三月十九日

三月十九日 1

 高知県宿毛市にある片島港から志々岐島への午後の定期便は十四時三十分の便しかなく、直行便を含め一日たったの往復二便であることに、夜須は正直驚きを隠せなかった。


「ド田舎じゃねぇか……」


 陸の孤島ならぬ、まさに絶海の孤島である。片島港から沖の島を望めても、その向こう側にある志々岐島までは視界に入らない。


 交野の言うとおり、シジキチョウが未確認の蝶だと確定しているわけではないし、宿毛市の志々岐島に関する言い伝えを調べても、御先様なる伝承は皆無だった。


 その代わり、隣の島、鵜来島うくるしまにはミサキという妖怪がいるらしいと言うことは分かった。だが、シジキチョウに至っては何の手がかりもない。


 行ってみて無駄になるのか、思った以上の収穫になるか未知数だ。


 定期便に乗り込み、約一時間半、高速艇に揺られることになる。船内の窓際に座り、小さな船窓から海と空のあわいを眺める。


 そのうち船のスピードが増し、激しい波飛沫に窓面が洗われて景色は霞んで見えなくなった。


 春休みとあって、観光客で船内は満員状態だった。沖の島や志々岐島、果ては鵜来島へ、釣りやダイビングなどを目当てに家族連れや友人同士のグループが楽しそうに話をしている。


 夜須はそれらをうるさそうに横目で見た後、目をつぶり、シジキチョウについて考えを巡らせた。


 初めてシジキチョウについて聞いた通り、食性が肉食ならば、ゴイシシジミの亜種もしくは新種かも知れない。


 ゴイシシジミに真っ赤な翅を持つ個体はいないが、シジミに赤系統の翅を持つものは、やはり思い出してみてもアカシジミ、ウラギンシジミ、ベニシジミくらいしか思い当たらない。


 アカシジミに至っては赤と言うよりもオレンジ色と言っていい。


 ゴイシシジミには独特な斑紋があるが、シジキチョウにも斑紋はあるのだろうか。もしも斑紋がないのであれば、肉食性のムモンアカシジミの可能性も出てくる。


 それよりも、三月二十二日前後で成体が観られるならば、推定できるどのシジミの羽化時期ともあわない。


 そう考えただけで、夜須は期待に胸が昂ぶり、早く志々岐島に上陸したいと気がはやる。これほどに興奮するのは久しぶりだ。


 研究対象だった七人ミサキで独自の考察に至ったときですら、これほどの高揚とした気分にはならなかった。


 シジキチョウの雌雄の成体を捕まえて、是非標本にしたい。美しい蝶を手に入れて、自分の名前をつけたい。幼い頃からそれが夢だったのだ。蝶を追うことはロマンであり、美しい儚い姿を自分だけのものにしたいという欲望でもあった。






 十六時過ぎに、ようやく和田津港に船は到着した。


 港に降り立つと、船の中では感じなかった磯の香りが鼻を突いた。


 塩気のある海の香りは本州の海岸のほうが淀んでいるが、志々岐島の海の匂いにはそれがなかった。


 船着き場に渡された足場の板から見下ろす海の色も澄み切って、海の中の岩場や浅い水底まで見通せる。


 ここから眺める水平線にはいくつかの磯場が見えるだけで島の影もなく、このままずっと太平洋が広がっているのだ。


 港の防波堤に点々と釣り人の姿があり、間口を広くとった小洒落たマリンショップも見られた。


 港にある家々の前には干物やイカが干してあり、漁に使う網から魚を取り除いている年配の女性や男性がトロ箱に座って作業していた。


 この時期で楽しめるグルメはキビナゴ料理だとガイドブックには書いてあった。


 船着き場の両端に伸びる沿岸には何隻も小型漁船が停泊している。港に戻ってきたばかりの船もあるようで、何やら人集りができている。


 地元の漁師達の歓談が、潮風に乗って少し離れた場所にいる夜須の耳にも聞こえてくる。


 どうも『ひるこさん』と『豊漁』、『シジキチョウ』のことを話しているようだ。


 夜須は『シジキチョウ』という単語に惹かれるようにして、彼らの側に寄っていった。


「すみません、シジキチョウがどうかされましたか?」


 いきなり見ず知らずの男が話しかけてきたのを怪しんだ漁師達は、急に黙りこくってジッと夜須を見つめた。


 若い漁師だけが仲間と夜須を交互に見ている。何か言いたげだったが、漁師のひとりが答えるのを見て、口をへの字に結んだ。


「あんた、観光客? 別になんにも話しとらんよ。ごとごとゆっくり、志々岐島を楽しんでいっとーせ」


 彼らの浮かべる表情からは、どこか部外者を疎んじているような、排他的なものが感じられた。わざとらしい笑顔が気に入らない。


 半ば邪険に追いやられて、夜須は不機嫌になった。


 何故彼らがシジキチョウのことを教えたがらないのか、わからなかった。


 島の生態系を弄られたくないのか、それとも交野が言っていた水死体を喰うという話と関係するからなのか、どちらとも見当が付かなかった。


 定期船乗り場まで戻り、辺りを見渡したが、まだ交野は来ていなかった。


「迎えに来ると言ってたくせに……」


 自然と悪態が口を突いて出た。


 夜須は改めて、港中に目を向ける。一応、観光ガイドなどで志々岐島のことは調べてきていた。


 島の暮らし百景にも選ばれただけあり、石を組み上げた石垣が目につく。


 石垣と石垣の間の坂道はほとんどが石段で、細い路地になっている。


 軽トラックが通れるような幅の道路は石垣が途切れた左端にあった。


 二股に分かれており、案内板によると、その片道の先に行けば胴塚と大浦集落にたどり着くらしい。


 券売所の女性ならば、シジキチョウについて何か知っているかも知れないと思い、夜須は券売所へ足を向けた。


 券売所の中は集落の休みどころになっているようで、数人の老人がベンチに座り、楽しげに話をしている。


 券売所の女性も事務所のドアを開いて、中年の女性と話し込んでいる。


 夜須は躊躇もなく、券売所の女性に話しかけた。


「すみません、シジキチョウはどこに行けば見られますか」


 不意に話しかけられて、女性ふたりは目を丸くして夜須を見上げた。観光客のひとりと判断したのか、中年の女性が答える。


「去年は見たけどねぇ……」


 シジキチョウは一年中見られる蝶ではないのだろう。越冬できないのかも知れない。


「さっき、漁師のかたがシジキチョウがどうとかひるこさんがとか、豊漁って話してたんですが」


 それを聞いて、ふたりとも顔を見合わせて「ああ」と頷いた。


「たまに水死体が上がるがぜよ。別にうちの島に上がるんやないがよ。潮に流されて漁をしとる網に引っかかるがよ。ひるこさん言うてね、海で溺れて亡くなった人のことを言うが。やけんど、豊漁になる言うんはねぇ? どうなんやろう。いつも豊漁というわけやない思うけど」


 水死体が上がると豊漁になると、漁師達は話していたのだろう。けれど、券売所の女性達はあまり信じていないようだ。

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