第5話 仕込み
田村さんはキッチンに食材を広げている。
「パプリカ二種にアスパラとトマト。これは彩りの基本。それからベイクドポテトのジャガイモ。あると便利なレタス、マッシュルーム、玉ねぎ。それにセロリ、パセリ、タイム、ローレル、エスドラゴン、これはブーケガルニ用。魚は宴会にもってこいの子持ちシシャモ。ついでに大根とニンジン。とにかく今から調理に入るわ。竜崎君はテレビでも見て、飲みたくなったらコーヒーは自分で淹れて。それでもコンロが埋まってるかも知れないからその時は冷蔵庫のコーラで凌ぎなさい。用意スタート」
言うと鍋の類をコンロに置いた。まな板の上には見事な丸鶏が乗せられている。その背中は異様なやる気に満ちていて、あとは声もかけられなかった。
テレビを見ていると、キッチンからは湯気に乗ってハーブの香りが漂ってくる。それは春先までよく見ていた光景で、懐かしさが胸に溢れる。ただ僕は、そんな田村さんに甘えて母のいない淋しさをごまかしていることに耐えられなくなった。みっともないと思った。男らしくなかった。だから一度は彼女と距離を置いたのだ。
なのに、距離を詰めてきたのは彼女の方だった。春に一家で引っ越しを決めていたところに僕と同じ大学を受験して、あろうことかウチのマンションの目の前へ引っ越してきた。ベランダに出れば見える距離まで。
そんな彼女の本心が分からない。いつもどこかふざけているようでいて、けれどその目は真っすぐで、亡くなった母のことを「初子さん」と呼び、気がつけば僕のそばにいてくれた。それは一度だけお互いに触れてしまった夜の出来事が原因なのだろうか。だとすれば、それはもうお互いに忘れるべきことだった。
「竜崎真二君。速やかにキッチンへいらして」
「なに――」
キッチンへ立つと、玉ねぎを刻んでいる彼女がいた。
「お米をカップに半分、こちらへ」
「お米? 炊くの?」
「いいえ。この内臓が取っ払われた鶏の腹にぶち込むのよ。一度ザルで洗って水気を切ったらこちらのボウルへつけてちょうだい。ブイヨンよ」
何やら一か月前までより本格的になっている。その気迫に押され、素直に従った。鍋の中では肉の塊がクツクツと煮えている。ハーブが匂い立つ。
「ありがとう。戻っていいわ」
「じゃあ、頑張って」
ソファーへ戻るや否や――。
「竜崎真二君、ここへ」
「用があるならいっぺんに頼むよ」
「何を悠長な。キッチン情勢は東証一部よりも激しく変動しているの。次、その袋の中からタコ糸を取ってちょうだい」
言われるまま、糸のかたまりを手にした。
「手を洗ってちょうだい」
「……」
「終わったわね。では、このお腹パンパンの丸鶏を縛ってちょうだい」
「縛るって? そんなのやったことないよ」
彼女は訊く耳も持たない顔ですっきり手を洗うと、
「縛るのは男の子の方が上手いものよ。子供の頃に好きな女の子をいじめようとして、お人形さんの一つや二つ縛ったことがあるでしょう。それとも生身を?」
「ないよ! そんな悪質ないじめ!」
「チッ、仕方ないわね。ならば昨夜のうちに動画で研究した私がお手本を見せてあげるわ」
できるのなら最初からそうしてほしい。
「まったく。この鳥皮のグニュグニュが苦手なのよ。焼くと美味しいのに」
言いつつ、眺めていると器用に丸鶏を縛り始めた。
「さあ、できたわ。これは一晩寝かせて明日焼くことにするのよ。バットに置いてラップをかけましょう」
「なんか驚いた……ここまで本格的にやるとは思ってなかったから」
「当然よ。学生生活を豊かにしてくれる新しい仲間との出会いを祝う、大事なパーティーなのだから」
彼女なりに思い入れはあるのだ。と思っていると、
「次は煮込みものだから下がっていてよろしい」
「はあ――」
再びソファーへ戻ってみるも、田村さんはカチャカチャとキッチンで手を動かしていた。気がつけば夕方の六時になっていた。洗濯物を取り込めば、外も薄暗い。
「田村さん、そろそろ――」
声をかけるとようやく手を休めたのか、しかしこう言った。
「そうね。じゃあ次は私たちの晩メシにしましょう。すごく辛い麻婆豆腐よ。ご飯を炊かなきゃ」
麻婆豆腐。それは彼女が初めて作ってくれた料理だ。ケチャップまみれでとてもサプライズな味だったけれど、作るたびに腕を上げていた。
「さあ、食べましょう。辛いと言っても今日は控えめに五辛よ。春の宵にはちょうどいいわ」
夏を思えば格段に美味しくなった麻婆豆腐を食べつつ、彼女を盗み見る。と、目が合う。
「どうかしたかしら。今日は上出来の方だと思うのだけれど」
「うん。美味しいよ。ただ思い出してて。母さんの四十九日の日にやっぱり激辛の麻婆豆腐を作ってくれて一緒に食べたよね。あの時田村さんは『これから先、麻婆豆腐を食べるたびに母さんを思い出せる』って言ったけれど……」
「そうね。余計なことだったわ」
「ううん。そうじゃなくて。僕が思い出すのは田村さんのことなんだ。親しく話すようになってまだ一年も経ってないんだけど、もうあの頃が懐かしくて。屋上の、フェンスの向こうにいた田村さんが」
彼女はスプーンを目の前にかざして、そのまま曲げそうな目つきで言った。
「それを、引き戻してくれたのは竜崎君よ。あなたがいなければ、高校を卒業した私は次のフェンスを探していたわ。それからフラクタルを目指していた。不思議ね、いつかその一部に変わるはずの私は、今こうして新しい記憶を日々増やしている。それを実感できているということが以前は淋しかった。不思議でもあった。けれどやっぱり人間は生きているうちになるだけたくさんの経験を重ねて、これからも続くフラクタルな人の世の礎にならなければならないのだわ。そういう意味で、フェンスは海抜ゼロメートルのこの町の地上にも存在する。そこでたった数十メートル近くなるだけの空を目指すのは滑稽なことだったわ。私は今、地上のフェンスを越えるために生きている。そのための足がかりがきっと、明日は築かれるわ」
それだけ告げると、またスプーンを動かし始めた。彼女の大いなる決意が花開くように、とりあえず目に見える場所だけは片づけておこう。花を買わなければ。母がよく挿していた、黄色の花を。
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