宿角玲那の生涯(再改訂版)
京衛武百十
死刑執行
二〇一七年八月。一人の死刑囚の刑が執行された。
彼女が犯した罪は殺人および殺人未遂。最終的に四人を殺し三人に重傷を負わせた。生き延びた三人も、いまだに後遺症で苦しめられているという。
事件は彼女が二十一歳の時に起きた。それから何年も裁判をして、二〇一五年、死刑判決が確定してようやく執行されたという流れだ。
彼女が死刑になったのは、そういう法律がある以上は仕方ない。四人もの人間を殺したんだから当然なのかもしれない。
ただ、それでも思わずにはいられない。彼女がこんな結末を迎えずに済んだかもしれない『if』がどこかにあったんじゃないだろうかと……
彼女は、多くの外国人観光客も訪れる、著名な仏閣からさほど遠くない、一級河川の堤防沿いから少し東に入ったところに建っている古い民家に住む夫婦の長女として生まれた。
彼女の家族は、代々、この世界的にも知られている古都に住んでいたが、小学校の頃の同級生の一人が印象的に覚えているという彼女の言葉の一つに、
「全員、空襲で死ねばよかったんだ。なんで空襲の目標から外したんだ。使えねー……」
というのがある。六年生の時の社会の授業で、担任の教師が余談として語った第二次大戦で彼女が生まれ育った古都が殆ど空襲を受けなかったという話の中で、
ただ、その時の同級生は彼女の言葉を聞いても、
『何言ってんだこいつ?』
くらいにしか感じなかったのだそうだ。
教師が語っていた第二次大戦の話自体、当時の同級生にとっては空想の世界の物語と大差なくて実感なかったことも影響しているのだろう。
ただ、その同級生は、事件について取材していた週刊誌の記者に語ったそうだ。
「彼女の人生を知ってしまった今の僕には、その『if』こそが彼女にとって一番の救いだったのかもしれないとも思えてしまったのも事実です……」
と。
もちろんそのifが現実になっていたら大勢の人が亡くなり、数えきれない程の歴史的な遺物が永久に失われていた訳だから間違いなく悲劇だっただろう。
だがその一方で、空襲によって彼女に繋がる血筋が完全に絶たれて
しかし、彼女のその願いは、叶えられることのない『たられば』でしかない。
歴史の通りその古都は空襲を免れ、彼女の血筋は絶えることはなかった。そして、彼女はこの世に生を受けてしまった。生まれた時の彼女の名前は、
<伊藤玲那>
宿角玲那というのは、彼女が中学に上がった頃に母親が再婚して名字が変わってからの名である。
彼女は、生まれた時から不幸だったのだという。
何しろ彼女の実の父親は親族の間でも嫌われ者のつまはじきにされた存在で、彼女の母親もそんな父親とつるんでいた不良仲間だった。
実の父親の方の家は割と裕福だったこともあり築五十年以上の古いものとはいえ親が所有していた家の一つをもらえたにも拘わらずそれをありがたがるどころか、
『こんなボロい家もらって納得するとか思ってんのかよ』
とか吐き捨てたそうだ。
両親からしてそんなのだったからか、彼女の誕生は誰からも祝福されなかった。父親も母親も、中絶するタイミングを逃したから仕方なく産んだっていうだけの認識でしかなかったと。
その話については、彼女の実の父方の叔母という人物からの証言だった。
叔母と言っても年齢的には実は彼女とそんなに変わらない、それでいて、いかにも水商売っぽい派手な化粧をした、学も品もなさそうな女性であった。
彼女の死刑が執行されたその日に先斗町で待ち合わせ、そこで聞かされた。
その人物は言う。
「あの子が赤ん坊の頃に殺されてたらまだマシだったかもね」
それが、彼女が救われる為の次のifだったのかもしれない。
親族の中から子供を殺すようなのを出してしまってでも、その頃の周囲の人間達は彼女の両親がロクでもない不良であったことをよく知っていたし、現在のようにネット上で誰でも気軽に他人を攻撃できる時代と違って傷も浅く済んでたということなのだろう。
