ぼーいみーつがーる(って年かさかなこれ)

 蘭学荒野に声明が響く。声明の主は、男だった。ボロボロの袈裟をまとい、数珠を片手に一心不乱の前進を続けていた。髪もボサボサで、頬には汚れがついている。いかなる意志でもって荒野を進むのか。それは男自身にしか分かりようもないだろう。

 男は僧侶である。荒廃乱世、末法をうたわれる時代であっても、仏の教えはけして力を失ってはいなかった。とある集落にて教えを授かり、教えを広めるべく世に打って出たのである。


「む……?」


 そんな僧侶が目にしたのは、倒れている人物であった。遠目ではあるが、気を失っているように見える。なにせ、動いているようには見えないのだから。

 僧侶は声明をやめ、錫杖をつきながら人物の元へと向かった。当然、周囲の警戒は絶やさない。蘭学荒野では、行き倒れを餌にする略奪者もいるからだ。およそ善人には生き難い土地なのである。


「もし……と、女性にょしょうであるか」


 ともあれ、今回はそのようなことはなかった。己の無事に胸をなでおろしながら、僧侶は行き倒れに声をかけようとし、思いとどまった。女性。すなわち仏門の修行において、もっとも忌避されるもの。美しさも盛りの年頃に見える上、装いも簡素ではあるが悪くない。煩悩を掻き立てるには、十分な相手であった。


「……もし、大丈夫であるか」


 僧侶は少し考えたが、それでも一歩を踏み出した。この状況で助けぬほうが、仏の教えにもとることになる。修行中の身であるからこそ、この試練に打ち勝たねばならぬ。


「うう……」


 女性の花の蕾めいた口元から、声が漏れた。どうやら茫漠の中を歩き、精根尽き果てたようである。僧侶は臆せず竹筒を取り出し、女性に与えた。女性は最初こそ口元に浴びるだけだったが、やがて喉が動いた。活力を取り戻したのだ。


「あ……貴方様は……」

「旅の僧侶です。お体はいかがですか」


 ようやく正気を取り戻した女性に、僧侶は努めて優しく声を掛けた。女性はわずかに怯えている様子だったが、僧侶と聞くと落ち着きを見せた。


「お坊様ですか……」

「いかにも」

「ありがとうございます。お陰様で、助かりました」


 女性が身を起こす。僧侶は押し留めようとしたが、彼女は軽やかに立ち上がった。僧侶は改めて見分する。疲労と体力の消耗はあるようだが、髪肌の色艶は濃く、さして痩せていないようにも見受けられた。


「なにか……?」

「いえ。お元気そうでなにより」


 女性の訝しむ目をかわし、僧侶は視線を外して一礼した。いかに煩悩を抱かずとも、男子の視線は年頃の女子には毒となる。彼は確かに実感した。


「でしたら、わたくしはこれにて」


 先を急ぐのだろう。女性は足早に立ち去らんとした。僧侶も、あえて止めようとはしなかった。だが、やはり消耗が激しかったのだろう。彼女は再び転げ、荒野にその身を預けてしまった。


「ああっ!」

「失礼!」


 僧侶は再び駆け寄り、助け起こした。やはり衰弱していることが、脈からも見て取れた。


「この荒野を、すでに歩かれておりますな?」

「わたくしは……急がないと……」


 僧侶は思案する。どうあっても、この女性は先を急ぐ腹積もりだ。だが今歩かせても、より弱ってしまうばかりである。安全な場所へ連れていき、少しでも休ませねばならぬ。


「ごめん!」


 僧侶は女性を背に担がんとした。もはやこれしか方法はなかった。多少ならば膂力には自信がある。並大抵の行をこなしてきた訳ではないのだ。多少暴れても……と考えていたその時。


「……」

「!?」


 今度は二人の前方に、鎧武者が立ちはだかった。いつの間に現れたのか、全くと言っていいほど感知できなかった。

 馬に跨がり、時代がかった大鎧を身に着け、手には長槍を提げている。身体の周りには幽鬼じみて陽炎が漂い、面頬と兜に阻まれて表情は読み取れなかった。


「何者ぞ!」

「……」


 僧侶は誰何するが、鎧武者の反応はない。それどころか、無言で長槍を突き出してきた。僧侶は足取り重くもなんとかかわした。女性を背負っている以上、大仰な動きはできなかった。しかし鎧武者に容赦はない。四尺はあろうかという十文字槍を操り、自在に攻撃を浴びせてくる。当然、反撃などままならない。ならば女性を下ろすか? 否。彼女は今や、己に身を預けてしまっている。危険に晒すわけにはいかなかった。


「くっ……武者どの! こちらの女性にょしょうがお望みか?」


 攻防の間に生まれる、一拍の間合い。打つ手が限られる中、僧侶はあくまでも対話を試みた。鎧武者の目的が分かれば、争う必要性がなくなる。一縷の望みに懸けての、行動だった。すると鎧武者の首が、縦に動いた。なるほど。現状に至る、理由が見えた。後は。


「それがしは通りすがりの旅の坊主! えにしあって行き掛かっただけであり、害意は一切ござらぬ! なにとぞ、なにとぞお見逃し下され!」


 両手を広げて錫杖を落とし、敵意のないことを宣言する。背中では、女性の身体が熱を帯び始めていた。なんとか、なんとか通じてくれぬか。その一念で、鎧武者と視線を合わせた。心の臓が高鳴る。永劫かと惑うほどに、時が引き伸ばされる。そして。


「……」

「その懐剣は」


 鎧武者が槍を下ろし、僧侶に向けて一本の短剣を見せた。懐剣、懐刀である。すると今度は、女性が声を上げた。


「その懐剣……もしや、運転手の……」


 鎧武者の首が、再び縦に動いた。僧侶は決断する。自分も女性も、混乱している。おそらくは、鎧武者もだ。彼は一つの、提案をした。


「武者どの。女性どの。我々には、一旦言葉を交わす時が必要と存じます。ここはどうか一度、我が案内に従っていただけませんでしょうか?」

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