第8話

 ササラの荷造りのため、そして王都から駆けてきたスコルと彼の馬を休ませるため、出発の日は三日後の日の出前となった。


 白み始めた空に雲はなく、ひやりとした夜の気配を残す大地をなでる風はごくごくささやかだ。

 今日はよく晴れそう、と旅装を整えたササラは視線を空から牧場に向けた。

 

 太陽は起きていなくとも魔獣の世話はすでにはじまっている。姿は見えないけれど忙しく立ち働く従業員や、エサをねだる魔獣たちの動き回る気配を遠くに感じてササラは不思議な気持ちになって、無意識にそばに座るギンロウの毛並みに手を伸ばす。

 そこへ、声がかかった。


「さみしいですか」


 振り向いたササラの後ろに、巨大な軍馬を連れたスコルが立っている。

 頑丈な外套に身を包み、姿勢良く立つ彼はさすがは将軍というべきか。馬を引き連れて立つだけで、ひどく目を惹く勇ましさを感じさせる。荷を積まれた馬のほうも、主人に似て堂々とした立ちっぷりだ。


「いえ……いえ、そうですね。ちょっぴり、さみしいです」


 否定を口にしようとして、けれどそれを否定したササラはちいさく苦笑した。

 

 特別な日であっても生き物の世話に休みはない。ならば魔獣たちのためにも、従業員たちのためにもいつも通りの今日を過ごしてもらいたい、と願ったために、見送りはいない。

 静かな出立は、寂しい気配をにじませている。


「今からでも全員呼び集めるか? リィンがひとっ飛びするぞ」


 ひょい、と顔を出すなりいたずらっぽく言うのは、アーヴィンだ。肩には同じく留守番を買って出てくれたリィンが止まっている。

 スコルの後ろからすたすたやってきた兄貴分の冗談めいた本気の言葉にササラは「うーん、やめとく」と笑顔を見せた。

 集めてほしい、と言えば彼はそうするだろうし、従業員たちも集まるだろう。そう確かに思えたことが、ササラの気持ちをなぐさめた。

 ようやく純粋な笑顔を見せた彼女の頭をアーヴィンがぽんぽん撫でる。


「まあ、なんかあったらリィンを飛ばす。ギルドから呼び出しがかからないうちは、俺がお前の親父の仕事ぶりを見張っといてやるしな」

「うん、頼りにしてる」

「お前が頼る相手はこっちの将軍さまだろ」


 気安くスコルの背を叩くアーヴィンに、スコルは「任せてくれ、アーヴィン兄さん!」と満面の笑みだ。さきほどもいっしょに姿を見せたことといい、いつの間にそんなに仲良くなったのだろう、とササラは男の友情を不思議に思う。


 そういえば兄さんともいつの間にか親友になっていたな、とちょっぴりの疎外感を覚えながらササラは大人しく待てをしているギンロウの元リーダーの前にしゃがみ込んだ。


(いいもん、私にはこの子たちがいるんだから)


 もふもふの首毛に指を差し込んで、しめった鼻と自分の鼻を突き合わせる。


「王都まで乗せてくれる?」


 ギンロウの長い鼻面がぱかんと開いて、わふんと鳴こうとしたとき。

狼を押し退けて頭を突っ込んだ男がいた。


「群れのリーダーは俺です!」


 きりりとした顔と低い声で告げる、その姿は頼り甲斐を感じさせる。

 けれど狼を押し退けてまでササラを独占しようとする様は、やきもち焼きの魔獣と変わりない。


「近い近い」


 アーヴィンがスコルの頭をわしづかみ、引き離す。

 きらきらしいイケメン顔の接近に固まっていたササラは、スコルの顔が対人関係における適切な距離に遠のいてようやく呼吸を思い出した。


「は! えと、なんでしたっけ。スコル将軍が、何か……」

「群れのリーダーは俺です。ですから、あるじどのは俺に乗るべきでしょう!」


 きびきびと告げる声は張りがあり、きりりとした表情は勇ましい。

 しかしそれゆえ口にした内容との乖離が激しくて、ササラは無言のまま首をかしげてしまった。


 その隣ではアーヴィンが天を仰ぎ「やっぱり預ける相手を間違えたぞ、これは」とつぶやいている。リィンは「やれやれ」とでも言いたげに肩をすくめた。


 さわやかだったはずの朝の空気を台無しにする発言にササラとアーヴィンが頭を悩ませている間にも、スコルは目をきらめかせて言い募る。


「あるじどのを乗せる栄誉を、どうか俺に!」

「えっと、どうしよアーヴィン。王都ではひとがひとに乗るの?」

「そんなわけあるか。いや、貴族連中のふざけた遊びだと絶対とは言えねえが……ちょっと待ってろ。寝ぼけてる可能性もゼロじゃねえからな、一発殴ってみてからでも遅くねえ」


