無能嫁は離縁がしたい
*
「いくわよ……ルルっ」
まだ暗いうちから起き出して、手早く着替えを済ませたエリアーナは、気持ちを震い立たせるようにワンピースの袖をまくる。
今日は土曜日、作戦の実行を決めてから二番目の休日がやってきた。
義理の両親が昨夜から友人宅に泊まっていることは確認済みで、屋敷に戻るのは夕刻になるとも聞いている。
アレクシスも休日は愛人と離れにこもるはずだ。
真新しいエプロンは、夫のために厨房に立って料理をすることもあるだろうと実家から持参していた。右側のポケットにはうさぎが入っている。
(ねぇ……エリー! チャンスは一度だけ。準備はばんたん? 思い残すことはない?!)
エリアーナに負けず興奮ぎみのうさぎがザワついている。
急がねばならばい——使用人たちはすでに朝の大掃除を始めているはずだ。
自室をとびだし、中庭を囲む回廊を足早に歩く。
東の山際から顔を出したばかりの太陽は、細長い光の剣を木々の合間から忍ばせはじめていた。
——まだ六時にもなっていないのよ? 朝食を用意する厨房付きならまだしも、メイドたち全員がこんなに早朝から働いているなんて。夜だって、お義母様が起きてらっしゃるうちは帰れないみたいだし。
いくら住み込みだとはいえ、ジークベルト家の屋敷で働く使用人たちが一般的な基準よりも重い労働を強いられていることを、エリアーナはずっと気に掛けていた。
「やだ、私ったらっ」
(え、なに、どうしたの?)
「お
くるりときびすを返し、自室にあらかじめ準備してあったものを急いで取りに戻る。
(相変わらずエリーはおっちょこちょいだなぁ)
幸いなことに、自由に使えるお金はじゅうぶんに与えられていた。侯爵家の奥方として恥ずかしくないよう、豪華に着飾るための資金として(使う機会は無かったけれど)。
二週間かけて必要なものを取り寄せ、この日のために着々と準備を進めてきたのだ。
——宝石を買うほどではないけれど、けっこうな金額のお金を使ってしまった。失敗するわけにはいかない……!
視線の先に廊下の床を掃き清める数人のメイドの姿が見える。
——まずはあの人たちから。
「おはようございます」
力を込めて声をかければ、驚いたように数名のお団子頭がこちらを向いた。そして
「おはようございます若奥様」
——突然声をかけてもこれだもの。お義母様の
エリアーナは手に持った大きな鞄を床に置き、うさぎが入っているポケットの反対側のポケットから紙とペンを取り出した。
「お仕事中にごめんなさい。あなたたちに、聞きたいことがあるのだけど——」
人間の皮をかぶった機械仕掛けの人形なんじゃないか。なんて思っていた彼女たちが人間らしく困惑する顔を見れば、どこかほっとしてしまう。
エリアーナは誰かと出会うたびに同じ質問を繰り返した。メイド達はその都度困惑していたが、エリアーナの問いかけには丁寧に答えてくれたのだった。
次に向かった先は、義母が時々友人たちを招いてパーティーを開いている『宴の間』だ。
マホガニー製の重厚な双扉には繊細な美しい彫刻が施されている。その双扉を片方ずつ、ゆっくりと開け放った。
目の前に広がる空間は広々としているが、ぶ厚いカーテンが引かれた室内はとても暗い。
ほんの一瞬だが、義母が激怒する顔が思い浮かんで背すじが粟だった。
「ルルっ……本当に、大丈夫かしら?!」
(今更なに言ってるの。ここは絶対、外せないでしょ?)
ぶるりと震えれば、揺らぎそうになる心をもう一度奮い立たせる。
——お義母様。
大切なお部屋に勝手に入ってごめんなさい。
勝手な事をしてごめんなさい。
(エリーってば! いちいち頭下げてる場合じゃないよ。ロザンヌ様が大事にしているお部屋なんだから、いちばん気合いを入れなくちゃ)
ポケットの中のうさぎがしきりにもぞもぞ動いている。
「わかっているけどっ。誰だって、大事なものに勝手に触れられるのは嫌なはずよ?」
(そうだよ、その通り! エリーは忘れたの? それが目的でしょ!)
——そうだった。ルルの言う通りだ。
作戦を成功させて、離縁に持ち込むのが目的なのだった。
「私ひとりじゃ手に負えないから、
(助っ人って、誰が来るの?)
「それが、結構な人数なのっ」
ルルが提案した作戦を実行するとなれば力仕事で、エリアーナひとりではどうすることもできない。
家令や使用人たちから様々な情報を集めることから始まり、二週間をこの日のために費やしてきた。
———こうなったら、もう
義母の趣味で集めている骨董品の数々が鈍い光を放っている。
部屋の中央に置かれたいかめしい甲冑を眺めながら、エリアーナは改めて自分自身を励ますのだった。
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