3 お姉様改革と目標

 まずはマッサージから。私は香油と呼ばれるアロマオイルのようなものを使った。


――本当はマッサージクリームのほうが慣れているのだけど、ないのなら仕方ないわね。


 社内検定でしっかり合格をもらったマッサージを施す。これを行うとリンパ液の流れが整い、血行が良くなって血色と化粧ノリが良くなるのだ。お姉様の侍女ズは私の手元を凝視している。似たような技術はこの世界にもありそうだからあとでまた聞いてみようと頭の中のメモに書きつける。

 顔のマッサージが終わると、一旦余分なオイルは拭き取る。次は基礎化粧品で保湿をする。化粧水、乳液らしきものをつけて完了。

 

 いよいよメイクに取りかかる。まずはベース。この世界では白粉おしろいがファンデーションの代わりらしい。粉を水で溶いて使うようなのだが、調整が少し難しかった。少し加減を間違えるとすぐにぬりかべになってしまう。なるほどこれはみんなぬりかべになってしまうのは仕方がないのかもしれないという仕様だ。

 最後にブラシを使って水で溶く前の粉を薄く均一につける。ファンデーションがなくてもお姉様の肌は美しい。ちょっと荒れているけれど、正しいお手入れをすればすぐによくなるだろう。

 次にアイメイク。眉は眉山を一番濃く描き、眉尻、眉頭の順に薄くなるようにすると立体感が出る。眉は描きすぎないように、毛の間を埋めるように描くと自然に仕上がる。アイラインもまつ毛の隙間を埋めるように引く。お姉様の場合はもともと瞳が大きく、ラインを太く引きすぎるとキツイ印象になってしまうため、細く描くよう心がける。つり目がちな印象を和らげるために目尻は斜め下に向けて少し長めに引く。下まぶたも、目尻側から半分だけ細くラインを入れる。シャドウは無難なブラウンを目尻側から目頭に向けてグラデーションになるようにのせる。


――ぬりかべメイクじゃないだけで美しさが際立つわ……!


 素材だけで美麗なお姉様だ。今はぬりかべメイクをしていた影響か、少し肌が荒れているので、これからお手入れに力を入れて角質の生まれ変わりを促せば、一カ月もすると綺麗になるだろう。一番重要なのはこれからぬりかべメイクをやめること。これだけは絶対に守ってもらうよう進言しなければ――!

 私がそんな決意をしていると、お姉様が呟いた。


「おまえがこんな特技を隠し持っていたなんて……」

「あら、まだ途中ですよ。仕上げまで待ってくださいね」


 あとは血色良く、そして顔が立体的に見えるよう両頬骨を中心にふんわりと軽くチークをのせて、唇にリップを塗るだけ。


「完成です! いかがですか?」

「素晴らしいです」

「私、手順は完璧に暗記しました」

「ソフィア様、これからはこのお化粧でいきましょう」

「そうね。なんだか……この顔と比べると、今までの私は能面みたいだったわね」


――そう! その通りです! 塗りすぎでした!


 私は心の中で全力で頷いた。

 この世界の「ぬりかべメイク」を至上とする美意識に変革がもたらされた瞬間であった。


 そして侍女ズたちにお姉様のお肌を守るためにぬりかべは絶対にやめるよう熱弁して、部屋をあとにした。最後のお姉様の控えめな笑顔と「ありがとう」という言葉を目と耳にしっかりと焼きつけて。


✳︎✳︎✳︎


 それから約一カ月後、私は初めてお姉様に呼び出されてしまった。


――嬉しい! でも、なんのご用だろう?


 私はどきどきわくわくしながら、私を呼びに来てくれたお姉様の侍女さんの後ろに付き従った。侍女さんも顔がにこにこだ。私の伝えたメイク法を彼女自身も実践しているようで、とてもいきいきした表情だ。私も嬉しい。

 そういえば、あれから「離れ」に住んでいる私に会いに来る使用人が急増した。みんなお姉様や侍女ズの変貌を見て驚き、私に教えを乞いに来たようだった。快く教えたら感謝され、存在感が増したためか食事を忘れられることがなくなった。今では私も三食昼寝付きの優雅な日々を謳歌している。私も貴族の令嬢らしくなってきたかしら?


