呪詛 14

「実は思い当たることが今までにも何度かあったんですよ。でも、そうじゃないと信じたかった。そう信じたかったんだ」


 良雄さんはそう言うと、赤く染まるプールに向かい「なんでだよ!」と、大きな声で言葉を吐き捨てた。その声が壁に反射してわんわんと室内に響き渡る。空気が振動し、良雄さんの怒りが私の身体を包み込んでゆくような気がした。


 良雄さんは「とりあえずここから出ましょう」と低い声で言い、更衣室に続くドアに向かった。


 ——怖い。


 あんなにも安心できると思っていた良雄さんが今は怖い。そう思った。あの山の中で武山さんに銃口を向けた榎田さんのように、良雄さんもまた怒りに支配されているような気がする。それでも良雄さんと一緒に行かなくてはと、良雄さんの後を追いかけた。武山さんも後ろをついてくる。更衣室へ続くドアを開けると、整頓された空間がやけに気味悪く感じた。清潔そうな白いタオルが一ミリの狂いもないほど綺麗に積み上げられている棚、誰も使ってないロッカーに洗面所。鏡に写る自分の姿はひどい猫背で、はっと背筋を伸ばし自分に声をかけた。


 ——ダメだ、しっかりして。


 更衣室を抜けプールのエントランスに出ると、昨日の暗闇では見えなかった現代アートの絵画や皮張りのソファなどが目に入った。リラックスできる洗練された空間。本来ならばここでゆったりとリトリートを楽しむ家族連れや恋人たちがいるのかもしれない。でも今は——


 ——床に赤い水の跡が……


 ポタポタと、赤い水滴が床に落ちている。それはまるでこっちだよといざなうように続いていて、それを見た良雄さんが「ふざけてる!」とまた大きな声で叫び、その跡を追いかけて走り出した。


「絶対見つけてやる! 絶対見つけてやる!」


 何度もそう言いながら走る良雄さんを必死で追いかけ、短い階段を上り長く続く廊下を走る。良雄さんが何度も言葉を吐き捨て、その吐き捨てた言葉が廊下に響くたびに、また良雄さんのことを怖いと思った。


 ——良雄さんが怒ってる。いつも冷静だった良雄さんが怒ってる。


 そう思いながら必死に良雄さんの背中を追いかけているうちに、またエントランスホールに出た。良雄さんが立ち止まり、「これ見て」と私に壁についた赤い手の跡を見せる。血のように赤いインクで壁に着いた手の跡は、その行先を教えるかのように点々と続き、無機質な壁に溶け込むように作られたドアの前で終わっていた。


「この先にいるってことか」


 良雄さんが低く呟き、ドアを開け中に入っていく。後に続こうと一歩中に入ると、そこは事務所のような場所だった。狭い事務所のその先に、また赤い手の跡が着いたドアがある。


「この先は?」と、ドアの前で立ち止まった良雄さんが武山さんに聞く。


「あのざぎは、ぎのじだの部屋につづいでる……」


 武山さんの言葉を待たず、良雄さんがドアを開けると薄暗い廊下があった。窓ひとつない、蛍光灯の明かりが灯る廊下は、洗練されたデザインのNature’s villa KEIRYUとは全く違い、まるで監獄のようでその先に進むのが怖い。そう思っていると、ドアノブから手を離した良雄さんが武山さんの近くまで戻り、胸ぐらを掴み上げ「こんな場所に閉じ込めるようにして里香ちゃんを雇ってたのか!」と怒鳴りつけた。


