20



ここから少し時間は遡る。


野雪のゆきのレッスンが続く中、志乃歩しのぶ黒兎くろと姫子ひめこに家を任せ、ひとり車を走らせていた。向かうのは、西ノ高等学校だ、朝食の時に話が出ていた通り、大晴たいせいの様子を見るためだった。


学校側にも志乃歩が行くことは伝えてあるので、今回はスムーズに入ることが出来た。

学校に着くと、教頭と少し話をしてから、志乃歩は許可を得て、校舎の中を見て回っていた。壱登いちとからもその後の様子は聞いていたが、学校内や近隣の住民の中に、大晴の化想に気づいた人や、化想の影響を受けたという人はいないようだ。報告を受けた通り、学校内も特に気にかかるものはなかった。


今は授業の合間の休み時間だろうか、生徒達が教室から廊下に溢れ、各々、自由に時間を過ごしている。

時折すれ違う生徒からは、見慣れない志乃歩の姿に、不思議そうに見やる視線が送られてくるが、そういう視線を向けられるのは慣れているので、志乃歩の態度は堂々としたものだった。


化想は一般的ではないし、化想を操る彼らをたまたま目にした人達もいる。無意識の化想を治める為に向かうのも、縁のない場所の方が多い。その為、不思議そうだったり、奇異なものを見る視線を向けられる事は多かった。だが、それだけだ。堂々としていれば詰め寄られる事もないし、許可を得てその場所に足を踏み入れているので、やましいこともない。ただ、声を掛けられた時の対応だけは、その現場に合わせて用意はしていた。

正直に、化想操術師です、なんて名乗っても不審がられてしまうだけなので、今回は、カウンセラーを名乗る事にしていた。今度、世話になるかもしれないから見学に来たと、なんとなく通じそうな理由をつけて名乗れば、そこまで不審がる生徒もいないだろうと。一応、教頭と口裏は合わせてあった。


なので、校舎内を歩いている最中、目が合った生徒には、こちらから「こんにちは」と声を掛ける事にしていた。これも、生徒に不審がられない為だ。挨拶をすると、不思議そうにしながらも挨拶を返してくれる生徒が多く、志乃歩の目には、印象の良い学校に映った。


それでも、これは上辺だけの印象だ。その中には、大晴のように傷つけられた人がいる。


この中で、大晴は苦しんでいたんだなと、廊下を歩いていると、校庭から賑やかな声が聞こえてきた。次の授業は体育があるのか、ジャージ姿の生徒の中に、大晴の姿を見つけた。賑やかな声の先には、サッカーボールを蹴る生徒がいる。大晴は、サッカーゴールを揺らす生徒を見て、しっかりと前を向いていく。その歩く姿は、力強ささえ感じられた。病院で会った時とは明らかに違う、充との約束が、彼に希望や勇気を取り戻させたのかもしれない。


今のこの瞬間だけで、全てを良しとする事は出来ない。これからも暫くは、シラコバトの巡回ルートにこの学校を入れるが、個人のみをいつまでも見守る事は出来ない。志乃歩のカウンセラーの仕事も、化想を出す可能性があるかどうかを診るので、現状に不安もなく、診察の必要性がなければ、そこに介入する事は出来ない。大晴が今、この学校でどんな風に過ごしているのか、もし、まだ辛い状況にあったとしても、志乃歩には、それを遠目から見守るしか出来なかった。


「まぁ、ひとまずは大丈夫かな」


心配は残るが、今は化想操術師として出来る事はない。化想を出すまでの状態でなければ、この見守りもその内なくなっていく。

志乃歩が踵を返そうとすると、校庭から、大晴の名前を呼ぶ声が聞こえた。志乃歩が窓の外に目を向けると、大晴を追いかける二人の男子生徒の姿があった。大晴は声に振り返ると、どこかほっとしたような笑顔を浮かべ、三人は楽しそうに会話をしているようだった。

大晴と周囲の関係性が、少しずつ変わってきているのだろうか。大晴が行動に移したのか、そこに充も関わっているのかは分からないが、そこに笑顔が見えて、志乃歩は幾分ほっとして肩を下ろし、改めて踵を返した。


あれが全てではないだろうし、これで全て上手くいくかは分からないが、誰かが小さくても声を上げられれば、何かを変えるきっかけになる事はきっとある。充の声は、大晴の盾になってくれているのだろう。


決意を新たにした少年の姿は、清々しくも頼もしく見えた。






学校を出ると、志乃歩は再び車を走らせた。病院へ行く前に、もう一ヶ所寄りたい場所があった。



志乃歩が向かったのは、日本家屋の立派なお屋敷だった。表札には、阿木之亥あぎのいとある。志乃歩は車に乗ったまま、塀越しにその家屋を眺め、その前をゆっくり通り過ぎる。すると、青い蝶が車のフロントガラス越しにゆらりと現れた。ただの蝶でない事はすぐに分かった。車のスピードに合わせて飛ぶ蝶を追いかけていくと、屋敷の裏側、同じ敷地内にある道場の前で蝶は消えた。路肩に車を停めて道場の中を覗くと、畳の上で正座をしている男がいた。

