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「もう無駄だ、恐ろしい子供。生まれてこなきゃ良かったんだ。お前のせいで、お前の両親も死んだ、お前は誰も守れやしない」


ひ、と喉に呼吸が吸い込まれる。野雪のゆきが顔を上げた先には、志乃歩しのぶがいた。志乃歩は憐れんで眉を下げる、そして野雪の耳元で囁いた。


「お前は、人を傷つける事しか出来ない。生きる価値もないんだよ」

「え、」


頭が真っ白になった。

生きる意味をくれたのは志乃歩だ、その志乃歩に否定されたら、自分には何が残るだろう。


「世の中の為だ、許してくれ」


志乃歩の手に、ナイフがある。翳されるそれを、野雪は呆然と見上げた。そして、志乃歩の顔を見る。憐れむ微笑みに、野雪は唇を僅かに緩め俯いた。


そうだ、俺は誰にも望まれない。


志乃歩が決めたのなら、仕方ない。野雪は素直にそう思えた。元々許されない人間だと、そんな事は分かっている。


野雪は振り下ろされるナイフを受け入れ、目を閉じた。




「野雪さん!」




声と共に、炎の熱が横切る気配を感じ、野雪は驚き顔を上げた。


「目を覚まして!しっかりして!化想に呑まれないで!」


泣きそうな声に、はっとする。それと同時に背中に温もりを感じ、野雪は目を見開いた。気づけばそこは水も枯れた荒れ果てた荒野で、目の前にいた筈の志乃歩は、今は野雪を後ろから抱きしめている。少し離れた場所には、男に重なるようにたま子が倒れていた。


「…あ、」

「野雪!」


声に気づいた志乃歩は、野雪の正面に回り込み、その肩を強く掴む。腰を落として視線を合わせ、何度も野雪の名前を呼び、合わない焦点に焦って、その体を包むようにしっかり抱きしめた。


「野雪、大丈夫だ。野雪は誰も傷つけたりしない、僕達には野雪が必要なんだ!誰もたまちゃんを傷つけたりしないし、僕らもいる、野雪だけが背負わなくていいんだ」


大丈夫、大丈夫だと。何度も背を擦りながら語りかけていると、次第に地響きが止み、どこからともなく大地には静かに水が流れ、再び白い花がその水の上に浮かんだ。


「…志乃歩」


か細い呟きに、志乃歩は体を離して野雪を見つめる。合わせた瞳はいつもの野雪のもので、志乃歩は安堵したように微笑んだ。

その微笑みに、野雪は偽物の志乃歩を化想で見せられていたのだと気づいた。

これが本当の志乃歩なんだと、いつもの志乃歩なんだと、まだ志乃歩の側に居て良いのだと、野雪は胸が苦しくて、志乃歩の腕をぎゅっと掴んだ。


「俺、」

「大丈夫、たまちゃんが野雪を化想から救ってくれたんだ。皆も無事だから」


ぽんと、志乃歩はいつもそうするように、野雪の頭を撫でる。野雪は心底ほっとした様子を見せ、それからはっとして振り返った。


「たま、」


駆け出そうとする野雪の肩を押さえ、志乃歩は立ち上がると男の方へと顔を向けた。



野雪が過去に囚われている間、志乃歩達からは、水の狼が男に襲いかかろうとして突然動きを止め、直後、野雪が怯えた様子で膝をついたのが見えていた。その野雪の周りには黒い霧が立ち込めており、それが野雪に過去の出来事を見せていた。

野雪が志乃歩だと思って見ていたのは、たま子を捕らえたあの男だった。

男はナイフを持って野雪に近づいた。化想に囚われた野雪に近づくのは簡単だ、恐らく野雪の気を失わせでもして浚うつもりだったのかもしれない。志乃歩達も、野雪の荒れる化想で足止めをくって近づけず、その中で、たま子が炎に身を巻かれながらも、男に体当たりをして止めてくれていた。



そして、ようやく志乃歩が野雪の元へたどり着き、今に至る。野雪が落ち着きを取り戻したお陰で、荒れる世界も落ち着き、男に体当たりした拍子に、たま子の火の拘束も解かれていたが、その体は再び男によって押さえつけられていた。


「その子を放せ!」


男は志乃歩の声に舌打ち、再びたま子を盾に逃げ出そうとしたが、それは叶わなかった。

野雪が水を払った地面にその手で線を引けば、先程まで可憐に海に浮いていた白い花がみるみる内に大きくなる。それがふわりと浮かぶと、花びらは男に覆い被さってその体を包み込み、男の体を拘束してしまった。地面に転がった男は、どうにか拘束を解こうと身を捩るが、動けば動く程花びらは体を強く締め付け、男からは苦しそうな呻き声が聞こえてくる。


男が拘束されると、野雪の生み出した湖や裂けた地面は消え、元の山の姿が戻ってくる。木々を燃やした化想の火も消え、残った化想は、男を捕らえている花びらと、山を囲う壁だけだ。


「くそ!な、何してる!こいつらを捕らえるんだ!」


それでもまだ命令を下す男に、皆は呆れた様子だったが、たま子はびくりと肩を揺らし、戸惑いを見せている。


「たま子は道具じゃない、誰のものでもない」


野雪の声が近くに聞こえ、たま子が顔を上げると、野雪はこちらに歩みながら真っ直ぐと男を見ていた。いつもと同じ感情の見えない瞳、だけど、その瞳の奥で彼が怒っている事は伝わってくる。


「……」


自分の為に怒ってくれる人がいる。その事に胸が詰まる。たま子は地面についた手をぎゅっと握った。


たま子が唇を噛みしめ顔を上げた時、野雪の背後に微かに何かが光り、たま子ははっとして駆け出した。野雪の背後に伸ばした手、飛んでくる矢の雨が、たま子にはスローモーションに見えた。




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