青と黄色で緑になった

朝香トオル

第1話

 稲垣穂波いながきほなみがその男を拾ったのは金曜日の夜だった。

 ちょうどパートナーとの別れを選択した後だったこともあり、細々とした仕事を引き受けることで気を紛らわせていた。そして、同僚たちよりも少し遅れて会社を出ようとしたところで、会社のエントランスにうずくまっている男を見つけた。


「……?」


 その男を稲垣は知っていた。隣の部署にいる稲垣の同期の久世李織くぜいおりだった。隣の部署といってもたまたま物理的に隣にあるだけで業務内容は全く異なる。そのうえ、同期といっても稲垣は四大卒、久世は高専卒だったため、共通の話題も少なく、入社以来互いに話す機会はあまりなかった。


「おい、大丈夫か」


 体調が悪いなら救急車呼ぶか、と声をかけようとしたところで、稲垣は一つ思い当たることがあった。


「久世」


 もう一度呼びかけて応答があるかを確認する。呼吸は正常だったが、呼びかけに答えない。焦点は合っているようで、合っていない。


「……ドロップか」


 だが、このまま会社のエントランスに放置しておくわけにもいかない。仕方なく、稲垣は端末で近くのビジネスホテルを予約して、背負っていた自分のリュックを身体の前で抱えると、久世を背負った。


 この世には、男女以外にDomとSubという二つの性別にも似たシンボルが生まれながらに付与される。このシンボルがいつから存在したのかは不明だ。大抵の人間は思春期の訪れとともに、自分のシンボルを知り、成人までに徐々にそのシンボルの性質となじんでいく。

 Domは支配階級に属し、Subは被支配階級に属する。おおよそはこの程度の認識であるが、実際には共依存に近い関係を築くことに他ならない。DomもSubも互いに相手がいない期間が続くと心身ともに不調をきたす。おそらく久世もそういう不調なのだろうと稲垣にはすぐにわかった。

 稲垣はかなりDomとして欲求が強い体質であり、先日までパートナー関係にあったSubからも「要求が強すぎて付き合いきれない」と別れを宣告されたばかりだった。今すぐに誰かと付き合わなければいけないほど調子が悪いわけではなかったが、目の前で調子の悪さに苛まれているSubを見過ごすのも、どうにも尻のすわりが悪かった。


 ビジネスホテルの部屋についても、久世は稲垣の呼びかけには応えなかった。くったりと稲垣に体重を預けたままの久世に小さく舌打ちをする。フロントの人間は久世の具合が悪いと判断したのか「良ければどうぞ」と言ってビニール袋を稲垣に持たせた。


「久世、わかるか?」

「……ん、誰……?」


 ひとまず返答があったことに安心して、稲垣は久世にさらに話しかけた。


「応急でケアをする。普段決めているセーフワードがあれば言ってくれ」


 DomとSubの間で行われるプレイには、Subを守るために必ずセーフワードが設定される。Domのコマンドがすべての空間において、Subの身を守る唯一の手段だった。


「……せーふ、わーど」

「そうだ」


 稲垣の言葉に久世はこてん、と首を傾げた。その仕草に、想定外のいとけなさを見てしまい、うっかり支配欲を募らせそうになった。稲垣は慌てて自分にセーブをかける。


「思い出せないなら、俺が決めるぞ」


 稲垣がそう提案すると、久世はうん、と小さくうなずいた。










次の朝、久世が目を覚ますと知らない天井がまず目に入った。

 一瞬、見知らぬ人間と同衾したか、と飛び起きて周囲を確認する。ツインの部屋だったようで、自分と同じベッドに人間はおらず、ホッと胸をなでおろした。だが、隣のベッドで穏やかな寝息を立てている人間を認識した瞬間、なでおろしたはずの胸が全力で騒ぎ始めた。

 ――どうして、稲垣さんが?

 久世は全力で昨日の自分の行動を思い出す。


「あ」

 会社から出て、帰る途中でパートナーだと思われるDomとSubが言い争う現場に出くわしたことを思い出した。興奮したDomの発する言葉と雰囲気に威圧されて気分が悪くなり、自宅に帰るよりも会社に引き返す方が近いからよいだろうという考えに至って引き返した。


 ――放っておいてくれてよかったのに。


 会社のエントランスに入ったところまでしか記憶がない。見てみぬふりもできただろうに、アフターケアをしてくれた。そのおかげか悪夢から覚めたような気持ちはまったくなく、むしろ最近の中では一番の爽やかな目覚めだった。

 とはいえ、このままここで稲垣が起きるのを待っていられなかった。宿泊代金もきっとすべて稲垣が支払ってくれている、と久世は推測し、慌てて自分の財布の中身を確認した。給料日を過ぎたばかりで、ある程度まとまった現金を引き出していたこともあって、宿泊代と御礼を払っても大丈夫そうだった。久世は、部屋備え付けのメモ帳に『稲垣さんへ 助けてくれてありがとうございました 久世』と書いてその下に財布の中の一万円札を三枚置いた。本当ならば起きてきた稲垣に直接礼を言うべきで、金を置いていくべきでないのはわかっていた。だが、直接礼を言う勇気を残念ながら久世は持ち合わせていなかった。もうずっと前から、プレイをしてみたい、出来ればパートナーになりたい、と思っていた人間に、平気な顔で向きあえるはずがなかった。


