怜堂玲奈は捧げたい。
もう一週間ほど学校に行っていない。
思い出せば、頭の中は締め付けられて、心臓には針が刺さったような痛みがする。
「立花君…やっぱり会いたい…うっぷっ、おぇぇ、は、はぁ、はぁ…は、はは、はぁ…」
今までの自分はこんな思いをしたことはなかった。ねだるなんて、浅ましいとさえ思っていた。
特別何かが彼とあったわけじゃない。たまたま見えた悲しそうな色。時折見せる悲しみの顔。
最初はそう思った。
周りの楽しそうな空気に合わせているのに、隔てられた空間に1人だけいる。その白黒のコントラストが気になった。
そんな雰囲気の人は見たことなんてなかった。
今思えば、あれが一目惚れなのだろう。
私には空気が見える。
中学の頃から感じ出した。浮ついた空気、邪な空気、イジメの空気。良いか悪いかの二色しかない私の世界。
様々な空気と戦ってきた。
でも彼にはそんな空気、さらさらなかった。
蜷川ニーナ。一年生の時、彼と付き合っていた子で、一学年上の先輩だった。
彼が寝取られたと聞こえてきた。それも親友にだ。我慢のならなかった私は気付けば須藤とニーナ先輩に問い質しに行っていた。
『ああ、怜堂さんか。清春とのことかい? ニーナ、説明してあげて。いや、俺もこんなつもりなかったんだけどね』
『怜堂さん。私は須藤さんを愛していたのです。立花さんは違った。ただそれだけですわ。付き合ったのが間違いで…いえ、須藤さんに出会えたので間違いでは無かったのでしょう。彼は役に立ちました』
唖然とした。
血の気が引くような。青を通り越した真っ黒な空気。
それ以上何も言えず、すぐに立花君のところに駆けた。でもそこにはまったく空気の変わらない彼がいた。
諦めも、絶望もしていない空気。
ただただ悲しい空気。
私はそれ以上近づけなかった。
助けたい、癒してあげたい思いだけが燻っていった。
「…あの時…そういうことだったんだ」
理森に貰ったドリームキャッチャーみたいなお守りを手にしてからは次第に悪夢にうなされなくなっていた。
いや、悪夢じゃない。
現実だ。
『どういうこと! ニーナ先輩まで! それに…大輝ガールズが集まって何を…』
『いやいや、お前が自分で来たんだぜ?』
『わかってるわ、そんな事! 私に何をしたのよ!』
『何をって、魅了だけど?』
『頭おかしいんじゃない』
『お前、清春の彼女だろ? だからさ』
『…そうよ。それがどうしたの』
『ああ、わかるぜ、わかる。お前の清春に向ける愛が俺にはわかるんだ。誰に向いてるかなんて、俺にはわかるんだ。理不尽にな』
『何を言って…それより帰るわ』
『はは。お前は帰らないぜ。お前清春の目を覗いたな? 愛を持って見つめたな?』
『…? それが…何よ』
『清春も罪なやつだなぁ。こんな青臭いビンビンの初恋に気づかないなんてよぉ』
『…だからそれが何…私が彼を好きになっても別に』
『ああ、いいぜ。清春なら最高だ。良いやつだからな……だからそれが俺に変わる。また理不尽に』
『……ああ、須、須藤君…須藤君。立花君とは偽の彼女役で…ごめんなさい!』
『ああ、やっぱりか。清春見てそう思ってたぜ。なら、今日は帰っていいぜ。ちゃんと彼女じゃないなら意味ないしな。リモート寝取り試そうと思ってたけど、お預けだな』
『か、帰らないわ! 私も…そ、その』
『…ん? …そうか? なら今からのはただのプレイだから気にしないでいいからな。玲奈は予習しときな?』
『わ、わかったわ』
『さあ、京子、来い。大きく鳴けよ。ここは防音だからな』
そこからはただひたすらに悲惨だった。
京子は泣き叫んでいた。
ニーナ先輩は必死に抵抗していた。目に涙を溜めながら舌を噛み切ると言っていた。
有紀ちゃんはポロポロとすすり泣きながら立花君の名前を呟いていた。
桐花は吐きなから睨んでいた。
杏子ちゃんは壊れていた。
文香は絶対殺すと叫んでいた。
絵子は…どこにもいない立花君に大好きだよとうわ言を繰り返していた。
そして私は…
「うげっ、えぶ、おぇぇぇ…立花、君…」
この須藤の悪夢から解放されるまでは本当にプレイだと思っていた。思わされていた。
でも、私はまだマシだった。
偽彼女だったから。
彼女達と違って立花君に告白していなかった。
彼から愛を貰ってなかった。
彼女達みたいに引き裂かれなかった。
彼女達みたいな激情には駆られなかった。
だから私にだけわかった事がある。
彼から愛を貰わなかったからわかったことがある。
あの日見たあの白黒のコントラストは無念の空気だった。
あれは、須藤だけじゃない。
須藤の悪魔だけじゃない。
彼に降りかかる、いわば呪いだ。
私の処女なんて目じゃないくらいの痛みだ。
彼を灰色に変えたい誰かがいる。
「はぁ、はぁ、は、は、立花君のためなら、ああ、私、やれる。やれるわ」
他の子には出来ないことだ。知らないことだ。立花君と心を通わせたら多分もう駄目だ。彼女達には絶望しか待ってない。
だから私が彼を助け出す。
「理森、早く、早くして」
このままじゃ出し抜けない。
焦燥感だけが募る。
理森にやっぱり相談…いや、駄目だ。理森も怪しい。この不思議なお守りが証明している。あの理森がそんなことをするとは思えない。
それに。
これは私だけが知る立花君のこと。
出遅れた私だけの武器。
思い出のない私だけの鍵。
誰がそんなことをしたのかわからないけど、立花君を助けて奪ってみせる。
あの悪魔はじきに消える。だから玲奈は大人しくしておいて。理森はそう言った。
でも、駄目だ。
まずは須藤を壊さないと。
あの悪魔のまま壊さないと。
あいつは、私の心を彼と繋ぐために捧げる──
「…あ、ニーナ先輩ですか。玲奈です。ああ、泣いてましたか? それはそれは…それよりあそこ、あのマンション、借りても良いですか…? …悍ましい場所…? んふ。先輩…あそこは…今から愛の空気に満たされる…神聖な場所ですよ?」
───ただの生贄だ。
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