寸止無用

未来超人@ブタジル

迷妄


 ”巻打ち”という技がある。

 身体の動作を隠して攻撃を仕掛ける技法で、例を挙げるならば裏拳と胴廻し回転蹴りが一般的に知られる。昭和に入る前、純国産の武術の世界において巻打ちは秘伝の技だった。

 今は決して珍しい技では無いので取沙汰される事は無いが、巻打ちは流派によって戦法が変化する。カウンター(後の先もしくは交叉)として使えば敵のカウンター、奇襲として使えば機先を封じるのだ。

 仕手の弧を描くような動作が相手の動きと重なるのがその原因らしい。

 

 人が直線では無く、曲がりながら歩くという本能を持っているからなのだろうか。

 

 若島龍也は思わず表情を曇らせる。


 拳は直情に打ち込む物であり、拳法使いは誰よりも真っ直ぐに生きなければならない。若島は生涯その模範生でありたいと考えていた。

 

 その若島の足下で倒れていた若者が起き上がる。先ほど若島との組み手で意識を失っていた彼の弟子だった。


 「効くなあ、師匠のパンチは…、自信もごっそりと無くなっちゃったよおぉ」


 後半は泣きそうな声になっていた。若島は一顧だにせず稽古に戻る。日課の正拳突き千本が終わっていなかったのだ。


 「起きたならさっさと顔を洗ってきなさい、見田君。鼻血が出て酷い事になっているぞ」


 若島は正面に向って正拳を打ち込む。己の理想とするフォームに近づくまで何度でも繰り返した。


 「あのさ師匠。少しは弟子の事を心配してくれよ。優しい言葉かけてくれないと俺明日から道場休むからね?」


 見田と呼ばれた青年はカバンに入っていたポケットティッシュを丸めて鼻の穴に詰めた。

 若島は組み手の際に当たる直前で拳を止めるように言っていたが、この日は見田が言いつけを破って組み手で目突きを狙ってきたのだ。

 若島とて途中で止めるつもりだったが見田の殺気が込められた目突きが自動的に彼の反撃を引き出してしまったのだ。

 見田は青いバケツに水をくんできて雑巾で自分の出した鼻血の後始末を始めていた。


 (まだまだ私も修行不足だ。寸止めも使いこなせないようでは見田君の師匠は名乗れないな)


 若島龍夫は苦笑する。宗家の浪岡はこの世を去り、門下生も若島一人となってしまった浪岡道場だった。

 かつては厳道会館、大柳道場と並ぶ武道の名門も時代の流れには逆らえず若島と見田の二人が道場を守っているのが現状である。


 「このまま朽ち果てるのが運命という物か」


 若島は諦念と共に独り言ちる。もはや腕一本で身を立てるような時代ではない。かつて宿敵として考えていた天眼道場の武藤総司は現役を退き、片腕の安岡友也は野試合に敗北して行方を眩ませた。

 看板の重さが二人の男の前途を遮ったのだ。

 

 だが己の力に限界を感じていない若島はどうだろうか?

 この力を存分に振るってみたいという野心が消えたわけではない。

 見田を弟子にした原因も実際そこにある。


 「見田君、明日は暇かい?」


 若島は不意に見田を呼び止めた。


 「へ?」


 見田は街中のコンビニで購入した氷菓を食べている最中だった。


 「実は古い友人に稽古を見に来ないかと招待されていてね」


 見田は怪訝な顔つきで若島を見る。記憶が正しければ、若島は孤児あり幼少期から浪岡の道場を出た事が無い”箱入り”同然の男だった。そんな境遇で育った若島の友人といえば武道に関係した人間だろう。見田はまだ見ぬ強者との出会いを想像して、会心の笑みを浮かべる。


 本気の若島と戦いたいのは事実だが、自力に差がありすぎるのは明白だった。彼と互角の戦いをする為には経験が必要だ。


 「いいっすよ。俺暇だし」


 見田は快諾する。若島は想定通りの答えが返ってきた事に安堵した。二人はその後、深夜まで稽古を続けた。実家に帰るのをつい忘れてしまった見田は正午までこってりと母親に怒られたらしい。


 「あのさ、師匠。俺が母ちゃんに怒られてるんだから少しは助けてよ」


 見田は頭を抑えながら情けない声で若島に訴えた。若島は赤くなった見田の両耳を見ないようにしながら彼に謝る。彼の母親が説教をしている時に切れた見田が実力行使で制裁を受けた証拠だった。同席していた見田の父親も妻の躾は見て見ぬフリをしている。


 そうしている間に二人は天眼道場の建物の前に到着した。


 見田は額に手を当て、誰かを探している。


 「見田君、どうしたんだ?トイレなら建物の中にあると思うぞ?」


 「へへっ、違いますよ。神野のおっさんがどこかに隠れていないかなってね」


 見田は神野千里の姿を探していた。神野千里、天眼道場の総帥武藤総司と因縁を持つ空手家である。

 彼は武藤の唐手の師匠である嘉手納の遠い親戚にあたり、神野流という首里手の流れを組む格闘技の使い手である。

 つい先日、見田の師匠である若島が武藤の高弟である渕上という男の仲間だと思って襲いかかってきた時に見田は初めて神野と戦った。

 試合の結果は散々たる物で見田の必殺の左鉤突きは、神野の左膝蹴りの前に敗れ去った。


 (アバラは折ってやったけどな)


 しかし見田は顔面を潰され病院送りだった。

 見田の尊い犠牲によって若島と神野は和解して、神野は見田に土下座で謝罪してきた。神野が鬼気迫る闘志を持つ男だったので見田は複雑な心境になってしまう。


 「神野君か…。桜井さんの話を聞く限りではしばらく出て来れないだろう。大柳流の長田篤は簡単な相手ではないよ?」


 「あ。すいません、その話すっかり忘れていました」


 確かに神野は見田との戦いの後、大柳流の長田から挑戦を受けていた。

 長田は神野が大柳流柔術の正統後継者 本場恭兵をつけ狙っていると勘違いして勝負を挑んできたのだ。

 そして神野は肋骨が折れている事を隠して長田との勝負に応じている。


 (そうか。やっぱり神野のおっさんは勝ったのか)


 旧知の長田篤に悪いと思いながら見田は納得する。


 長田篤は見田が中学校の頃に帰国して大柳流柔術の正統後継者 本場恭兵に稽古をつけてもらっていた頃からのつき合いである。


 (師匠の言う通りだな。神野のおっさんも強いが、長田のおっさんも詰めは甘いが楽に倒せる相手じゃねえや…)


 そして、見田は忘れかけていた記憶を思い出す。


 「元は君が私の話も聞かずに喧嘩をふっかえたのが原因だ。少しは反省したまえ」


 若島はさらに追い打ちをする。

 見田は強い。武術を操る者として、人としての強さを持っている。しかし強さがばかりが目立っているが人は強さだけでは自我という物を保つことは出来ない。

 

 強さと弱さ、この二本柱が揃ってこその人間なのだ。


 「俺はどうせガキですよ…」


 見田は帽子の鍔を下げる。

 今回の失態は軽挙妄動、正にそれだった。己の欠点を衝かれて拗ねてしまうところが、見田の未熟さだろう。


 数分後、見田と若島は公設の体育館ほどの広さを誇る場所に到着する。これで建物の数ある運動スペースの一つというのだから【天眼道場」の影響力とは侮れない。


 「押忍。久しぶりだな、若島先生。そして見田助六君だったか」


 白い胴着を来た男が見田たちにわざわざ挨拶に来た。両手の拳を交叉させて頭を下げる。


 男の名は羽柴幸秀三段、武藤総司の率いる日本最大の武道団体【天眼道場】の幹部である。彼は創設期から【天眼道場】に在籍し、渕上派と呼ばれる派閥に所属していた。


 (コイツが神野のおっさんの親の仇、渕上ってヤツの手下か…)


