三月二十二日 10

 交野、なんだ、生きていたのか……、と夜須は思う。どっちにしろ明日帰る自分に、交野の生死は関係ない。


 交野の声がくぐもって聞こえる。まるで、海底から呼んでいるようだ。どこか狭い場所に閉じ込められているようにも取れる。


 相変わらず空には、ぎらぎらと輝きを増して地上を照らす星々が散りばめられている。辛うじて星の光が、夜須が上っている階段と手すりの上に降り注いでいる。


「おーい、夜須」


 何度も呼ぶ声はまるで壊れたアナログレコードのようだ。記録された音声を何度も流しているように聞こえる。肉声を電子的に記録してブツブツと歯抜けのように情報を抜き取ったから、鮮明ではなく、鈍く籠もった音声になっているのだ、と夜須はぼんやりと考えた。


 階段を上りきった場所に音声再生機があって、そこから交野の声が再生されているだけかも知れない。


 交野はつまらない人生を送ったな、親に死なれて、自分は院にまで行ったのに中途退学し、故郷に帰ってきて行方不明になった。散々だ。自分なら、そんな人生を我慢したりしないのに、と夜須は思った。


 手すり越しに海を眺める。夢の中だと、薄暗い夜の海が美しく見える。空の宝石を映す鏡のようだ。ゆらゆらと海面が揺れて、宝石の輝きもキラキラと眩しく感じる。


 自分はどこを歩いているんだろう、とふと思う。白い案内板があったから、微かに遊歩道のことを覚えていたのだろう。碧の洞窟の断崖に登ったのは二十日のことだ。そのときは交野と一緒に登って、胴塚を見せられた。確か、導線の外には穴があいているから気をつけてと言われて、穴におまえ落ちてみたら、シジキチョウが出るんじゃないか、と交野に言ったことを思い出す。満足かと言われて冗談だと答えたが、面白そうだと思ったことを伝え損なった。シジキチョウのほうが大事だから、それで蝶が見られるなら試しに落ちてみてほしい。あとで助けるから。そんなふうに思いながら遊歩道を登っていった。


 交野は何を思っただろうか。そんなことないさ、とでも言われたかったのか。夜須はそんな交野が哀れに思えてクスクスと笑った。


 足を踏み出したら段差がなくて、かくっと膝が折れた。手すりを握っていなかったら転んでいたかも知れない。体勢を整えると、辺りを見渡した。いつのまにか断崖の頂上に立っていた。


 胴塚のある場所に人影がある。


「おーい、夜須」


 人影がそう呼ばわっている。相変わらず、壊れた拡声器のような割れてくぐもった声だ。まるで魚眼レンズを通した歪んだ視界の中、声は遠くから聞こえてくるのに人影は思った以上に近い。


 夜須はゆっくりと歩を進める。足場は悪く、でこぼこした岩場だ。よろけながら、交野らしき人影に近づいていく。


 暗くてほぼ手探り状態なのに、空ばかり明るくて、地上は淀んだ闇に溶け込んで形も定かでない。おぼろげな断崖とわずかに視界に入る木の梢、星空をくり抜いたように浮かび上がる交野の形。


 何もかもが美しい夢のようなのに、地表に凝る漆黒だけが夜須を呑み込もうとしているように感じる。少しだけ怯んで、夜須は足を止めた。


「おーい、夜須」


 声が再び夜須を呼ばう。


 胴塚の傍らで交野が待っている。何故待っていると分かるのだろうか。暗くて表情も分からないのに、交野が笑顔で待っている。綺麗な顔で、自分をまっすぐに見て、微笑んでいるように思った。