袴姿の背中はぴんと伸び、長い黒髪を後ろで一つに結っている。僅かに眉間に皺を寄せるのはいつもの事で、切れ長の瞳、その端正な顔立ちは、近所でも美形と有名だった。

彼は、阿木之亥秀斗しゅうと、三十五才。志乃歩の従兄弟だ。


「どうした?帰って来たのか?」


精神統一中だろうか。それでも、真っ直ぐに伸びた背中からは、優しい声が聞こえてくる。


「まさかー、敷居跨ぐなって言ったのはそちらですけど?」

「言ったのは当主の親父で、そう仕向けたのはお前だろ?」


秀斗は振り返ると、仕方なさそうに肩を竦めた。その様子からは、優しさや包容力を感じる。秀斗は志乃歩の事を弟のように可愛がってくれたし、志乃歩も秀斗を兄のように慕っていて、志乃歩にとっては阿木之亥家で数少ない心許せる存在だった。だから、志乃歩の態度も、自然と肩の力が抜けたものになるようだ。


「良いの?道場とはいえ、僕なんかが入ってさ」

「うるさい人達はいないから平気だよ」

「そんな事言っていいのー?秀斗は教室休み?」


「あぁ」と頷く秀斗に、志乃歩はそっかと返事をすると、頭を下げて靴を脱ぎ、道場に入った。


阿木之亥とは、古くから伝わる化想操術師けそうそうじゅつしの家柄で、秀斗は次期阿木之亥家の当主だ。それ以外にも、個人で書道教室を開いており、秀斗からはいつも墨汁の匂いが微かにした。秀斗にとって書道は、化想操術の手段でもある。


「あー、懐かしいなー。よくここで訓練サボって怒られたなー」


幼い頃、志乃歩はこの家で、化想操術師の訓練を、秀斗や同じ年頃の子供達と行っていた。志乃歩の父も化想操術師として訓練を受けてきたが、化想のせいで心を病む人を救いたいと思い立ち、家を出て医者になった。家を出ることに対して前当主の許しを得られたのは、次男であるという事と、医者も化想に関わる仕事に違いなかったからだという。


それから父親は、結婚。母の婿養子となり、九頭見くずみの姓となった。


医者の中では、阿木之亥の名前を聞けば化想操術師の家を思い浮かべる人も多い。世の中的に化想は知れ渡っていないが、化想のせいで心を病み、時に体にも傷を負う者がいるのだから、医者がそれを知らない筈がなかった。それも、阿木之亥のやり方は、患者を生みかねないやり方だ、阿木之亥を良く思わない医者も多く、志乃歩の父もそれは同様だった。家を出て婿養子となったのも、家のやり方に不満を抱いた事が理由の一つだという。


志乃歩が父の思いを聞いたのは、阿木之亥の下で化想操術師の仕事をするのを辞めた時だ。

阿木之亥家に生まれれば、その子も孫もその後の代も、化想操術を叩き込まれる決まりだった。志乃歩の父が九頭見になったからと言って、前当主が志乃歩を手放す事はしない。いつだって阿木乃亥は、優れた術師を求めている、家の存続の為に。


「僕は、陰陽師になれると思ったから、訓練頑張ってきたんだけどなー」

「そういえば、そんな事よく言ってたな」


ごろりと畳に体を投げ出した志乃歩を見て、秀斗は当時の志乃歩を思い出したのか、懐かしそうに表情を緩めた。



化想操術師を生んだとされる阿木乃亥家の歴史は古く、平安の世にて安倍晴明と共に活躍していたと、志乃歩達は聞かされていた。


「陰陽師とは、実は化想操術師の力によるものだったんだ」


子供の頃にそう聞かされた志乃歩は、化想操術さえ学べば、現代の安倍晴明になれるんだと、胸を高鳴らせたものだ。

だが、実際はどうだったかは定かではない。化想はどんな人にでも突如として起こりうる現象なので、平安の時代にあってもおかしくないし、化想を操る人間がその時代からいてもおかしくはない。だが、陰陽師が化想を操っていたのか、或いは陰陽師の裏に化想操術師がいたのか、はっきりと証明出来るものはなかった。


化想操術師の歴史は、術師が口伝で語り継いだものばかりで、それを化想の歴史として書に纏められたのも江戸時代からだ。阿木乃亥家の術師が本当はいつ生まれたのかも、定かではない。