しかもその時点で命を落としていれば、彼女自身、その後の苦しみもなかったこともまた事実。
けれどそれも、実現することはなかった。
不幸にも彼女は、両親からの虐待を生き延びてしまった。彼女への仕打ちを見かねた近所に住む知人が、両親が外出中に彼女を預かってミルクをあげておむつを換えてお風呂に入れていたそうだ。まだそういう近所付き合いが残ってたっていたということだと思われる。父方の曽祖父は第二次大戦後の混乱期に事業を起こして成功し、そのおかげで近所の人達も色々助けられたという経緯も影響していたのだろう。
ただそこでも、いっそのことその知人なる人物に養子として引き取られでもしていればまた違っていた可能性はあるものの、結局はそこまでの助けではなかった。その<知人>もある日突然、夜逃げ同然に失踪することとなる。事業に失敗してヤバいところからも多額の借金してたとかいう理由で。
それが、彼女が三才になる直前のことだった。
それからは周囲の人間も見て見ぬふりで、両親からの暴力に彼女がどんなに泣き叫んでも、
『躾だから』
『それがあの家の方針だから』
と済まされてきたそうだ。
何しろ、彼女の曽祖父からして自分の子供にも他所の子供にも非常に厳しい、俗に言う<カミナリおやじ>で評判であったとのことで。
もっともそれも、典型的な昭和の美談にありがちな表面的なものでしかなく、父親(彼女の曽祖父)が起こした事業をさらに大きく伸ばした立派な人物と世間的には思われていた彼女の祖父も、よくよく調べてみれば、実はライバルを謀略で陥れることでのし上がったり、会社ではパワハラで何人もの社員を使い潰したりという一面を持っていたというのが、彼女の起こした事件をきっかけに世間に知られることともなった。
それだけではない。
彼女の実の父親の兄二人も、祖父のやり方を忠実に継承してパワハラで部下を操りその成果は自分の手柄にして、しかもその所為で自殺した者までいたと暴かれた。
基本的に、暴力的に他人を支配して自分の思い通りに操ろうというのが家風だったのだと推測される。分かりやすい不良になって親族間の鼻つまみ者と思われてた彼女の実の父親も、そういう意味ではしっかり家風を受け継いでいたわけだ。
そんな中で彼女は暴力に支配されて育ち、小学校に上がる頃には、いつもびくびくして他人の顔色を窺う、地味で陰気な子供になっていたそうだ。
それでも、当時に彼女が通っていた学校は比較的平穏だったこともあってか、単に影の薄い、存在感のない、ものすごく大人しい子という印象でしかなかったというのが周囲の評価だったという。それどころか、彼女がいることすら気付いてなかった者も少なくない。
いかにもイジメられそうなタイプであったものの、彼女が通っていたのがイジメやイジメに繋がりかねない事案に徹底的に対処する学校だったからかそんな形でさえ目立つことなく、六年生の時に担任の教師が空襲の話をした時に彼女が『全員、空襲で死ねばよかったんだ』的なことを呟いたのを耳にするまで、その同級生さえ名前すら曖昧だったと語った。
その後も彼女は他の生徒と特に絡むこともなく、中学に上がってからしばらくして、彼女が援助交際をしてるという噂が流れてくるまでは誰にも意識されなかった。
中学も小学校と同じでイジメ等には熱心に対処してる学校だったからかその噂もそんなに大きな騒ぎにならなかったものの、さすがに印象に残っている者も増えていたようである。
けれど、逆を言えば、学校でイジメられたりしなかったことで、二十一の時に事件を起こすまで持ち堪えられてしまったという皮肉な解釈もできてしまうだろうか。
イジメられでもして追い詰められれば、彼女はその時点で大きな事件を起こしていただろうという意味で。
彼女の境遇はそれほどのものだったということなのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます