呪詛 12
自動ドアから一歩中に入ると、確かに昨日の暗闇では見えなかった世界が広がっていた。無機質な石の壁に囲まれた空間。渓流が見渡せる全面ガラスは湿気のせいなのか、少し雲って見える。奥の方にさりげなく置かれたレセプションデスクに目が行き、木下さんのことを思った。
——木下さん、ごめんなさい。すぐに見つけ出すから。
心の中で呟いて視線を動かすと、すぐそばにブルーシートが見えた。その瞬間、それが博之さんのご遺体だと理解し目を背けるけれど、目に焼き付いた強烈な青色が残像として瞼の裏に残る。怖い。またそう思い、もうやめてと自分に言い聞かせた。でも——
——微かに漂う生臭い匂い。
電気が通っていなかったセンターハウスはむっとした空気がどことなく漂い、博之さんのご遺体から発するのか、血生臭い悪臭が鼻についた。怖いと思えば思うほど敏感になる自分の五感を捨て去ろうと良雄さんの背中を見るも、ぶぶぶっと羽虫の飛ぶ音も聞こえてくる。
——蝿だ。
締め切られているはずのセンターハウスなのに、どこからともなく何匹かの蝿がやってきて、博之さんのご遺体の周りを飛んでいる。見ていないのに、脳内では見ているかのように映像が再生される。薄気味悪いブルーシート、その周りに飛ぶ黒い蝿。考えたくないのに、中の様子まで想像してしまいそうな自分がいる。でも、そう思ったら最後、昨日見た博之さんの死体が、ブルーシートの中に入っているのが見える。見えないはずなのに、まるで見ているかのように脳内で再生されてゆく、博之さんの最後。見えない何かに恐れ慄き、目を見開いた博之さんの顔が——
——見える……。……やめて、もうやめて。もう本当にやめて。ダメだ、また恐怖が蘇ってくる……
「もうやめて!」と、自分に言い聞かせるように声に出すと、前を歩いていた良雄さんが「大丈夫ですか?」とこちらを振り向いた。
「すいません、大丈夫です。ちょっと、考えたくないことまで考えてしまって」
「わかります。そうなりますよ、誰だって。急いで里香ちゃんを探しましょう」
「はい」と声に出し、良雄さんの隣に急いで向かうと、非常階段のドアから武山さんが出てくるのが見えた。武山さんは何かに怯えるように非常階段のドアから飛び出て、こちらに向かって早足で歩いてくる。
「なんが、なんが、よくわがらないげど、電気が勝手にづいで……」と、歩きながら良雄さんに大きな声で話しかける武山さんの声を聞いて、話せるようになったのだと思った。かすれたような、聞き取りにくい声。でも、何を話しているかは理解できる。
——だとすればやっぱり、祟りは納まりかけているってこと。
「良雄さん、武山さん喋れるようになってます」
「あ、うん。ここに帰ってきた時にはもうだいぶ声が出るようになってたんですよ。薬が効いたんでしょうね」
「薬……。祟りが、納まったと言うことじゃなくて、……ですか?」
「わかりません。でも、どちらにせよ声が出やすいくらいには喉の腫れが治ったと言うことだと思います」
「そうですか……」
「とにかく、武山さんは今のところ無事みたいで安心しました」
その言葉を聞き、ぞくっと寒いものが身体を通り抜けていった。良雄さんはさっき車の中で、この一連の出来事は、祟りに見せかけた殺人事件かも知れないと言っていた。
——そうであるならば、その殺人犯はこの近くにいるとも。武山さんは無事だった、と言うことは武山さんが殺人犯じゃないってことだ。でも、待って、それじゃあ今、ここで生きている人って……
武山さんは無事だった。それに、武山さんが自分の所有する、しかもサービス提供を始めたばかりのこの場所で殺人事件なんて起こすわけがない。考えられる人物は一人しかいないのではないか——
「まさか——」
「まさか、かも知れないですよね」
「うそ、そんな……」
「それを確かめるためにも、はやく里香ちゃんを見つけないとってことです。そのまさかじゃないなら、僕たちの知らない誰かがどこかに潜んでいるってことになりますし」
——良雄さんの言い方だと、木下さんが、犯人ってことになる。でも、何のために……。
木下さんの年齢から考えてみても、キャンプ場の事件の関係者ということは考えにくい。それに——と、考えを巡らそうとした時、武山さんが私たちの前までやってきた。
「なんでがわがらないげど、ぎゅうに電気がづいで、ぞれでこわぐなってはじっ
でぎだげど、ぶじばらぐんがづげでぐれだの?」
「僕じゃないですよ。僕は今さっき霧野さんと戻ってきたとこなんで」
「ぞっが……、ぞうだ! げいだい!」と、武山さんがいつもは履かないような作業ズボンのポケットからスマホを取り出して、画面をタップする。それを見て私も急いで自分のスマホを確認した。でも——
「だべだ……ぐぞっ!」
「携帯は電波の基地局が直らないと無理なんですよ。それよりも里香ちゃんを探さないと。武山さんはどこかで里香ちゃん、あ、木下さんを見ませんでしたか?」
「ぎのじだ……、びでない……でも——」
武山さんは恐ろしいものでも見てきたかのような口ぶりで、プールの方で音が聞こえたと言うようなことを話した。しどろもどろに話をする武山さんに良雄さんは、さっきまでとは打って変わってきつい口調で問い詰める。
「要点だけさっさと話せ!」
「ぎ、ぎがいじづは、ブールの横にあるんだげど、ざっぎ水に何がおじるような音と変な声がじで、ぞれがごわぐで、いぞいで逃げでぎだんだよ……ぞじだらでんぎがづいで——」
「その音に声、里香ちゃんかも知れない……。プールだなんて、もし普通じゃない状況なら危険じゃないか! こうしてはいられない! 霧野さん、僕はプールを見に行ってきます。もしそこに里香ちゃんがいるなら相当危険な状況です。僕と一緒に行きますか?」
早口で話す良雄さんにそう聞かれ、「えっと」と思わず声が漏れ、すぐに返事ができない自分がいた。プールと聞くだけで、恐怖に飲み込まれそうになったあの感覚が蘇り、怖気付き行きたくないと思う自分がいる。それに——
——木下さんが連続殺人犯かも知れない……。
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