三月二十二日 6
夜須はもつれる足で石段を駆け下り、港まで出てきた。何度も後ろを振り返って、てふが追ってきてないか確かめた。
幽霊や怨霊などと言う超常現象など、存在しないと信じたい。今は存在を否定することで、自分の身に起こったことがなくなるのではないか、と考えようとしている。否定しなければ、和田津の恐ろしい側面を認めてしまうことになる。シジキチョウが存在すると信じなければ、得体の知れないものが身近に息づいていると認めなければならない。
この島に、最初に来た時の興奮が、乾燥してもろくなった土のように手の中で崩れていく。蝶に自分の名前を名付けるのだという憧れもが、跡形もなく叩き潰された。
それなのに、まだシジキチョウに執着している自分がいる。シジキチョウが溶けてなくなってしまったのは腐乱した死体の臭いが自分に見せた幻覚かも知れない。
蝶が人型に集合して夜須に襲いかかるなど、ありえない。
締め殺しの木に何かがぶら下がっていたのを見て、ショックでありもしない幻覚を見たのか。あの人型の何かは蝶ではなく、人間だった可能性もある。
井戸の中を見たあと、夜須は締め殺しの木を確認しなかった。名前を呼ばれたと思い込んで、みっともなく逃げ出した。
しかし、屋敷に一人で戻って確かめるのは、とてもじゃないが出来ない。その反面、あれが全部幻覚だとしても、自分だけが見たものだと思いたくない。だれかに見せて、自分が見たものが幻ではなく現実だと証明したい。
締め殺しの木にぶら下がっていた人間と、井戸の腐乱した首を見て、錯乱して蝶が人の形を取ったという幻覚に惑わされたのだ。
本当に人間が首を吊っていて、井戸の首も海難事故で亡くなった人間のものかも知れない。まさに二十二日の夜に起こった悲劇の犠牲者の首なのだろう。
女の首もたまたま目が開いたのだ。腰を抜かすほど驚いて、背後に人がいるように勘違いしたのだ。錯乱すれば誰しもありもしないことが、本当にあったことと勘違いする。自分もそれだったのだ。
だとしたら、夜須はこのことを島民のだれかに知らせる義務がある。全て自分の幻覚でないとしたら、確実に死体はある。
島民に知らせて、案内するために惣領屋敷に戻るのは厭だが、こうも考えられる。
交野が夜須に当てつけで、自殺したのだ。ただし、祟られて死ぬという解釈は困る。
一年前、夜須は交野の性的指向をゼミの仲間に言いふらしてあざ笑い揶揄した。交野は研究生になりたくて院に進んだが、夜須の行いに酷く傷つき、院を中退して故郷の島に戻った。志半ばで夢を諦めたのだ。
夢を奪われて、交野は夜須を恨んだろう。夜須からしてみれば、そんなつまらないことで傷ついて、当てつけで自殺する奴のことなど同情しようもない。勝手に死んでくれ、と思った。
夜須に復讐するためにシジキチョウを餌にして、この島に夜須を招いて、挙げ句自殺した。たちが悪い。病的だと思った。
交野は夜須に復讐したくて、まるで消えてしまったかのように見せかけて山かどこかに隠れ、日が暮れた頃合いに締め殺しの木で首を吊ったように見せかけた。
どうやって幻覚を見せたかまでは分からない。超常現象だと思わせて、夜須の感覚をおかしくしたのも交野だ。
「俺は引っかからないぞ……」
言い放ったあと、鼻で笑った。
みっともない格好で石段に座り込んでいたが、落ち着きを取り戻して土を払いながら立ち上がった。
どうやったかは知らないが、夜須を震え上がらせたのだから、交野の復讐は上手くいったのだろう。
種を明かしたらなんと言うこともない。みっともなく逃げ惑った自分が恥ずかしく、そうさせた交野を憎いと思った。
民宿かんべに戻り、夜須はかんべの親父に惣領屋敷でのことを話して、首と死体の確認をしてもらおうと決めた。
できるだけ大勢で確認してもらい、自分の考えを肯定して欲しい。恐ろしい幻覚は全て夜須の勘違いだったと証明してもらいたかった。
港にはまだ観光客がいる。釣り客が夜釣りの準備をしている。チャーター船を貸し切り、沖合でカツオかマグロか、巨大な魚を釣るつもりなのだろう。親子が港を散歩している。夜空に輝く無数の星を指さして楽しそうに談笑している。
きっとこの中のだれかが、御先様の祟りで海に牽かれるのかも知れない。それも明日の朝には分かることだ。自分は朝の七時に出る、定期船に乗って宿毛市の片島港へ渡る。大学に戻ったら、二十四日の研究論文発表会で、七人ミサキに関する論文のスピーチをするのだ。
シジキチョウのことが気にかかる。今回はたったの四日間で調べなければならなかった。今度来るときは万全の準備をして、シジキチョウに挑もう。
手の中で溶けたシジキチョウのことがふと脳裏をよぎる。これも強烈な腐臭が見せた幻覚だ。現実にあるわけがない。夜須は自分の手を見た。血のような液体はどこにも見当たらない。
港に吹き付ける海風が冷たくて、ブルゾンのポケットに手を入れる。すると、乱暴にポケットに突っ込んでいた、わだつ日記に気がついた。鍾乳洞の地図もしわくちゃだった。
かんべに戻ったら、惣領屋敷をかんべの親父に見に行ってもらい、自分は部屋でゆっくりとこの日記を読もう。昼間、パラパラとめくっただけで、内容を全て頭に入れているわけではない。昼間は見落としたシジキチョウに関する記述がどこかにあるかも知れない。
かんべの看板が掛かった建て屋の引き戸のガラス格子から、煌々と明かりが漏れている。明かりがあることに安堵を覚える。ずっと心の片隅に籠もっていた感覚が徐々に薄らいでいった。
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