「アイリーン! 来てくれたのね!」


 部屋に着くと、お姉様に大歓迎されて驚いた。今まで「おまえ」としか呼ばれたことがなかったのに、初めて「アイリーン」と名前を呼ばれた。


「お……お……」


 感動しすぎて「お姉様」という言葉がなかなか出てこなかった。

 そんな私に近づいてきたお姉様は、静かに私を抱きしめて言った。


「あなたのおかげで、私は『私』を取り戻すことができた。本当にありがとう」


 私は頭がよくないので、お姉様が何を伝えようとしているのかわからなかった。けれど、私の美容の知識がお姉様を救うことに繋がったのだろうということだけはわかったから、それでよかった。

 

「なんのことでしょう……? よく、わかりませんが、お姉様はお姉様です」


 私が人の体温に触れた記憶といえば、十歳のときに実母が亡くなる直前「どうか幸せになって」と強く手を握られたのが最後だったと思う。それからすぐにグレン伯爵家へ引き取られて七年。ようやく、私は家族のぬくもりを手に入れたのだ。

 前世を思い出せてよかった。そのおかげでお姉様の役に立てた。その事実が何より誇らしく、嬉しかった。


「私、アイリーンのおかげで王太子殿下の婚約者になることができたわ。近い将来王太子殿下と結婚するの。私が王太子妃になるのよ」


 お姉様は私を胸に抱き込んだまま、自らが発する言葉を噛み締めるように告げた。

 抱きしめられているままなので、お姉様の表情が見えない。


――喜んでいる? でも、他に好きな方がいて、望まない結婚になる可能性がなきにしもあらずだったり……?

 

「え……! それは……! おめでとうございます?」

「どうして疑問系なの? 一緒に喜んでよ」


 お姉様がクスクス笑っている。わあ、かわいいなぁ……! じゃなくて。


「いえ、あの……お姉様ほど美しい令嬢は他にいないでしょうから、お姉様が王太子殿下に見染められるのは当然ですし……。えっと、そのこと自体は喜ばしいことなのかもしれませんが。お姉様には他に好きな殿方はいらっしゃらなかったのですか……?」


 私がたどたどしく語った主張を聞いて、お姉様はさらに笑みを深めた。


「やっぱり、アイリーンは思いやりのある優しい子ね。私の心配をしてくれてありがとう。でもね、その心配はいらないのよ」


 お姉様の周りを囲む侍女ズも目に涙を浮かべ、微笑ましそうにうんうんと首を縦に振っている。

 お姉様は恥ずかしそうに顔を俯けて、呟いた。


「王太子殿下は、私の初恋の人だから」


――ということは、つまり……!


「……ずーっとお慕いしていたのよ。だから、大丈夫なの。夢が叶ったのよ! アイリーンのおかげ! ありがとう。本当にありがとうね」

「……! ソフィアお姉様、よかったです! 誠におめでとうございますぅぅぅぅ!」


 その日はお姉様とお姉様の侍女さんたちと、みんなで泣きながら喜びを分かち合った。

 話を聞くと、ぬりかべメイクをやめたらお姉様の荒かった気性が落ち着いてきたのだそうだ。本来のお姉様は大変穏やかな性格だったのに、成長とともにだんだん自分の感情がコントロールできなくなってしまって、社交界で「性格がキツイ」と言われるまでになってしまい、大変悩んでいたそうだ。

 それが、メイクを変えただけで気持ちを落ち着けることができるようになったそうだ。ずっと悩んでいた偏頭痛もなくなったという。全部私のおかげだととても喜んで感謝してもらえたことは嬉しかったけれど、私はそれを聞いて思い出したことがあった。


 前世美容部員だった頃、座学の時間に習った知識の中に「昔は白粉おしろいに鉛や水銀が使われていて、それが人体に影響を与えていた」という内容があったのだ。それは健康被害だけでなく、人格にも影響を与えていたといわれている――と。

 お姉様は人一倍分厚いぬりかべを装備していたから、その影響を大きく受け、中毒症状が出ていたのかもしれないと思った。


 お姉様はこうして悩みが解決していい方向に舵が切れたからよかったけれど、もしかしたら他にもたくさん悩んでいる女性がいるかもしれないと思った。そうでなくとも、人体に悪い影響のあるものを多くの女性に使わせたままにしておくわけにはいかない。知ったからにはやらないではいられない。

 

――この世界の女性たちは私が救う!


 私は決意を新たに、人体に影響のない化粧品の開発を急ぐことにした。

 

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