第15話 不調


「田村さん。絆創膏、増えてない?」


 木曜日の朝、コーヒーを飲みにきた彼女へ訊ねてみた。


「串を打つ時につい、突(つつ)いてしまうの。不器用なのよ」


「そういうのって手袋とかしないの?」


「ゴム手袋を突き破るほどにぶっ刺しているの。不器用なのよ」


 不器用というか見境がないのか。


「傷口には黄色ブドウ球菌という食中毒の原因となるものがあって調理中は気をつけなくてはいけないし、ちょくちょく替えているのだけれど。水仕事が多くてなかなか治らないわ」


 その目は窓の外を眺めている。


「この間の映像、編集してみたんだけど――。最初に田村さんに見てもらおうかと思っててさ。どうかな」


「そう。全世界一斉公開の前がいいわ。そうすれば余計な評判もなしに見られる。レッドカーペットで待っているから」


「そっか。来週、試写室で発表だから。その前にするよ」


「ええ。楽しみにしているわ。それじゃあ行くから、カップは洗っておいて」


 彼女はバッグを抱え、玄関へ向かう。その姿は例えば高校の制服を着ていたとしても、もう戻れない大人びた雰囲気をはらんでいた。ビルの屋上でコーラをぶちまけた彼女の笑顔が、もう遠い過去だ。




 田村さんに一時間遅れでバスに乗れば、アーチを作る真っ白な校舎の門。誰もが夢を持ち、日々学び続ける真剣な場。


「――とかいうのは、しっかりした信念を持った人間の言葉なのよ。アンタ、課題提出は月曜日なのよ? ちゃんとできてるんでしょうね」


 カレー、カレー、かけうどん、ミックスフライ。


「できてるよ。その、出来に関しては見てもらわないと分からないけど」


「ダメね。どこに出しても恥ずかしくないっていう自信を持たなきゃ」


「そういう二郷木さんはどうなの」


「はん。誰にも負ける気はないわ。来週を楽しみにしてなさい」


 かけうどんを食べ終えた渡君が、


「映像制作の方はそういう、やりごたえのある課題があっていいですね。僕らなど、読みやすいホームページのデザイン、ですからね。エネルギーの注ぎどころが分からなくて。じゃあ皆さんごちそうさま。明日香、僕は先にテラスへ行っているから」


 立ち上がるとトレーを下げに向かった。


「田村さんもホームページデザインとか、やるの?」


「ええ。入学前に不便に思っていた学校のホームページのイメージ先行のメニューをどうにか改革して、まずはこの学校のサイト案内にメスを入れるわ」


「そうなんだ。本採用になったらおもしろいね」


 僕が言うと、


「なる訳ないじゃない。学校にケンカ売ってどうすんの。この国じゃ長いものには巻かれるのがデフォルトなの」


 二郷木さんがエビフライの尻尾を皿の端に寄せて立ち上がった。


「じゃ――」



 テーブルに残されて、僕はあまり減らない田村さんのカレーを眺めていた。


「どこか具合でも悪いの?」


 彼女は憂うつな顔で、スプーンを皿へと立てる。


「そういう訳ではないの。なんだかお腹が減らなくて、口に入れても上手く飲み込めないし。頭がボンヤリとして、身体に力が入らず、息をするのも面倒よ――」


 それを具合が悪いというのだ。


「残していいから、医務室行く? ついて行くよ」


 言うと、


「違うの竜崎君。最近、カレーを見ると気分が悪くなるの。飽きたのね。その証拠に二郷木さんのミックスフライを盗み食いしたくて仕方がなかったわ。右隣だったらよかったのに。私もまだまだね」


 悲しい理由だった。


「それじゃ、四限目一緒だよね。またあとで」


 食堂の前で別れて教室へ向かい、次の授業の準備にかかる。メディア論の加持先生の授業は女子生徒が多い。



 本日最後になる四限目の授業にバッグを抱えて向かうと、青白い顔の田村さんがすでに座っていた。陽光差す窓際で一層青白い。


「大丈夫?」


 隣へ座るなり訊ねると、


「医務室って、少し眠れるかしら。三十分ほど」


「やっぱり具合悪いの?」


「いえ。寝ていないだけよ。毎晩アルバイトから帰ってから、翌日の準備、そのまま布団へぶっ倒れて明けと共にシャワーを浴びて牛乳配達。それはそうと髪をき切ろうかちら。シャンプーの時間もドライヤーの時間も、もったいないないもにょ」


 いろいろ噛んだ。経験上、ある程度の重症だ。


「バイト、休めないの?」


「無理ね。店長は毎日赤ペンで添削に必死だし。私がやるしかないのよ。あのお店は」


 店長、ギャンブルまっしぐらだ。


「金、土と乗り切ったら休みだしさ。一日ぐっすりと休んでみたら?」


 言うと、彼女は高校時代からまた伸びた髪を払い、


「二兆日は、カフェー竜崎とブラッスリー真二で癒されるのがいちばん。どうかしら」


「日曜日」をまた噛んだ。見逃せない。


「とにかく授業、始まるから。あとで」


 葛城先生が教室に入ってくると、テキストとノートを開く音が響く――。




 四限目が終わり、顔面蒼白の田村さんを連れて医務室へ向かった。


「で、どうだね。気分の方は」


 保険医の冬月先生が、医師らしい聴診器を首から下げて、おもむろに訊ねた。雰囲気は怪しい。


 田村さんは、


「動悸や息切れなどが織り交ざった、初恋のときめきのような気分にプラス嘔吐感です」


「そうか。例の実験を試す時が来たな。付き添いはカーテンの向こうに」


「あ、はい」


 四角いパイプに遮られたカーテンの向こうで椅子に座り、石になる。田村さんが服を脱いでいるのか、衣擦れの音が聞こえる。


「――食の方は?」


「――一日三食。朝はコーヒー。昼はカレー。夜は手羽先」


「――睡眠は」


「――四時間」


「――熱を測って。基礎体温は?」


「――分かりまてん」


「――じゃあ――三十六度一分か……時は満ちたな……。寝不足だ。あと食生活が乱れている。野菜は多めに摂るように」


 そう言った感じで診察は終わり、彼女はひと時ベッドへ横になった。途端に、大きなイビキが聞こえ始めた。

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