「……また、月曜日に」


 小さくつぶやいたあと久世は、逃げるようにビジネスホテルの一室を出て自宅へと帰った。

 自宅に帰ってからも、ずっとドキドキとしたままで、久世は着ていた服を脱げないままずるずると床に座りこんでしまった。


 ――どうして、昨日のプレイの事全然覚えてないんだろう……。


 朝の目覚めから想像するに、稲垣は丁寧にケアをしてくれたに違いない。相手をとっかえひっかえしているところから見るにあまりいいDomではないのだろう、と噂をしていた他の社員たちの胸倉をつかんで揺すってやりたかった。

 稲垣穂波という人間の多くを久世は知らない。同期で、四大卒で入社をしていて、Domで、仕事はできるが愛想がよいタイプではない、ということくらいだった。だが、稲垣は誰にでも一貫して同じ態度を取っているだけで、不親切ではなかった。久世が最初に稲垣がDomだと知ったのは、とある新入社員研修だった。ボールペンを含むすべての筆記用具を忘れた久世に、稲垣は自分のボールペンを差し出した。


『使うか?』


 言葉こそ問いかけの形をとっていたが、使え、という意思が滲んでいた。そのときに、図らずも彼がDomだと確信を持った。この人の言葉でコマンドを出されたらとても嬉しいだろうなあ、とうっとりした気持ちになりかけて――会社であることを思い出して我に返った。礼を言ってボールペンを受け取った。

結局その日は一日、稲垣のボールペンを借りたまま研修を終えたが、そのボールペンをどうやって返したかはうまく思い出せなかった。


「……不毛だ」


 やめよう、とりあえず今考えてもしょうがないのだから、と久世は自分に言い聞かせ、重たい身体を引きずってシャワーを浴びに行った。





 月曜日の朝、出社した久世を待ち受けていたのは不機嫌そうな顔をした稲垣だった。無愛想ではあっても、不機嫌であるところは見かけない稲垣の珍しい態度に思わず一歩、後ずさる。


「返す」


 稲垣が久世に突き出したのはごく普通の茶封筒だった。中身に想像がついて、ハッと顔を上げた。


「いや、これは、返してもらうようなものじゃ、」

「……俺はお前をプレイの相手として金で買ったわけじゃない。けがをした人間に絆創膏をやったようなものだ」


 稲垣はなぜか少し傷ついたような顔で言った。稲垣にしてみれば、応答もろくにしないほどに体調が悪そうであったSubをケアしたところ、金だけ残して忽然と消えたようなもので、ばかにするな、と言ってやりたいくらいだった。だが、久世の様子から悪気はなく単純に礼だったのだとわかり、少しばかり怒りは収まった。


「つまり?」

「厚意として受け取ってくれ」


 稲垣はコマンドとしてその言葉を口にしたわけではないだろうが、久世にとっては甘美な響きだった。久世はこく、と素直に頭を縦に振った。


「だからこれは返す」


 稲垣が差し出した封筒を今度こそ久世は突き返せず、受け取った。だが、そのまま引き下がることもできなかった。


「あの……ッ!」

「?」


 怪訝そうに振り替える稲垣に、久世は「今、決まった人、いるの」とたどたどしく訊ねた。稲垣は怪訝そうな顔を少しだけ引っ込めると「いない」と簡潔に答えた。その答えにほっと胸をなでおろして、久世は言葉を続ける。


「……もし、稲垣さんがよければ、少しの間、俺の相手してほしくて」

「俺に?」


 久世は自分の気持ちは伏せたまま、先日のケアを受けてからすごく調子がいい、とだけ言えば稲垣は少しだけ考えるようなそぶりを見せた。


「だめなら、もちろんいいけど」


 相手をとっかえひっかえしている、と噂される稲垣ならばもう次の人くらいいるのかもしれない。魅力的なDomというのはいるもので、稲垣はまさにそれを体現する人間だった。なお容姿の良し悪しとそれは関係ない。


「いや、俺も特に相手はいないから構わない。ただ、聞いているかもしれないが」


 そこで稲垣は言いづらそうに言葉を切った。


「? なにかある?」

「俺は、Domとしての欲求が強い体質だから、応えられないと思ったらすぐに関係を解消してくれ」

「? よく、わからないけど、稲垣さんにもなにか懸念事項があるのはわかった」


 久世の返答に稲垣は思わずため息をつきたくなったが、ぐっとこらえた。同じ会社である以上、なるべく関係を解消するのは後の方がよかったが、相性がよくないのにいつまでも関係を持たせるのもよくないだろうと思っての言葉だった。しかし、久世にはまったく響いている気がしない。それどころか、久世はあとで思い至ったらしく、くるり、と稲垣を振り向いて、


「あ、そういえば稲垣さんって社内で関係持つの平気な人?」


 と訊ねたのだった。

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