第49話 番外編 凛太郎と天音

 ある日の深夜、凛太郎のスマートフォンにメッセージが入った。相手は昴からだった。


 『明日の残業はお前がよろしく。あと、俺の車の回収も、俺の家に置いといて。場所は、moonlight』


 その文面を見て、静かに舌打ちをする。どうして他人の車を回収に行かなければならないのか、凛太郎に対し、昴は時折、こういった無茶を言う。恩人ではあるが、腹立たしいのには変わりない。それに、凛太郎には、同棲している彼女、天音がいる。それがわかっているのに残業を押し付けるあたり、少し意地が悪いとさえ思ってしまう。でも、彼女を優先するあまり、最近は、仕事に関することは疎かにしていたことは、間違いない。その皺寄せが部下や昴がきていることも、少しは理解している。


 どう足掻いても、たまには以前のように働く他ないだろう。昴への返事はもちろん『了解』の2文字だ。




 翌朝、凛太郎は、いつも通り天音とともに家を出る。

 以前、会社までの送り迎えを申し出たことがあったが、丁重に断られ、今ではマンションのエントランスまでが2人共通の通勤路となった。


 「じゃあね、凛ちゃん。行ってらっしゃい。」


 天音は、元気にそう言い、凛太郎とは別の出入り口へと向きを変える。


 「天音さん。」


 凛太郎は、そう呼びかけ、天音の手を握る。不思議そうに凛太郎を見つめる天音は、次に起こることを察して、目を閉じる。

 すぐに額に柔らかいものが触れる。凛太郎は、天音の額にちゅっと口付ける。


 「今日、遅くなる。ご飯先に食べてて。」


 「うん、わかった。気をつけてね。」


 名残惜しそうに凛太郎は、天音の手を離す。去っていく天音を見送ると、すぐにマンションの駐車場へと向かう。



*******




 仕事は順調に進んでいたが、残業を回避するのは困難だった。腕につけた時計の針が一刻と過ぎていく。


 「はぁ。」


 思わずため息が漏れる。その声に部下は、ただならぬ空気を感じたように、背筋が伸びる。


 「すみません。手際が悪くて。」


 そう言った1人の顔を凛太郎は、じっと見つめる。ここで何か小言を言って変わるのか、以前の自分なら問答無用に叱咤していたところだが、今は違う。天音と暮らし始めたことで、人間らしい慈しみの気持ちを多少なりとも取り戻した、気がした。もちろん、怒りが制御できないこともあるのだが。


 「あぁ。」


 そう答えると、凛太郎は、部下の仕事ぶりを監視しながら、自らは手に持った電子端末を見つめる。今日の仕事の出来高は、良好だ。残業した甲斐があったものだ。あと小一時間もすれば帰れる、そう思った時刻は午後10時を過ぎていた。




*******


 午前中に昴の車の移動を終え、午後からは残業や土日に出てくることを避けたかったので、無心で働いた。

 そして、マンションの駐車場に到着したのが午後11時18分だった。日付を跨ぐ前に帰宅できたことに胸を撫で下ろす。この時間だと、まだ彼女は起きていると確信できた。軽い足取りで駐車場内を移動していると、違和感を覚える。凛太郎の目の前には、今朝回収を終えたはずの車が停車していた。その場所は、マンションに訪れた客人のための駐車スペースだった。まさか、と思い、凛太郎は、コンシェルジュにも目をくれず、急足でエレベーターに乗り込む。高層階に移動する時間でさえも心が波立つ。

 チン、そう音が鳴り、エレベーターの扉が両側にスライドし、開く。開き切るのを待たずに、エレベーターを降りる。あの車は間違いなく、アイツのだ。家の鍵を鍵穴に差し込む。が、思った方向に回らない。鍵はすでに開いていた。鍵を抜き、ポケットに押し込むと、扉を開ける。玄関には二足の見慣れない靴が置いてあった。誰がきている、凛太郎の脳内に疑問符が浮かぶ。後ろ手に鍵を閉めると、大股でリビングルームまで歩く。扉をゆっくりと開ける。


 「あ、おかえり、凛ちゃん。遅かったね?」


 そう言ったのは、天音だった。

 そして、その両隣には、昴、ウイが座っていた。


 「何で2人が……」


 呆然と立ち尽くす。やっと気持ちを休ませることができると思った矢先に、凛太郎にとっては、少し面倒な面子が揃っていた。


 「あら、ごめんなさい。私も天音と過ごしたかったの。」


 「……天音に言ったのか。」


 「凛ちゃん、聞いたよ。ウイは、翼なんだよね。」


 「わりぃ、凛太郎。ウイの気持ちを察してやれ」

 

 「天音さんが笑ってるから良いものの、受け入れられなかったらどうするつもりだったんだよ」


 今にも掴み掛かりそうな勢いで凛太郎が言う。凛太郎は、天音のことが心配でたまらないのだ。翼の過去と今を知って、自暴自棄になったりでもしたら、とても見ていられない。


 「大丈夫だよ。私はね、翼が翼らしく生きてくれていたら、それで良かったから。ね、凛ちゃん、ご飯食べよ?」


 宥めるように凛太郎の顔を覗き込む。


 「…手洗ってくる。」


 そう言って、背を向ける凛太郎に、昴は、苦笑いをしている。


 「お前、アイツの相手大変じゃね?」


 「まるで猛獣使いね。」


 くすくすと笑い始める2人を見て、天音もつられて笑う。


 「凛ちゃん、すごく優しいでしょ」


 そう言いながらキッチンへ向かい、夕食が乗った皿をレンジへ入れ、電気ケトルのボタンを押す。凛太郎の食事を準備し始めたところで、凛太郎は、すぐにリビングへ戻る。相変わらずムッとした表情だ。凛太郎、昴、ウイがテーブルを囲む姿を見ることができるとは、天音も思ってはいなかった。


 「凛ちゃん、食べて。」


 天音は、凛太郎の前に夕食が載った皿とお茶を出す。


 「昴とウイが買ってきてくれたんだぁ。美味しかったよ。」


 サンキュ、手短にそう言うと凛太郎は食事を口に運ぶ。

 凛太郎と天音のそのやり取りは、微笑ましく。茨の道が待っているなど、誰も想像できないほどだった。きっと彼らはこの先、どんな困難が訪れても、2人でどうにかやり過ごしてしまうのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る