8




物怖じしない野雪のゆきは、滑るように坂を下りて行く。底の見えない暗い急斜面を、よくも軽快に進むものだと、たま子は感心したが、感心してばかりはいられないと、慌てて気合いを入れ直した。


こんなところで怖じけずいてはいられない、このままでは野雪に置いてかれる、置いていかれる事の方が、たま子には恐怖だ。たま子は心を奮い立たせ野雪に続こうとするが、それでも野雪のように立って坂を下れそうにはないので、お尻をついて慎重に滑っていく事にした。格好はつかないが、怖いものは怖い。目の前は底の見えない暗闇の坂道で、一歩間違えば、奈落へと落ちてしまいそうだ。


たま子がそんな風に恐怖と戦いながらお尻を滑らせていると、ふいに野雪が足を止めた。


「野雪さん?」


何か見つけたのかと、焦る気持ちはあれど、それでも慎重に向かわざるを得ない、そんなたま子をそのままに、野雪は自分の足元を見つめていた。


野雪の足元には、白い骨があった。形からして、先程のサメだろうか。標本のように綺麗な骨が、そのままの形で残っていた。その骨の中に、一枚の写真があった。野雪がそれを拾い顔を上げると、突如、見えなかった海の底が野雪の足元に現れた。続けて、大きな地響きを上げながら岩の壁が目の前に聳え立ち、たま子は悲鳴を上げて思わず坂を後退った。野雪はそれでも驚く事なく、冷静に辺りを見回しながら壁に向かって歩いていく。現れた壁には、くたびれた様子の木の扉があり、野雪はそれをゆっくりと開けた。


「見つけた」


突然の海の変化に腰を抜かしていたたま子だが、野雪の声にようやく立ち上がると、急いで野雪の側に向かった。そして、恐る恐る、野雪の背中越しに顔を覗かせた。扉の中は、暗い洞窟のようになっており、その中で、少年が一人足を抱えて座っていた。


「どうした、こんな所で」


年齢は、五、六才くらいだろうか。少年は、野雪が声をかけても、顔を上げる事もない。野雪は先程拾った写真を、そっと彼の足元へ置いた。


「…僕が、全て壊した」

「壊した?」

「…何もなくなった、」


少年が呟く度に、洞窟の壁も、暗い海の水もドロリと溶けていく。海底の砂もぬかるみ、黙って立っていたら体が沈んでしまいそうだ。たま子は途端にパニックになり、沈まないように足をバタつかせたが、動いた分、ますます体が沈んでしまう。そして気づいた、体が泥に沈んでいるのではなく、地面から泥が湧き出ているのだと。


「の、野雪さん!」


このままでは、溢れる泥にこの世界が沈んでしまう。焦るたま子とは対照的に、野雪はやはり冷静だ。野雪はたま子の手を取ると、自分の腕を掴ませた。


「大丈夫だ」


そう、野雪は無感情に言う。状況が状況なので、何を呑気な事をと言いたくなるが、野雪がそう言うと、大丈夫だと思えてくるのが不思議だった。たま子は泣きそうになるのを堪えて必死に頷き、野雪の腕を掴んだ。

それを確かめて、野雪は少年に向き直る。


「君の心の中は綺麗だ」

「え?」

「ちゃんと悲しんでる。向き合ってる証だと思う、何があったか分からないけど、誤魔化そうとしないで、ちゃんと」

「…だって、だって、僕のせいだから」

「後悔してるのか」

「こんな筈じゃなかった…!」

「うん、」

「本当に望んだ訳じゃない、でも願ったのは、僕で…」

「それが君の後悔か」


野雪の声は、やはり抑揚のない声だった。野雪は、自分の体がもう膝まで泥に埋まっているにも関わらず、落ち着いた動作でショルダーバッグからノートとペンを取り出した。


「自分が許せないからなんだな」

「僕の心は綺麗なんかじゃない、醜い、こんな自分…」

「でも後悔してる、悲しいのはどうして?」


少年は戸惑い顔を上げた。少年の周りだけは何ともないが、海の底はどんどん泥が迫り上がり、それは野雪達の胸にまできていた。


「あいつのせいじゃないのに、裏切られた気がして、あいつがいなければとか、思って、簡単に思って、会うのが怖い、あいつが、みんなきっと俺のせいだ、辛い、」

「会えない事?」

「…友達じゃ、なくなること」


そうか、と呟き、野雪はノートに線を引いた。



その一本の線で、世界が変わる。



野雪が大丈夫だと言うなら、きっと大丈夫だと、たま子は何度となく自分に言い聞かせた。きっと、埋まる泥の先に出口があるのだと、たま子は泥に沈む覚悟を決めて目を閉じて息を止めた。この泥もまやかしのようなもの、そう思っても、泥の中で息を吸い込む勇気は持てなかった。


顔が泥に埋まっていくのを感じたが、それも束の間、すぐに体は自由になり、同時に体の支えとなるものを失って、たま子は尻餅をついた。「痛っ」と、自分が声を発したことに驚いて、目を開きはっと息を吸う。気づけば海は消え、たま子達は青空の下、芝生の上にいた。


「こっちこっち!」と、子供の声が聞こえて目を向けると、二人の少年が、サッカーボールを蹴って遊んでいた。彼らからは、楽しそうな笑い声が絶えず聞こえてくる。


この一変した世界に、たま子は理解が追いつかずぽかんとしたままだが、野雪はやはり驚くこともなく平然としている。


「あれは、君達?」


野雪は、世界が変わっても膝を抱えたまま顔を上げない少年に尋ねた。


「…僕の傷つけた友達」

「…そうか、傷つけたくなかった友達か」


少年は、ぎゅっと膝を抱える手に力を込めた。


「僕、分からないんだ、どうしたら良いのか」

「…俺は分かるよ、君がどうしたいのか」

「え?」

「失いたくないんだ、あの友達を」

「…もう遅いよ」

「さっき、会うのが怖いって言った。会ってないの?」

「会えないよ、だって、怖い」

「君が傷つくから?」

「……僕は、最低なんだ」

「皆、そんなものだ。でも、遅いかどうかは分からない。人の心は、触れてみなければ分からない。俺は、君の心の中に触れて、後悔してるんだと思った。でも、その友達の心は俺には分からない、まだ触れた事がないから」


コロコロと、サッカーボールが転がってくる。野雪はそれを、隣の少年へ転がした。


「海の中じゃ、全てを呑み込まないといけない。何も伝えられない。後悔に閉じこもっても、ずっとその後悔が続くだけだ。認められる強さがあるなら、その人とも向き合える強さもあると思う。君の心はとても綺麗だ、だから諦めてほしくない」

「……」

「君は、戻りたいんだろ?」


少年は顔を上げた。小さな子供の姿から、高校生の姿へと戻っていく。それから、泣きそうに顔を歪めると小さく頷いて、再び顔を伏せた。


「行こう」

「え?」


野雪は少年をその場に残したまま、たま子の手を引いて一歩下がる。すると、景色は再び一変する。潮が引くように青空も芝生も彼らも遠ざかり、たま子と野雪は教室の中に戻っていた。壁も天井も床もある、まだ机が浮遊する水の中だが、それでも最初の景色に戻ってこれて、たま子はほっとして体中から力が抜けてしまった。


それは、志乃歩しのぶも同じ思いだったようで、戻って来た野雪とたま子の姿を目に止めると、心底安心した様子で表情を緩めていた。

しゃがむ志乃歩の側には、あの少年が静かに横たわっていた。



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