三月二十一日 4

 その足ですぐ近くにあるアクアマリンへ向かった。


 すでに他のツアー申込者は集まっていて、レンタル品を選んでいる。シュノーケリングセット、フィン、洞窟内で使用するライト等、中にはグローブとマリンシューズまであったがそれは商品だった。


 まさか海に潜る想定をしていなかったので、夜須はグローブなどを一揃い買った。結局、レンタル品も一式借りた。虫を入れる瓶やピンセットなどの道具類を防水するために、店長から密閉式の容器袋をもらいそれに入れた。


 店長に何度も水中カメラの性能を訊ねる。とりあえずこのメーカーの初心者用がいいと勧められたが、持参していた普段使っているカメラと同じスペックのものを欲しかった夜須は、レンタル料金が高めの商品を選んだ。


 干潮になる十四時まで講習を受け、ボートで碧の洞窟の近くまで行き、岩礁に乗る手前で止めて、トレーナーの指導の下、おのおの海に入った。


 まだ泳ぐには冷たいが、芯から冷える寒さでもない。数人が、トレーナーの指示に従い、碧の洞窟まで泳いでいく。


 青く澄んだ海面の底にはゴツゴツとした岩礁があり、そこから徐々に光の届かない深みへ続いている。


 普段泳ぎ慣れていない夜須は、潮の流れに押されて、少しずつ深みを漂い始めた。どのくらいの深さなのか分からないだけに、もう少し強くフィンで水を掻けば、皆のいる浅瀬にたどり着くだろうと思った。


 足下をさぁっと冷たい海流が押し寄せてくるのを感じる。


 流れが違う。冷たい海水が足の周りにまとわりつく。満潮時は潮流が激しくなる、と言う言葉が頭をよぎる。干潮時なのに、激しい潮流に巻き込まれたのか。今自分の足にまとわりつくのはその潮流か、と夜須はぞっとした。


 そのときになって慌てて水を掻いて前へ進もうとするが、まるで足首を何かに掴まれているように進まない。少しずつ、深みへと引き込まれていく。


 何度も引きずり込まれて水中に目を向ける。浮かび上がり沈むごとに夜須はどんどん沖に流されていっている。もう視界は透明な海ではない。光の届かない暗闇が足下に凝っている、恐ろしい海だ。


 何かが足に絡まって、夜須を引っ張って溺れさせようとしている。思わず、足下を見た。暗い水底から手が伸びてきて、夜須の足を掴んでいた。


 叫び声を上げた途端、ゴボゴボと空気が口からあふれ出す。


 夜須は懸命に水を掻いた。まるで初日に見た夢のようだ。海水が口の中に入ってくる。鯉のように口を水面に出してなんとか息をする。


「おーい!」


 遠くからトレーナーの声がして、ぐっと脇を掴まれた。


「大丈夫ですか!」


 気付けば、岩場の浅瀬に手を突いていた。ゴホゴホと咳き込みながら、夜須は何が起こったのか思い出し、慌てて自分の足を見る。


 足には海藻が絡まりついていた。それは手ではなかった。


 荒く息をしながら、海水が気管から出るのを待って何度か咳をした。何度も足をさすって、あれは何だったのか、それともこの海藻だったのか、考えがまとまらない。


 トレーナーが心配そうに夜須に声をかける。


「お客さん、もう今日はやめますか?」


 夜須は自分がいた位置を確認した。遠浅になっていて、引き上げられたとき夜須はまだ浅瀬にいたのだ。海藻が足に絡まって驚いた自分は、パニックになって、浅瀬で溺れそうになり、その際に手と海藻を見誤ったのだろう。


 途端に全身に火が付いたように恥ずかしくなった。なんと無様な様子だったろうか。それを一部始終見られていたのだ。今ここで自分がやめると言ったら、彼らは夜須のことを臆病者だと思うだろうし、馬鹿にするかも知れない。


 夜須は平然とした態度を取り、「続けます」と告げた。


「本当に大丈夫ですか? 休まれてもいいんですよ」


 休めば、もう二十三日しか日にちがなくなってしまう。それではすでに遅いのだ。


 夜須はどうしても洞窟の中が見たい。


 パニックで海藻と手を見間違えたくらいで、シジキチョウを諦めたくなかった。


 深く暗い海底はいまだに膝が震えるほど怖いが、目の前に碧の洞窟の入り口が開いているのを見ると、何もせず引き返すのはもっと恐ろしい。二度とチャンスはないような焦りに襲われた。


 今日と明日だけは、シジキチョウのことだけを考えて、二十三日の朝には何の心配や心残りもなく、本州に帰りたい。


「大丈夫です」


 それでもトレーナーの後ろを恐る恐る進みながら、岩場に足をかけて、ようやく碧の洞窟の入り口にたどり着いた。陸地と変わらず歩いて入っていける。身軽なシュノーケリングだからこそ、移動がたやすい。


 腰に下げた袋から防水カメラを取り出し、まずは碧の洞窟の入り口を撮影した。他のツアー客もそれぞれカメラで景色を撮ったり、集合写真を撮ったりしている。


 トレーナーは観光ツアー客に碧の洞窟の説明をし、代わりに写真を撮る対応に忙しそうだ。


 夜須は自分の背丈より高い洞窟の内部に入っていく。袋からライトを出し、中を照らす。洞窟だからとても暗いと勝手に想像していたが、意外と天井から光が漏れて内部に差し込んでいる。内部の壁面にはいつもどのくらいの水位まで海水が来ているのか一目瞭然だった。もし満潮になれば、水位は夜須の背丈より高くなる。確実に溺れてしまうだろう。


 足下を見ると、外にある岩場と違い、小さいながらも岸がある。砂浜の白い砂は、貝が摩耗して砂状になったものだろう。鍾乳洞が貫通してできたと言うだけあって、砂に埋もれた石筍せきじゅんがあちこちに形成し、洞窟の奥まで続いている。ふと石筍の根元に人工的な四角いものを見つけた。


 四方二十センチほどの石の箱状のものだ。それが横倒しになっているように見える。


「それが蛭子神の祠ですよ」


 突然背後から声をかけられて、夜須は飛び上がらんばかりに驚いた。


「祠……。綿津見毘女命わだつみひめのみことじゃないのか」


 トレーナーが夜須の様子を伺いに来たのだろう。


「蛭子神だと思いますよ」


 この祠の本来の祭神が綿津見毘女命だと言うことは一般的に知られていないのだろうか。


「ここに二十二日になったらひるこさんが上がるって聞いたけど」


 すると、トレーナーは困ったような笑みを浮かべた。


「他のお客さんには言わないで下さいね」


 あまり触れてほしくない話題だったらしく、ちょうど良く呼ばれたのをいいことに、トレーナーは夜須から離れていった。

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