校生の時からの付き合いだから、夏希が料理上手なのは知ってるけど、昔と比べたらもっと上手くなってるんだなって実感する」


「でしょ? さすがあたしって感じ」


「そうだね。私からすれば、変わりたいって言って変わろうとできる夏希が輝いて見えるよ」


「たぶん茉莉ちゃんが思ってるほどあたしは輝いていないよ。友達が変わっていくのを見ると、変わってないあたしが対照的に映ってしまって、怖くなってるだけ。変わりたいより変わらなきゃって言った方がよかったかもね」


「義務感に追われる感じ、わかるかも。しなきゃとかしちゃだめだ、みたいに思わないと一歩踏み出せないのは私も同じだなぁ」


 でもこの義務感に追われるのは夏希や私だけに限った話じゃないよね。


 赤ちゃんをあやすみたいに、みんな心の底で必死に眠らせようとしている感覚だと思う。


 私はたぶん、人に比べたら楽な人生だったのかもしれない。


 勉強や運動はそれなりにこなせたし、友達もたくさんいた方だと思う。


 それでも色んなものを我慢してきたし、たくさん諦めてきた。


 嫌だと思っても、義務感というブレーキを虫を潰す時みたいに踏んできたんだ。


 後処理が大変だとわかっていても、その手段しか残されていなかったと自分に教え込むあの時間は、今になっても慣れる気配がない。


 だからこそ、そんな嫌悪感をなるべく明るい形で表出できる夏希に憧れてしまう。


 茉莉がリスペクトの眼差しをテーブル越しに対面している夏希に向けていると、夏希がニヤッと笑って、つま先を茉莉の細いふくらはぎにすぅーっと這わせた。


「ひぅ!?!?」


「あーらかーわいー」


「ちょ、ちょっと夏希!? 行儀が悪いんじゃないの?」


「あはは、ごめんごめん。茉莉ちゃんの思い詰めている顔を見たらちょっかいかけたくなっちゃってさ」


「もうっ」


「ほんと茉莉ちゃんって身体が敏感だよねー。彼氏楽しそー」


「彼氏なんていないし」


「そっか。今はいないんだっけ」


「昔もいなかったよ。男の子に興味とか湧かなかったし。って夏希は私に彼氏できたことないって知ってるよね?」


「もちろん知ってるって。あたしが言ったのはこれからできるよねって話」


「これからって、何のこと?」


「とぼけちゃって、ホントに可愛い。潮田のことよ、潮田のこと!」


 茉莉はうっすら顔を赤くして、言った。


「晴樹さんは、まあ、気になるって程度だし……」


「でも、高校生の時に言い寄ってきたチャラチャラした上級生とか一度も話したことのなかったメガネのストーカー男に比べたら、良物件でしょ?」


「それは、そうだけど……」


「煮え切らない返事だなー。潮田だってそういう経験ないし、不安に思いすぎないでいいと思う」


 夏希がサバサバとぶった切っていくと、反対に、茉莉は薄氷を踏むがごとく言葉を選んで、言及する。


「とにかく今は晴樹さんと話すのが楽しいっていう気持ちが強いの。会話のテンポが独特なところとか表情が微妙にコロコロ変わるところとか。何と言うか興味深いってイメージかな。誰も知らない晴樹さんの秘密を知りたいってだけなの。だから恋愛と直接結びつくわけじゃないんじゃないかな?」


「それはもう潮田のこと好きなのでは?」


「夏希がそう思うのならそう期待しておけば?」


 茉莉は、自分の実力不足で負けたゲームを運やチームメイトのせいするみたいにそんなセリフを吐き捨てた。


 あれだけ美味しいと唸っていたオムライスよりも先にサラダの方を完食した。

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