それでも現代に於いては、阿木乃亥家は化想操術師にとって、とても大きな力を持つ家である事は間違いなかった。




「それより、どうした?何かあったのか?」


秀斗が思い出から顔を上げて尋ねれば、志乃歩は、のそのそと体を起こした。


「うん…シンがこの辺で騒ぎを起こしたって聞いてさ。また襲われたの?」

「あぁ、そうなんだ。部下の話だと、いきなり殴りかかるように襲われたらしい」

「計画性もなくって事?」

「そうだね、化想も中途半端で、ただケンカをふっかけられた感じのようだ。相手は捨て鉢になって見えたそうだよ」

「え、脅されてるとか?」


うん、と秀斗も悩みながら頷いた。



シンとは、化想想術師が創設した宗教団体の組織だ。

その組織の始まりは、阿木之亥家にあるという。五十年程前、阿木之亥家から追い出された術師が、その恨みを晴らす為に組織を立ち上げたという。

それから現在に至るまで、組織は年々大きくなっていった。組織の目的も、個人的な恨みを晴らす事から、阿木乃亥家よりも大きな化想操術師の組織をつくり、阿木乃亥家を潰す事へと変わっているようだった。


一般の人からしてみれば、化想とはまるで魔法のようだ。悩みを抱えた人々に、この力を持ってすればその悩みや不幸の連鎖は解決する、そして選ばれた自分達こそ、この世界を平和に導く救世主だと。自分達の理想とする世界を創る為には、この力を独占する阿木之亥家を滅ぼさなくてはならない、そんな風に布教活動を行っているという。

弱った心に、化想の力を信じ込ませる事は簡単で、今も信者は増え続けているようだ。



「化想の力を見て、それにあやかろうとする人達が組織をどんどん大きくしてきた。昔のシンの信者達には使命感すらあったって言うよ、一丸となって、目的に向かっていくようなね」


「最近は?」と尋ねる志乃歩に、秀斗は小さく首を横に振った。


「まとまりがないように思う。何かに怯えてるのか…組織の長が代替わりしたって噂だから、やり方が変わったのかもしれないな。昔はあった使命感は、ただの恐怖に塗り替えられてるようだ」

「話は聞けない?襲った奴らの」


阿木乃亥家の事だ、襲ってきたシンの信者を捕えている筈だ。ここには化想対策がとられた部屋がいくつもあり、牢屋と呼ばれる部屋も存在する。

そう思い尋ねたのだが、秀斗は「まだ眠ってるよ」とだけ言って立ち上がるので、志乃歩はあからさまに嫌そうな顔をした。

眠っているとは、阿木乃亥の術師が無理に相手の化想を壊し、植物状態のように、目が覚めない状態にさせてしまったのだろう。


「ねぇ、次期当主でしょ?そのやり方いい加減どうにか出来ないわけ?それじゃ、何の証言も取れないよ」

「残念ながら、嫌って程申し出た結果がこれだよ。俺が現場に出れば、化想を生み出した人の思いを汲もうとする、襲われたら襲った理由を聞こうとする。阿木乃亥は、化想を治めさえすればそれでいい、どんなものも支配する事が大事っていう考えだ。

だから、考えに反する俺には、もう現場に出ないで家の管理をしろと言われている。俺が現場に行こうとすると止められるんだよ」

「反発するから家から出るなって?家の管理っていったって……そうだ、秀斗は他の術師の育成をしたりしないの?」


秀斗が術師の育成に携われば、阿木乃亥が化想患者にも強引で暴力的な化想の治め方をする事は減るのではないか。志乃歩は願いを込めて尋ねるが、秀斗は肩を竦めて困ったように眉を下げた。


「させてくれないよ、俺の考えに影響された術師が増えたら、今までのやり方が出来なくなるだろ?だから、俺の考えに賛同してくれるのは俊弥としやくらいだ」

「…秀斗も、術師や被害者のアフターケアしてくれてるじゃん、ボランティアで。当主はそれ知ってるの?」

「今のところ黙認だな」

「…ふーん、相変わらずだな」

「誰かさんが戦力抱えて家を出るからな」

「はは」


苦笑う志乃歩に、秀斗もただの冗談で言ったのだろう、そっと表情を緩めた。


「まぁ、俺は中から変えるって決めたからな。お前こそどうなんだ、妙な術師を拾ったって聞いたぞ」

「黒兎は阿木之亥家の差し金かもって警戒してるけどね」

「そんな話聞いてないな…」

「やっぱり違うんだ」

「…いや、でも探り入れてみるよ。当主はまだ野雪君を諦めてないからな。何にせよ、気をつける事だ。茶くらい飲んでいくだろ?この間、美味しいお茶菓子をいただいたんだ」


そう言いながら、秀斗は部屋を出て行く。その背中に返事をしながら、志乃歩はその後に続いた。

道場とはいえ、ここは阿木乃亥の敷地の中、それでも、秀斗といると志乃歩は安心する。この従兄弟は、いつも味方でいてくれるからだ。

それを再確認して、温かい気持ちに包まれていた。





時間は戻り、現在。


昼寝をすると言って庭に向かった野雪は、シロのふわふわの毛に包まれ、目を閉じていた。風が髪を浚う穏やかな時間。その片隅で、姫子と黒兎が言い争う声が聞こえてくる。二人は喧嘩しながら庭掃除中だ、いつもの光景は、口喧嘩すら子守唄に変えてしまうようだ。


「…ここはあったかいな」


野雪が抑揚なくポツリと呟くと、背中でシロがおんと鳴いた。優しいその鳴き声に、野雪は心の中も温かさで満ちていく気がした。



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