第10話 特製カレー(ただし母の味)
補習というのはどうしてこうも手強いのだろう。習ったことの繰り返しに過ぎないのに、まるで違う顔を見せてやって来る。スタメンの二軍が一軍へと総入れ替えしたように。そういう意味で人間にとって最も苦しいものの一つに過去との向かい合いというものがあると僕は思う。まあ、そんな二軍にさえも惨敗していたのだが。
コーラを持って屋上へ上がろうとすると鍵が閉まっている。いつもは開いているのに。まさか田村敦子は合鍵でも持っているのか。ともすれば世の中すべての合鍵も持っていそうな顔だ。そうなると僕が最後の砦だ。頑張ろう――。
ドアチャイムが鳴る。午後四時だ。彼女だとしたらやけに早い。と思ったら紫の風呂敷包みを下へ置いた彼女が息を切らして立っていた。
「大変だったわ。バスの座席で八リットル入りのタッパを抱えて、昔の拷問にそういうのがあったわね、ジグザグの洗濯板みたいなものの上に正座させられて膝に石を乗せるの。何より自分でも分かるほどにカレー臭が広がるの。カレー屋の移動キッチンみたいになって、居合わせた乗客の三割は今夜のメニューがカレーに決まったはずよ。七割は知らないけれど」
カレー屋さんは迷わずキッチンへ向かい、手頃な鍋を探しているようだ。
「ないわね。どれも小さすぎるのよ。家って六人家族だから大鍋で作ってきたのに」
「三人家族だったし。ていうか全部を温める必要はないんじゃない。食べる分だけ鍋で温めれば」
「あら嬉しい。食べてくれるのね」
何をしに来たんだろう。
それから彼女はエプロン姿で嬉しそうに鍋のカレーを温めながら混ぜていた。かくれんぼなら『もういいよ』と三十回言いたくなるくらいに。混ぜると美味しくなるのだろうか。
果たして田村敦子のカレーは美味しかった。母のカレーに慣れた僕にも美味しいと思えた。他人の家のカレーではなくお店のカレーだった。ほろほろと身のくずれるチキンカレー。
「美味しいでしょ。母に秘伝のレシピで、母が作ってくれたの」
自分で作ってないのか。
「私はとっておきのらっきょうを買ってきたわ。福神漬けと悩んだんだけど、らっきょうのパールホワイトに負けて福神漬けにはまたのチャンスを約束してきたわ」
彼女は僕の洗い物の途中、ずっとテレビを見ていた。
「やだわ。鈴虫の新ネタ、じわるんだけど」
楽しいのならそれでいい。
「田村さん、コーヒー飲む」
彼女はハッとした顔で振り返り、
「カレーのあとにコーヒーだなんて、やっぱり『カフェー真二』の素質十分ね」
「いや、母さんには一日三回――休みの日には八杯くらい入れてたからルーティンになってるんだ」
二人で離れてソファーに座る。
「初子さんって、忙しい人だったの」
わざわざ思い出すこともないのだけれど、しばらく待って、
「そこそこね。丸一日自由が利く休みは月に二、三日だったし。それも外に出るのが好きな人だったから朝から日暮れまで帰って来なかったよ」
「夏休みの小学生みたいな人だったのね」
「顔に絵具をつけたまま一日過ごしてたり」
「幼稚園児ね」
「帰ってきたら必ず腰をマッサージさせられた」
「一気に老婆ね。でもウチでお会いした初子さんのイメージそのままだわ」
どんなイメージだろう。
「僕のこと以外に、彼女は何か話した?」
「そうね。どうしてあの時飛ばなかったのかってことを――私の理由は明確で救急隊がマットを敷いて周りでネットを抱えて構えていて目的は達せられないと思ったから。何度も言うけれど、私は死にたかった訳じゃないの。踏み出せば死んでしまうという状況で人は何を考えるのだろうという問いに自分の身を晒したかっただけ。だから今でも足も手も震えるし、死ぬのは怖いわ」
初めて彼女の人間らしい言葉を聞いた。
「ところで屋上の鍵、閉まってる時ないの?」
彼女は目線を宙に漂わせて、
「私が触ると勝手に開くわ」
普通の顔で答えた。
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