「お前、どう言う神経してこんな場所に女の子を住まわしてんだよ! 頭がおかしくなっても仕方ないだろっ!」

「でも、でも、木のじだは自分でごごがいいっで——」

「馬鹿なのか? 人の心がお前にはないのか? 自分たちだけ、見えるとこだけよければいいのかっ!」


 武山さんを勢いよく事務所の中に突き飛ばすと、良雄さんは薄暗い廊下を進み始めて部屋の前で立ち止まった。一瞬間があり、ドアを勢いよく開ける音が事務所まで響く。


「なんだこれは……」


 良雄さんの声が聞こえ、恐る恐る一歩足を廊下に踏み出すと、「うっ」と思わず声を漏らすほどの異臭が鼻をついた。鼻先に手を当て、良雄さんの近くまでゆっくり進むと部屋の中の様子がだんだん見えてくる。コンシェルジュとして完璧なサービスを提供していた木下さんの印象とはかけ離れたその光景に、目を疑った。


 ワンルームのアパートほどの部屋にはゴミが溢れるほどに詰め込まれ、足の踏み場がない。真空パックから直接食べたのか、黒く変色したものが付着するビニールにはスプーンが刺さったままで、それがいくつも部屋の中に散らかっている。それが悪臭の元だと気づいた時には耳元で、ぶぶぶっぶぶぶっと蠅の飛ぶ音が聞こえ「いやっ」と声に出し、手で振り払った。


 良雄さんはゴミの溢れる部屋の中に足を踏み入れ、辺りを見回した後で、何かを拾い上げたかと思うと、こちらを振り向き「いない」と声に出した。


「それにこれ見て」


 良雄さんが拾い上げたものを見せるように腕をこちらに伸ばす。白々しい蛍光灯の明かりにぎらりと手に持っている鋭利な刃物が反射して光った。その刃先に羽毛のようなふわふわした物が赤黒い血に塗れ着いていることに気づき、「いや……」と声を出しながら反射的に後ずさる。


 ——血だ、血がついてる……。


「信じたくないけど、そう言うことだよね……。くそっ! なんでだよっ! やっぱり普通じゃなかったのかよっ!」


 良雄さんはそう言うと部屋の中に勢いよくそのナイフを投げ捨て、「ここにはいない」と吐き捨てるように言い放った。その後で、憎しみを込めた声で「うちのにわとりが何匹も殺されたんですよね」と言った。


「鶏……」

「何回か、うちの鶏が、内臓が食い散らかされたような無残な姿で死んでたんですよ。でも僕は誰かがやったんじゃなくて、獣の仕業だと思うようにしてた。信じたくなかった。誰かがそんな酷いことするなんて思いたくなかった。そんな人は山の家に来ないって、そう信じたかった。でもどっかで、もしかして里香ちゃんかもしれないって思ってた。あの手首についたリストカットの跡がやけに気になってて。それでも里香ちゃんじゃないと信じたかったのに……。くそっ! なんでだよっ……!」


「許せない」と良雄さんは呟き、木下さんの部屋を出て、廊下に立っている私の横を「絶対に見つけ出してやる!」と言いながら通り過ぎた。


「罪のないものの命を無駄に奪って、そんなこと絶対に許せない!」


 狭い廊下を抜け、事務所の中を通り過ぎる良雄さんの後を追いかけようとしたその時、お尻に振動を感じた。「え?」と声を漏らし、ズボンのポケットに手を当てると、ブルブルとスマホが振動していることに気づく。急いで取り出すと、それはNature’s villa KEIRYUの館内専用スマホだった。人型のマーク、『Conciergeコンシェルジュ 』と名前が出ている。


 ——木下さんだ!


「良雄さん待って!」と声をかけるけれど、もう良雄さんは事務所の外に出てしまっていた。すぐそばで机に手をついてこちらを見ている武山さんと目が合うけれど、自分は関係ないとでも言いたいのか、首を横に振っている。


 ——スマホに出るのが怖い、怖いけど、でも……出るしかない。


 震える指でスマホの画面をタップして、恐る恐る耳に当てる。心臓の鼓動が速くなっているのが自分でもわかる。息が詰まるほど緊張しながら耳を澄ますと、木下さんの声が聞こえた。


「霧野様、上映会のお時間です。どうぞ、シアタールームまでお越しくださいませ」












 






 


 




 






 

 




 

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