三月十九日 4

 何気なく交野に見たこともないねじ曲がった木のことを聞いた。


「ああ、あれはアコウの木言うがよ。他の木に寄生して締め付けるように枝を伸ばした挙げ句に、宿主の樹木を枯らしてしまうがよ。もうずいぶん大昔からある木なんや。ぼくが子供の頃ぶら下がって遊んでもびくともせざった」

「へぇ、初めて聞いた。じゃあ、隣の井戸は今も使っているのか?」

「あの井戸は地下水に海水が混じってしもうて、使えんなった今は蓋をしちゅーんじゃ」

「隣の石は、なんか謂われでもあるのか?」

「あれは塚や。やけんどなんの塚か分からん。曾祖父の代にどこからか持って来たらしいけど」


 何の塚か興味が湧いたが、日も暮れた暗い中、明かりもなく確かめるのも面倒くさいと思い、それ以上訊ねるのをやめた。


 夜須は交野に連れられて屋敷に来たとき、門扉の前で彼が説明してきた揚羽紋のことを思い出す。平家の落人が交野家の先祖だという話。

 実にくだらない作り話だと思った。歴史のある家柄だとでも言いたいのだろうか。

 ならば、夜須自身も血統のいい生まれだ。それを誇示するように、酒の勢いもあって、夜須は自慢し始めた。


「交野、おまえがさっき言っていた平家の落人だの子孫だのと言う話は騙りだ。揚羽紋なんぞ、いくらでも捏造して勝手につけることができる。それに比べると、俺は官軍側の源氏の子孫だ。実際に土佐一帯を治めていたんだぜ。だいたい、志々岐島や鵜来島は当時流刑地だっただろう。罪人の子孫の間違いじゃないか」


 夜須はそう言って、おかしげに大きな声で笑った。


 その姿を交野が感情の籠もってない瞳で見ていたが、おもむろに立ち上がって、空になった皿を下げ始めた。


 そろそろ寝ようと言うことになり、夜須はほろ酔い加減で客間に戻り、すでに敷かれた布団に潜り込んだ。

 疲れ切って、風呂に入る気がしなかった。明日の朝、出掛ける前に一風呂浴びればいいと、目をつぶった。


 足が重い。重いと言うより、何かに掴まれている。掴まれて、ぐいぐいと引き込まれているのが分かる。


 口からコポコポと空気が漏れてゆらゆら揺れながら頭の上へ浮いていく。上を見ると明るく白い輝きがあった。


 空気の泡はそこに向かって上がっていく。


 ここは水底なのか……。夜須はキョロキョロと辺りを見渡す。ざらついた岩場に取り囲まれ、上は明るく、下は暗くて冷たい。

 闇がわだかまって、触手を伸ばし夜須の足首に絡まっている。


 夜須の背筋に怖気が走る。言葉にできない焦りと恐怖がせり上がってくる。掴まれていない方の足で、懸命に黒い触手を蹴りたくった。

 触手は夜須の足首と同化しているように、びくともしない。


 もはやこのまま水底に引きずり込まれるのかと絶望したときに、足下から、血のように赤い塊がゆらりと上ってきた。

 眺めているうちに、自ずとそれがシジキチョウだと理解する。


 ゆらゆらと水の中をシジキチョウが舞い、次々と浮いてくる蝶と絡み合う。

 数え切れないほどの蝶がぎゅっと凝縮し、夜須と同じくらいの大きさに膨らんだかと思うと、人型を形作った。

 その赤い蝶が渦を作りながら蠢き、ざわついている。


 けれど、念願のシジキチョウだと、夜須は思わず手を伸ばした。伸ばした指先がシジキチョウに触れそうになったとき、もう一度足を掴む手に引き込まれた。


 グイッと勢いよく引き込まれた弾みで、水流が起こり、赤い蝶の群れがざわめいてバラバラにほどけた。


 人型が崩れて蝶が霧散した後に、青黒く膨れ上がったものが現れた。

 細かな穴が開いたその塊には手足が付いていて、あるべき所に首がなかった。

 引きちぎられた気道と食道、白い頸椎が露わになって、グズグズと崩れた断面から茶色い液体が水と混じって漏れ出ている。


 ゆらゆらと浮かぶ首無しの死体のあちこちに穴が開いて、蝶が貪った痕がある。


 ゴボゴボと夜須の口から空気が溢れ出し、肺の中の空気を最後まで吐いた。苦しくて仕方なく、息を吸えば水が肺に入ってくると分かっていながら、思い切り水を吸い込んだ。


 心臓がひときわ激しく脈動して、息も荒く夜須は目覚めた。しばらくヒイヒイと呼吸を繰り返した。肺がひりついて痛い。


 そのうち落ち着きを取り戻して、目を凝らす。目の前に天井があり、天井から下がる電灯が見えた。豆電球がオレンジ色の光を放ち、部屋をわずかに照らしている。


 夜須は自分が布団の中にいることに、ほっと安堵のため息を漏らした。全て夢だった。


 猫のようなか弱い泣き声が障子の向こうから聞こえてくる。ふと目をそちらに向けると、閉め切られた障子の向こう側に人影があった。


 赤ん坊のぐずる声と、胸に赤ん坊を抱いて揺すっている揚羽の影。


 夜須は上体を起こして、しばらくその影を見ていた。なかなか泣き止まない赤ん坊に苛つき、他であやしてくれと言おうと思い立ち、布団から出て障子を開けた。


 そこには誰もいなかった。微かに聞こえていた赤ん坊の声もない。


 寝ぼけていたのだろうか……。目を何度も擦り、縁側の左右を見渡すが誰もいない。わけもなく背中がぞくりと粟立った。同時に寒さが足下から這い上がってくる。


 変な夢を見たせいだろうと、もう一度布団に入り直して、眠ろうと目をつぶった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る