 そう思うと一気に気味が悪くなる。何故、交野は夜須に笑いかけることが出来るのだ。自分に対して、いつまで経っても何をされても、何故笑顔を浮かべることが出来るのか。


 そんな交野に呼びかけられても、気持ち悪さが込み上げてくるだけなのに。何故分からないのだ。何故理解できないのか。おまえは欠片も好かれていないのに、と夜須は思った。


 思った途端、状況の異常さに気付く。これは悪夢だと悟った。背中に冷たい汗がにじむ。これは夢なのだから逃げるなら今だ、と喘ぐ。


 交野の形をした影の縁が、ぞわぞわと蠢いている。あれは、何かが凝り固まって出来た交野の似姿だ。交野であって交野ではない何かだ。そう思い至った。膝が笑い出す。腰が抜けてしまいそうだ。恐怖がくるぶしを掴み、動くことが出来ない。


 暗いはずの風景に赤く色が点る。赤い色は影の中心に集まってざわついている。徐々に赤い色が広がっていく。黒い縁を残して赤い色に染め上げられた闇が立っている。いつ形が崩れてもおかしくないほど、不安定な影だ。


 その影がおぼつかない歩き方で、夜須に近寄ってきた。


 夜須は、必死で足を動かして後退る。すり足でしか移動できない。でこぼこした足場に何度もよろめいた。


 影の頭がいきなり大きくなった。二倍にも膨れ上がって、今にも夜須に覆い被さりそうだ。シジキチョウがひしめき合って群れているのがはっきり見えた。赤い群生が渦を作り、ぽっかりと暗い穴が顔の中心に空いた。黒い、へこんだがらんどうの奥底から這い上がるような交野の声で、「オーイ、ヤス……」と音が聞こえた。まるで半笑いのような声音。


 穴の開いた顔が距離を無視して、ぐぐぐっと首だけ伸ばして目の前にまで迫った。夜須は声にならない声を上げた。


「オーイヤス……」


 黒い穴から声が湧き出す。シジキチョウが隙間なく群れて、人の形になって、夜須の前に来た。


 目を覚ませ! と夜須は願った。これは悪い夢だ、早く目を覚ませ! そんな夜須の願いも虚しく、シジキチョウの群れが夜須を包もうと広がり始めた。


 後退る足をいきなり掴まれて、夜須はぐいと力強く引っ張られた。そのままうつ伏せに倒れ込み、岩場に顔面を強打する。


「ぎゃ」


 鼻が折れ、前歯が弾け飛んだ。夜須の口から血が噴き出た。目が開かない。真っ暗だ。夜須はパニックになって叫んだ。鋭い岩の欠片が、夜須の目に瞼を貫いて刺さっている。掴まれた足が穴に引きずり込まれる。


 夜須は必死で手元を探って、爪を立てて抵抗した。ガリガリガリと爪が岩に引っかかって剥がれていく。


 必死で叫びながら手足をばたつかせて抗うけれど、足場に空いた狭い穴に少しずつ落ちていく。


「ヤス……」


 耳元で低い男の声が聞こえた。恐怖に駆られて叫ぼうとするが、喉が引き攣れて声が出ない。腰に腕が絡まり、すでに穴の中に腰まで引きずり込まれている。


「モウハナサナイ……」


 雑音の混じる、夜須にしか分からない音が耳元で聞こえた。


 夜須は何度も絶叫する。穴は狭すぎて、引きずり込まれる度に鈍い音がした。


 腰に巻き付く腕だけでなく、首にも腕が回されて、耳元で嬉しそうな女の声が囁く。


「ワガネガイカノウタ」


 グイッと夜須の首が掴まれ、そのまま穴へと沈んでいく。岩に押し潰されて、体中の骨が砕けていく。


「ぎゃあ!」


 絶え間なく勝手に喉から絶叫が漏れる。痛みと混乱で夜須は意識を失い、痛みで気付いては、また激痛に叫んで失神する、を繰り返す。


 赤いシジキチョウが形作る人型がほどけ、宙に散ると、片手で岩の縁にしがみついている夜須に群がった。シジキチョウの口吻が容赦なく夜須の皮膚に突き立てられる。関節が白くなるほど岩を掴んでいた力が抜けて、そのままシジキチョウと一緒に夜須は穴の奥へ消えた。穴から、ひとしきり悲鳴が聞こえていたが、やがて静かになった。


 ひらひらと風に揉まれるように小さな赤い蝶が、穴から舞い飛んで消えた。

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