 見田は羽柴という男を観察する。まず目を引いたのは左手のテーピングだった。部位鍛錬に励んだ人間によく出る症状で、角質化した部分がひび割れして出血したのだろう。


 手足は槍のように鋭く、鞭のようにしなり、鎚のように重いはずだろう。

 腕の不自然に盛り上がった筋肉が羽柴の確かな実力を保証してくれている。


 (ウチの師匠と戦ったらどっちが強いだろうか?…俺がこの場で挑戦したら受けてくれるだろうか?)


 自然とニヤけ顔になる。強そうな相手とは戦わすにはいられない、これが見田助六という人間の本性だった。


 「なあ、師匠。羽柴さんって天眼道場でどれくらい強い人なの?」


 羽柴はそれを聞いて面食らった顔になる。


 「おいおい、若島君。君が俺のどんな武勇伝を彼に話しているかは知らんが、俺はとっくに終わった人間だよ?」


 そういって羽柴は短く刈り込んだ髪をボリボリとかく。


 見田の目は男の足の甲に注がれていた。肌が擦れている。肌質たるや砥石で磨いたは包丁のようだった。


 (毎日蹴っているくせに。部位鍛錬を怠ってはいない。何の為だ?)


 見田の口元が自然と歪んだ。


 「見田君。挨拶はどうしたんだ。羽柴さんは年上だぞ?」


 若島の声で見田は素に戻った。見田は己の精神状態が平常には程遠い事が思い知らされた。神野千里に顔面を砕かれた日からずっとこうだった。格闘技経験者と会う度に血気立ったままになる。殺傷せずにはいられなくなっている。


 (神野だ、神野の拳が俺の心に残っている)


 神野千里、対戦者たちは彼を「逢魔の拳」と呼ぶ。見田助六は”魔”に魅入られてしまったのだ。


 「大丈夫か、見田君?」


 気がつくと若島と羽柴だけではなく他の門下生たちも集まっていた。見田は辛うじて頭を振り、健在を伝える。


 (やれやれ完治には程遠いな…)


 数分後、見田は若島と共に少し離れた場所から稽古を見る事になった。若島は気を利かせて見田にスポーツドリンクを勧める。


 「すいません。ご迷惑をおかけして」


 見田は礼を言うと周囲に「飲食禁止」というポスターが離れていない事を確認してからペットボトルに口をつけた。見田が普段の調子に戻ろうとしている姿を見て、若島は安心する。

 元を辿れば天眼道場内部のいざこざに部外者の若島が口を出した事が、神野千里に目をつけられた原因だったのだ。


 (中村君が残ってくれていれば、こうはならなかったのか?)


 若島は瞼の内で不運に見舞われ、失踪した好敵手 中村哲道を思い出した。中村が桜井流の直系である中村が道場に残っていれば武藤総司の独裁を誰も認めなかっただろう。武藤が望まずとも一度、神輿に担がれればただの一言でも自ずと誤解が生じてしまう。


 (自身の力に限界を感じて、の師匠の病気をダシにして田舎に引きこもった私にはもう何も言う資格はない…)


 見田は若島の苦悩を理解する。そして時折、砕かれた鼻骨から痛みが伝わる度に己の敗北を噛み締めた。


 (とにかく一本だ。もう一度、神野のおっさんと戦って一本取らなければ若島流は駄目になってしまう)


 見田は壁から背中を離すと道場で稽古を続ける門下生を眺めた。


 せいっ!せいっ!せいっ!老若男女を問わず、様々な空手使いたちが素振りを続けている。その理由は様々だろうが、今は一心不乱のはずだ。


 果たしてこの先に何があろうとも自分は自分のままでいられるか?


 見田は己の右拳を見下ろしながら己に問うた。

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