 ひそひそとしたやり取りはスコルの耳にばっちり聞こえていたらしい。

 あからさまに眉を下げて肩をしょぼくれさせた彼は、耳があったならぺったりと伏せさせているだろう表情でササラを見つめる。


「あるじどのはやはり俺がおわかりにならないのですね……ひと目でわかる程度に勇ましい男となれなかった俺の不徳の致すところ。一生の恥っ!」


 叫んだスコルの身体がゆらりとにじむ。

 蜃気楼のように大気を揺らしたのは金の毛並み。

 瞬きの間にそこに居たはずの男は姿を消し、代わりに立っていたのは美しい金色の狼だった。


「天狼……!?」


 陽光を集めたかのような金毛に目を奪われながらササラがつぶやく。息を呑んだアーヴィンは一瞬呆けて、けれど突如として現れた伝説級の魔獣を相手に妹分を背に庇う。

 その手が武器に伸びるのを見て、天狼はまばたきをひとつ。

 すとんとその場にお座りをし、口を開く。


「アーヴィン兄さん、俺です。スコルです」


 ぱかりと開いた天狼の口から聞こえたのはスコルの声。

 目を見開いたアーヴィンの隣をすり抜けて、ササラは金の毛並みに手を伸ばす。


「この毛並み、もしかしてあなた……いつかの仔犬なの?」


 引き寄せられるように触れた彼女の手に、スコルがうれしげに鼻をすり寄せた。


「そうです、あるじどの。いつかあなたに助けられ、お礼も言わずに逃げ出した恩知らずな犬です」


 うれしげに、けれど自嘲を含んだスコルの声に、ササラは「あぁ」と感嘆の吐息をもらして膝をついた。


「私たちは幼かったもの、仕方ないわ。私だってあなたを怯えさせたし、じゅうぶんに手をつくしてあげられなかった。でも」


 ササラは抱えきれないほどに大きく育った金の毛並みを両腕に抱きしめて、頬ずりする。


「こんなに大きく立派になってくれて……ありがとう。ずっと、ずっとあなたのことが気がかりだったの。生きていてくれて、もう一度、私と出会ってくれてありがとう」

「あるじどの……!」

 

 あふれる感情にササラが涙ぐみ、スコルは声を詰まらせた。


 山の稜線ににじみはじめたばかりの陽光が降り注ぐなか、金の毛並みの大きな狼としなやかな乙女が身を寄せ合う。


 ひどく美しい光景だ。

 同時に、状況を知らないアーヴィンにとっては訳のわからない光景でもある。

 とはいえ、空気の読める男アーヴィンはだまってふたりの気持ちが静まるのを待てる。ここにササラの父親がいたならば、あるいは案外と手の早いササラの実兄がいたならばスコルから引きはがしにかかっていただろうな、などと考えながら。


 くぁ、とリィンがあくびをひとつ。


 はたと我に返ったのはササラが先だった。


「あ、出発しなきゃ!」


 声をあげ、身体を離した彼女を名残惜し気にスコルが見つめる。けれど彼はころりと表情を変えて、狼の巨体を地に伏せさせた。


「あるじどの」


 目をきらきらと輝かせ、長くしなやかな尾を期待に揺らす。

 乗って乗って、と訴えかけてくるまっすぐな視線に吸い寄せられるように、ササラはスコルの毛並みを撫でる。

 

「天狼、ですよね?」


 金の毛並みの手触りの良さは、並みの魔獣ではありえないほどになめらかだ。

 加えてまばゆいばかりの輝きを持ちギンロウ以上の巨体を誇る魔獣となると、ササラが読み漁った文献や口伝のなかでは、天の御使いとも称される天狼のほかに思い当たらない。


「ええ。ひと目でおわかりになるとは、さすがあるじどの。遠い昔に血が入っているとかで、俺は先祖返りなのです」


 恥じらうように目を伏せたスコルを、ここぞとばかりにササラがなでる。

 

「どうして仔犬のときに気づかなかったんだろう。小さいときもあんなにきれいだったのに。ああ、幼いときの毛並みは今よりもっとやわらかかった気がするな、もっとしっかり味わっておけばよかった。あああ、あのときおしゃべりできる相手だってわかってたら、撫でさせてってお願いしていっぱいぐりぐりはすはすしたのに!」


 ぶつぶつとつぶやきながらササラの顔はぐりぐりと金の毛並みに埋もれていく。やわらかな毛並みを全身で堪能しようとはすはす息を荒くする彼女に、スコルはそわそわと視線をさ迷わせた。


「あ、そんな、あるじどの、大胆な……! ん、んん、あのころは幼く、人の形をとれなくて、ふああ、そこ気持ちいですぅ。あ、あのころの分まで、いっぱい撫でてくださいぃ……!」

 

