屍喰い蝶
屍喰い蝶 1
その年、初夏に入っても雨が全く降らなかった。日差しだけがかんかんと照りつけ、
いつも豊かな清水をたたえていた井戸も今ではからからに乾き、つるべから落とした桶が底に当たって虚しく音を立てる。
仕舞いには乾きに勝てず、海水を口にして、幼い者から順に死に始めた。
島民は、そのうち雨が降るだろうと高をくくっていたが、魚が捕れなくなったのを機に焦り始めた。海だけはいつまでも糧を与えてくれると信じていたからだ。
「どうする、父ちゃん。このままじゃ、わしら、
惣領の息子、
魚を探して小舟を沖合まで出しているおかげで、誰からもこの話を聞かれる恐れはない。
「魚も獲れんきな」
「なんで魚が捕れんがじゃろう。畑や山が枯れるがは雨が降らんせいやきわかるが……。海には水が溢れちゅーのに」
「そがなん、わしが知っちゅーわけがないろう!」
恒世が空腹でいらだっている。それは火丸も一緒だ。
「そがなんくらいで
火丸に怒鳴られて、しばらく恒世は口を閉じた。
半日海に出て、二、三匹小魚が釣れたときは、誰にも知らせずむしゃぶりついた。
他の子舟がいるときでも二人は黙って食べたが、他のものが獲ったときは持ち帰り、領主への献上物として干物にした。
惣領親子が島の食料を牛耳っていたせいもあり、和田津集落で暮らす島民は、島にそびえるこうべ山に入って木の実や食べられそうなものを探し回った。ただし、和田津の反対側の大浦集落で暮らす島民も同じように山に入って食べられそうな糧を探していたせいで、両者が山でかち合いケンカになることもしばしばだった。
そんなときに火丸がいると争いに火が付き、両者に何人か死人が出た。
大浦の民が逃げ去ったあと、死人を見下ろし、和田津の民は途方に暮れて、火丸にどうすると訊ねた。火丸は考えるまもなくすぐに、「持ち帰れ」と命じた。持ち帰った挙げ句、恐れる島民に死体の肉を焼かせて、食い物だと食べさせた。
それが、たった半年の間に起こったのだった。
いよいよ、飢餓は収まるところを知らず年々酷くなった。
惣領親子でさえも痩せさらばえ、島民も冬に死ぬものが子供の順に一人二人と増えた。仲間が飢えて死ねば、その肉をしゃぶり、皆、餓鬼のような風貌を成した。誰もが死ねば地獄に行くだろうと思っていた。しかし、食べねば死ぬしかなかった。
飢饉になって一年が経った頃、早朝に貝を捕りに行った島民が、慌てた様子で走って戻ってきた。
「碧の洞窟にとんでものうでかい魚が揚がったぞ!」
騒ぎを聞きつけた火丸もやってきて、案内をさせた。
碧の洞窟どころか、その一帯に腹を見せて魚が一頭横たわっていた。火丸は言葉をなくしていたが、やがて呟くように言った。
「
痩せさらばえた体のどこにこんな力があったかと思うほど、素早く全ての和田津の島民が集い、めいめい刃の長い包丁を使ってさばき始めた。
幾時捌き続けたか分からない。気付けば深更も過ぎた頃合いで、臓物を腑分けしていた男が火丸を呼んだ。
「こりゃ何や? ちっくと見てくれ」
なんだなんだ、と周りにいた連中もやってくる。
玉状の、人の頭より大きなものが、臓物の間に埋まっている。黒い玉で中心に行くほど赤い。臓物の一部や、と言うものもいれば、間違えて呑み込んだ宝玉みたいなものやないか、と言うものまでいた。
「そがなんはどうでもええ。とにかく、卵かもしれん。これは保存が利かんき、喰うてしまおう」
火丸の言い分に皆が同意して、割ることになった。小屋から鍋を持って来て、内臓から玉を切り取り、鍋に入れる。ぶよぶよとして、弾力がある。しかも、中の赤い部分がゆらゆら揺れているように見えた。
生きているものだというのは見ただけでも判別できた。包丁を構えた火丸が、慎重に刃を入れる。ぶりっと割けたと思った途端、皆の視界が真っ赤に変わった。
その場にいたもの全員、悲鳴を上げて腰が抜けたようにひっくり返った。火丸も一瞬気を失ったようになる。
次に気付いたときには鍋の中の卵はなくなっており、いつの間にか小さな赤い蝶の群れが巨大な魚の周りで舞っていた。
「蝶?」
不思議そうに皆、赤い蝶に見とれていた。蝶はますます数を増して、縦長に寄り集まり、渦を巻いた。
次第に中心が赤く、外側が黒い人型のものに
慌てて火丸は辺りを見回したが、蝶は跡形もなくいなくなっていた。
「ありゃ何やったんじゃ……?」
皆が呆然としている中で、一人が蝶は洞窟へ入っていったと指さした。
満ち潮のため、海水で満ちる洞窟に入るためには、潜っていかねばならない。潜るか潜るまいかと話し合っていると、火丸が、「そがなのはどうでもええ。勇魚を早う切り分けろ! 腐ろうが!」と急かし始めた。
皆、また、まだ半分も解体していない巨大な魚を切り刻むことに集中した。
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