第一章 「もう恋なんてしない」
1
ひやりとした空気が
――あ、寒っ。
薄い布団の上にうつ伏せになっていた彼女はキャミソールが肩からずれていて、
もそもそとした声が六畳間の片隅で響いているのに気づく。その中に「すみません」という言葉が混ざっていたのが分かり、
――ああ、またか。
という気持ちで愛里は上半身をむっくと起こす。見ればシャツに右腕を通しながら、左肩でスマートフォンを挟み込んで電話を受けている
「小野川さん。分かってますって。忘れてた訳じゃないですって。詩乃ちゃん、今日からですよね」
そう言えばカレンダーに小さな赤い丸が付けてあった。女優の岩長さとりが涼し気な横顔を見せているその下に薄い筆記体のような文字で書かれた一月の数字の中の、十五番目だ。
「ほんとすみません。あと五分、いや十分で間に合わせますから」
電車を乗り継いでも彼が勤めている喫茶店までは三十分かかる。どう考えても間に合わないけれど、祐介が言うと本当にそうなりそうな気がする――と、最初の頃は思っていた。でもどんなに彼が必死そうに言ったところで、電話を切ればころっと
半ば強引に上司を納得させたようで、ほっとした表情で電話を切ると、祐介は愛里が起きているのに気づいて
「あのさ、昨夜言い忘れてんだけど……お前、今日中に出てってくれる?」
「え……」
愛里は思わず手にしていた毛布を落としてしまう。
「俺もそろそろちゃんとした彼女作ろうと思ってさ。今度入ってきた
「それ、アタシって、ちゃんとした彼女じゃなかったってこと?」
「彼女だと思ってたのか?」
迷彩柄のボクサーパンツの上にクリーム色のスラックスを
「お前さ、一番始めに体だけでも良いって言ってたじゃん」
「それは祐介が抱いてみないと付き合えるかどうか分からないって言うから……」
「そんな簡単に男にやられる女が『ちゃんとした彼女』面できると思ってんのか? 何度も言ってるだろ。俺はバカな女キライなんだって」
ちらりと振り返った背中越しの祐介の二重の目が、冬の空気のように乾燥していて冷たい。それは時々愛里に向けられていた目で、その目線に気づく度に体の芯の方で震えがきて胃袋から何かが
首筋に感じた冷気が徐々に広がり始め、愛里は思わず自身の両肩を抱き締めた。心の中で生まれた「どうして?」が鳥肌のように彼女の皮膚を侵食していく。
けれど祐介は何一つ気にならないようで、彼女の表情すら確認することなく背を向けると、スタンドから紺色のダウンジャケットを手にした。
「合鍵はポストに入れとけよ。もし忘れたらぶっ殺すから」
それだけ言って玄関に向かう。
昨夜遅くまで二人分の体温を交換しあった布団の上で座り込んだまま、愛里はスチール製のドアが耳障りな音を立てて閉じたのを一人で聞いた。
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