 身もだえ、ついには寝そべったスコルをササラは遠慮なく撫でまわす。

 それはギンロウとのふれあいのようで、けれどスコルの側でも甘えてササラにすり寄りあまつさえ指先を舐めているあたり、ギンロウよりも遠慮がない。相手は王都の将軍、それも若い男だと知るアーヴィンは迷わず邪魔することに決めた。


「ササラ、調教前の魔獣を無条件に甘やかしちまっていいのか?」


 ぼそりと放たれたひと言でササラの表情が劇的に変わる。

 魅惑の毛皮からパッと離れたかと思うと、スコルに向かって鋭く告げる。


「伏せ!」

「わふん!」


 ぺたーん、と腹を地面につけてスコルが停止する。

 その鼻面に手のひらを突き出して、ササラは厳しい顔で「そのまま、そのまま」と声をかける。

 はじめはきりりと言われた通りに待機していたスコルだが、ササラがゆっくりと遠ざかるのを目にして「きゅふーん」と悲しげに鳴き、耳を伏せる。


 それでもササラは「そのまま、待てよ」と指示を取り下げない。

 そうしてアーヴィン、リィン、そしてギンロウたちが見守ることしばらく。


「……よし!」

「わふん!」


 飛び起きたスコルがひとっ飛び、ササラにすり寄ろうとすると。


「待てっ」


 鋭い指示がとんでスコルはびたっとその場でおすわりをする。


「そう、良い子ね。ゆっくり歩いて来て。私が撫でるのが先ね、よし、よーし。あ、舐めちゃだめ!」

「きゅふぅん、はふ、わふ!」

「ふふ、あはははは! 舐めちゃだめだってば!」

 

 瞬く間にひとりと一匹は再びきゃっきゃと距離を詰めていく。

 ササラは彼が成人男性だと知っているし、スコルは人の言葉を話せる。

 だというのに、ふたりの姿はまるきり人と魔獣のじゃれあいだ。やがて、天狼の姿に尾を巻いて伏せていたギンロウたちがそわそわじめたころ。


「……おいお前ら、いいからさっさと出発しろ。いちゃつくなら休憩のときにしとけ」


 呆れを隠しもしないアーヴィンの声で、ひとりと一匹はようやく自分たちのすべきことを思い出した。

 さっきまでの自分の行いを客観視したササラが悶絶しているあいだに、スコルは彼女の荷を自身の馬の背に乗せ、そして彼女の身体を自身の背中に乗せてしまった。


「わわっ」

「あるじどの、旅程に響くので急ぎましょう! アーヴィン兄さん、行ってまいります!」


 たたた、と駆け出したスコルに続いて彼の軍馬が走りだし、ギンロウたちが追いかける。

 みるみる遠ざかる背中にアーヴィンは手を振り、リィンが空に舞う。


「おお、行ってこいササラ! 王都で変な男に引っかかるなよ、番犬が牙剥くときだってあんだから、しっかりしつけとけよー!」

「ピュイッ、ピュイー!」


 艶やかな金の毛にしがみつきながら、ササラは振り向いて大きく手を振り返した。


「行ってきます! 牧場を、みんなを、父さんをよろしくね、リィン、アーヴィン!」


 物心ついたときからずっと暮らしていた辺境にしばしの別れを告げ、ササラは前を向いた。

 遠ざかる景色のなか、そこここで手を振り見送る従業員たちやサムと父を見つけては振り返っていたけれど、今はもう誰の姿も見えない。空に舞い上がったガラスフクロウの羽根のきらめきも、とうとう見つけられなくなった。

 獣のしなやかな筋肉に揺られる彼女の前には、ただ荒野が広がるばかり。


 その先に王都があると思うと、ササラの胸には複雑な気持ちが湧きあがる。

 

 華やかだと伝え聞く王都で待っているのは、母や兄とのうれしい再会だけではない。

 有翼人との闘いに備え気が立っている兵士たちが、馴染みのないギンロウとの付き合い方を素直に身につけようと思うはずがない。ましてや田舎からやってきた小娘の指導など、すんなり聞き入れてはもらえないだろう。


(それでも、やらなきゃ。私ががんばらなきゃ……魔獣たちのためにも、牧場のみんなのためにも。それに、せっかく再会できたあの仔犬のためにも!)


 気を引き締めたササラは、けれど今だけは、とスコルの金の毛並みにそっと顔を埋めた。

 もふもふの毛皮は獣臭さなどかけらもなくて、ぬくぬくの太陽の匂いがする。この温もりともふもふがあれば何だってできる。


「スコル、よろしくね」


 密やかに、敬称もつけず気安い口調でささやいたのは自身を鼓舞するため。

 ちいさく震えた天狼の耳がその音を拾っていることなど知りもせず、ササラは天狼に身体を預ける。

 行く先にある未来がどうかこの毛並みのように輝いていますように、と願いながら。

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