第7話 彼方の世界

 静かだった。

 二人の足音だけが廊下に響いて、そして止まった。


「それじゃ……ここまでかな」


 一緒に来てくれてありがとう――そうけんは続けるつもりでいた。


「……ありがとね」


 かおるの、オレンジ色に染まった頬が、まるで夕陽そのもののように眩しかったのを憶えている。

 見惚れていた。返事をするタイミングを見失うほどに。


「何だか気持ちが楽になった気がする。やっぱあれだよね、『人は前にしか進めない』んだって」

「あ、うん。そうかもね」

「……それだけ?」

「ん……え?」


 またしても望みどおりのリアクションを取れなかった。落胆する献慈にさらなる追い討ちがかかる。


「も~はぁ……入山くん、卒業文集に書いてたじゃん、中学の。『人ってのは立ち止まったり、あちこちよそ見したりもするけど、結局は前にしか進めないんだ』って」


(文集って、まさか……提出期限ギリギリの危ういテンションに任せて自己陶酔モード全開で書きなぐったアレかぁああァ――ッ!!)


「みんな無難な作文とか載せてる中で、あのポエム? みたいなの印象残ってて」


(そうでしょうねぇええェ――ッ!! 俺も今の今まで思い出すことのないよう記憶を封印してましたからからねぇええェ――ッ!!)


「私、いい言葉だなって思ったの。入山くんと話してて、改めてそう感じた。だから……ありがと」

「こ、こちらこそ。その……また明日」


 今日会ったのですら偶然なのに、明日会えるかなんてわからない。名残惜しさに口をついて出た言葉に過ぎなかった。

 馨は無言でうなずき、ゆっくりと背を向け遠ざかってゆく。


(はぁ……しかし我ながらよくもあんな恥ずかし……いや、よそう。せっかく真田さんが気に入ってくれたんだし。むしろ開き直って今後は座右の銘とするべきか……)


 体育館へ続く曲がり角に馨が姿を消すその瞬間まで、献慈は彼女を目で見送った。

 残り香が尾を引いている。いまだ夢の中にいるような、ふわふわとした気分を振り払うように、献慈は保健室の扉に向き直った。


(これ置いたら今日はもう帰ろ……)


 救急箱を持つ右脇にビデオテープを挟み、左手でノックを――


「えっ……」


 心臓が、早鐘を打つように高鳴った。無意識に感じ取った違和感が、言い知れぬ恐怖を喚起する。

 扉に落ちた自分の影が異様に長い。


(夕陽――早すぎる。夏だっていうのに)


 窓が全部閉め切られている。生徒も職員も誰もいない。セミの声一つ聞こえない。


(いつから……)


 一体、いつからこうだった――?


さなさん……」


 張りのない声だ。すっかり怖気づいているのが、自分でも痛いほどわかる。

 是非もない。名を呼んだ相手が去った向こうから、得体の知れぬ真っ黒な濁流が襲って来るのだから。


 音もなく。


(真田さん――――!)


 身じろぎ一つできぬまま、献慈は黒い奔流の懐へと呑み込まれていった。


 完全なる闇と静寂。五感は失われ、思考すらも薄らいでゆく。

 自分という存在が闇の中へ溶け混んでゆく恐ろしい予感を前に、抗うすべも意志も持たない。


 かつて入山献慈と呼ばれていたそれは『世界』の一部となりつつあった。

 無限の過去と永遠の未来を内包する情報の海を漂ううち、一つの声が誘い導くように語りかけてくる。

 

「こっちへ…………と……交代…………」

 

 伸ばされた手をしっかりと掴む。どこまでも透き通るあたたかい流れに乗って運ばれた先に、もうひとつの『世界』があった。




  *




「――それで……次に気がついた時、俺はあの場所に寝そべっていたんです」


 献慈が話し終えるのを待って、おお曽根そねは重くうなずいた。


「そうか……君はそんな大変な目に遭っていたんだね」


 自分という存在が消え去ってゆく実感。

 言語に絶する恐怖。

 無意識に押し込め、忘れていたのだ。真田馨にまつわる記憶とともに。


「私もさっき聞いて怖くなっちゃった。でも献慈くん、落ち着いたみたいでよかった」


 みおの言葉一つ一つが、献慈の打ちひしがれた心に寄り添う。


「さっきはその、取り乱したりして、すいませんでした」

「ううん、全然。それより早くご飯食べちゃいましょ――あ、お魚の骨、私が取ってあげよっか?」

「じ、自分で取れますので……」


 食卓に並ぶ焼き魚はヒゲウオといって、北の港町から運ばれて来るらしい。二日ほどかかる輸送には当然のごとく魔導による保存技術が用いられている。

 食べ物も技術も、元の世界のそれとは似て非なるものだ。


「何かおかしかった?」

「おかしくはないですけど、あっちの世界にはいない魚だなと思って」

「そうかい。君の暮らしていた……地球といったかな? こちらでいうユードナシアのことを」


 ユードナシアとは元々死後の楽園を指す言葉だ。時代が下るにつれ楽園は理想郷となり、やがてはマレビトが渡り来る彼方の世界と結びつけられるようになった。


「はい。たしか、こちらの世界のことは、トゥールモン……」

「トゥーラモンド。日常口にするには仰々しい呼び名だが、国際行事のような場ではよく使われるね」


 トゥーラモンドが意味するところは〝この大地にあるものすべて〟。こちらも古くからある言葉らしい。

 両世界の間に横たわる隔たりは一体どれほどのものか。


 不意に箸が止まった献慈を見て、


「お腹減ってなかった? さっき私がおにぎり食べさせちゃったから……」


 見当違いな心配を寄せてくる澪がどうにも可笑しかった。


「いえ……会ったばかりの素性も知れない俺なんかを受け入れてくれるのが、本当にありがたくて」

「さっきも言ったけど、献慈くんが思ってるほど大したことじゃないよ。きっと……お母さんだって同じようにしてたはずだから」


 それぞれ別の方を向いた父娘の眼差しは、ここにいない同じ面影を追っているように見えた。


「……そうだな。行くあてのない者を放り出すなんてできはしないよ。村の外にはカッパよりもずっと危険な魔物だっているのだからね」

「あれよりも危険な魔物が……」

「そっか、ユードナシアには魔物っていないんだっけ」

「魔物も、それから魔法も、おとぎ話の中だけです」

「ふむ……やはり君はマレビトなんだなぁ」

「……そうなんでしょうか」


 献慈が曖昧に応じると、大曽根は言い改める。


「いや、疑っているわけじゃないんだ。我々にとってもマレビトやユードナシアというのは、書物の中で語られるだけの存在だったものでね」


 不測の出来事に戸惑っているのは、献慈の側ばかりではないのだ。


「それにしても、よく俺が別の世界の人間だと気づきましたね」

「私たちが出会った森の周りにね、結界が張ってあって、普通の人は村の方角からしか出入りできないようになってるの」

「澪から君の話を聞いてもしやと思ったんだ。こんな特異な例はそう多くないからね。それとは別にこの辺りの土地柄も――まぁ、詳しいことは後で話すとしよう」

「そうだね。あんまりゆっくりしてるとご飯冷めちゃうよ」


 そう言う澪の茶碗には、もはや米粒一つとして残ってはいない。


(いつの間にィッ!?)

「おや、今日はもういいのかい?」


 不思議そうに尋ねる父親に対し、


「……何が?」


 娘はただ一言。心なしか、その笑顔は威圧感を伴って見える。


「何って、いつもおかわ――」

「な・に・が?」

「こ……これはわたしの思い違いかな! ハッハッハ……」

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