第29話 一発の値段、バナナ3本分

 18時過ぎ、あたりは真っ暗。バスから降りた途端、冷気が容赦なく薄着の私を襲う。車内で教えてもらった通り、今宵の宿はバスターミナルの目の前にあった。スーツケースを引きずりながら、速足で建物に向かった。

 1階に売店があり、その脇で、チェックインの手続きをしてくれた。手続きといっても、こちらが予約したサイトと名前を言ったら鍵をくれただけだった。   

 この界隈は、山グッズやおみやげ物、防寒グッズを扱う売店と宿を同時経営しているところばかりだった。

 この宿のご主人がスーツケースを持ってくれ、2階の角の部屋まで案内してくれた。自ら部屋のカギを開けようとしてくれるのだが、なかなか開かない。これもまたコツがあるらしい。1分ほどガチャガチャ回して解錠。ドアを開けた途端、強い据えた臭いが鼻を攻撃してきた。山小屋であるから、ある程度の低クオリティは覚悟を決めていたものの、一瞬入室を躊躇ってしまうほどの部屋である。そして予約サイトに掲載されていた部屋の写真と180度違う内装だ。あの写真は一体いつの頃を写真なのだろうか。一番驚愕したのは、まずトイレとお風呂が外にあったことだ。ベランダに備え付けられていたのだ。シャワーに関してお湯は出るが、長く使用していると、ブレーカーが落ちるので、手短に済ませるようにと言い残し、スタッフはさっさと部屋を出て行った。

 汗もかいているのでお風呂に入らないという選択肢はなかったが、相当な覚悟が必要なバスルームだった。ともかく意を決してバスルームに飛び込み、ブレーカーが落ちないよう、こまめにシャワーを止めながら、さっさと汗を流した。

 かび臭い部屋に戻り、明日の登山準備に入る。そしてストレッチをしながら買い込んできた食料を胃袋に詰め込んでいた時だった。

部屋をノックする音が聞こえてきた。


誰だろうか。


 宿のスタッフだろうか。のぞき穴がないので外の様子が伺えない。

 私はスーツケースの中から虫よけスプレーを取り出し、左手に握った。

「どなた?」

「グッドイブニング!」

 男性の声が聞こえる。やはり先ほどのスタッフだろうか。

 鍵を開け、ゆっくりとドアを開けると、年の頃40前半位の男性が手に何やらトレイに盛って満面の笑みをたたえて立っていた。目を凝らして見ると、ウエルカムなんちゃらにしては貧相な盛である。それに男性も宿のスタッフに見えない。私はスプレー缶を握る手に力を込めた。

「なんですか?何かありましたか?」

「今夜、どう??」

 男性の手にはあるトレイを再度見る。いつ用意したのか分からない、疲れ切ったバナナ3本と至る箇所を殴られて黒ずんでいるオレンジ2個が大人しく置かれている。  

 この宿に女性が1人で宿泊しているぞ、と言う情報はどこから流れたのか。宿のご主人経由か、はたまたナタラニアまでくる道中で親しくしゃべっていた乗客経由か。

ともかく一晩、バナナ3本とオレンジ2個で一発勝負させてくれと、と何度

も繰り返す。えらく安く値踏みされたもんである。


男性の体格は非常に小柄で、背丈もほとんど私と変わらなかった。


「今夜どう?」

もう一度、男性が口を開けた瞬間、私は虫よけスプレーを男性の喉めがけて

吹きかけた。男性の体勢が少し緩み、トレイから果物が零れ落ちた。

「※★〇△×※★〇△×※★〇△×!」

大声で喚きながら、地面に落ちた果物を投げつけたり、スプレーをかけてい

たら、すぐに隣の部屋に宿泊していたカップルがドアから飛び出してきた。

片手にスプレーを持ち、果物をよく分からぬ男に投げつけている私を見て、ただならぬことが起きているのだなと察知したカップルは、ともに大声を張り上げながら追っ払うことに対して加勢してくれた。

 男性が走り去った後、何があったのか聞かれ、つたない英語で説明していたら、部屋にある机などを使い、バリケードを作ろうと提案してきた。そして自分たちの部屋にあったイスや棚を私の部屋に持ってきてくれ、バリケード作りを手伝ってくれた。

 隣の部屋のカップルはフィンランド人だった。昼間アダムスピークを登頂してきたという。アダムスピークは階段中心であり、7862段あるから3~3時間半で登れ、2~3時間で降りることができると教えてくれた。日ごろ運動していない私は平均値に30分+アルファして行程を計算した。明日は午前2時には出発する、と告げると、何かあったらすぐにまた大声でシャウトするんだよ、あんたの声は素晴らしい声だから部屋にまっすぐ届くからね、笑顔で彼女は私の肩を叩いてきた。


よく通る声を持っていてよかった。

 

 治安が決して良い宿ではないと判明しても、隣に心優しい人たちがいると思うと、

少し安心できた。が、疲れているはずなのにすぐには寝付けなかった。隣に誰も宿泊者がいなかったらどうなっていただろうかと想像した時、身震いも襲ってきたからだが、何よりも外が騒々しかった。目の前のバスターミナルが広場のようになっていて、ここで民族音楽に合わせてずっと音楽イベントが行われていたのだ。部屋はストーブが欲しいくらいに涼しい。ジャージなどをかなり着込み、耳栓とアイマスクをして横になった。

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