恋は曲者、和氏の璧

たぴ岡

月の夜、ふたりで。

 今日も仕事が終わった。休日出動を強制する上司も面倒な絡みをしてくる後輩も、全部なんてことないみたいな顔して切り抜けられるのは、いつだって帰れば恋人が待っていてくれるから。とはいえ、そいつも変わった男ではあるけど。

 鍵を回し、玄関を開ける。「ただいま」呟くような声で言っても、あいつは素早く出迎えてくれる。犬みたいに。

「ひめちゃん、おかえり! 待ってたよ!」

 まあまあ、元気なことで。色素の薄い長い髪を揺らしながらかわいらしく微笑まれると、俺は――絶対本人には言ってやらないけど――とんでもなく癒されるものだ。

「俺はひめちゃんじゃない、姫川ひめかわだって」

「だからひめちゃんなんでしょ? ほらそんなことはいいから早く早く」

「ちょ、ちょっと待ってよのどか

 よくわからないが腕をつかまれ洗面台まで連れてこられたかと思うと「早く手洗いうがいしな?」なんて言うから、本当に何も理解できない。脳内で調べ物でもしてみるが、今日は記念日でも誕生日でもなんでもないただの土曜日。こいつは何を急いでるんだ?

「早くっ早くっ! ひめちゃん急いで〜」

 手を洗ってる間も、スーツを脱いで部屋着にかえている間も、手を叩きながら急かしてくる。背が高くてごついくせに、ぴょこぴょこ小さく動くのがかわいい……なんて。

 全部終わると和は俺の左手を強引に掴んで、ベランダへと招待してくれた。そこには、いつもはない小さな丸テーブルと、その上には串団子二本。

「えっと……だんご?」

「え、うそ。もしかしてなんだけど、ひめちゃん今日が何の日かご存知ない?」

「何の日でもない土曜日じゃん?」

「うわー、ひめちゃんってば、ほんっとそういう知識はゼロだよねぇ」むすっとほっぺを膨らませて見せる和。「九月だよ? お団子だよ?」

 顎に手を当ててしばらく考えるが、何も出てこない。左側から大きなため息が聞こえる。ついでに「これだから会社ニンゲンは」なんて言葉も。俺は別に好きで会社ニンゲンになった訳じゃないんだけど。

「ひめちゃんっておれたちの記念日には細かいくせにさ、世間のイベントごとにはちょーうといよねぇ」

「いや別に細かくないし……」

 和は静かに空を見上げる。答えがそこにあるのか、と俺はその視線を追うけど、何も見つけられない。

 九月、団子、空……。

「えー、今日天気悪くて見えないのかなぁ」

 天気?

「あっ」

「ん?」

「もしかして……月見?」

「あれ、ひめちゃん今気付いたの? そうだよ」

 和はそうやって笑うと、団子を一本取ってひとつ口に入れる。残念そうに見えない月を探すのも楽しそうに団子を頬張るのも綺麗な横顔で、俺の目は釘付けだった。

 初めて見たあの瞬間から一切変わらない、美しい姿。

「ん、どしたのひめちゃん。おれの顔なんかついてた?」

 言われてから、慌てて目をそらす。居場所を失った俺の視線は低空を彷徨さまよう。

「あ、あぁ、いや別に……その、お前が――和が綺麗だったから」

「……えー、っと?」

 目を大きくまばたかせながら、和の顔が徐々に赤くなっていくのが見えた。びっくりしてる和を見てから、今の言葉はあまりにも俺らしくない、ストレートすぎたことに気付いた。素直すぎる自分に、驚いた。

「えへへ、ひめちゃんにそう言ってもらえるなんて、おれ今世界でいちばんハッピーかも」

 気恥ずかしくなって、俺は団子を一本取った。ふと、見上げた空に月の欠片が見える。雲が流されて少しずつ姿を現し始めているらしい。

 あっ、と声を上げようとした瞬間、左手に温もりが重なる。知ってる、この温度は、この大きさは……和の手だ。

 ちらと左側に目をやると、和はまっすぐ空を見つめていた。

「おれね、ほんとに良かったって思ってるんだよ、ひめちゃんに拾ってもらえたこと」

「うん」

「ひめちゃんありがと、大好きだよ」

「……ん」

 急にそんなことを言われても、俺は照れてしまうばかりで何も言えなくなる。いつもそうだ。和ばっかり俺にたくさんのものをくれるのに、俺は何も、返せてない。

「えー? この流れはひめちゃんもさ、おれも和が大好きだよ〜って、言うべきじゃなかった?」

「うるさいなぁ、そんな流れでもなかっただろ」

「ぶーぶー!」食べ終わったらしい串を戻しながら、和は俺の方を見つめる。「……ね、言ってくれないの?」

 それがなんだか、月よりも俺の方を優先してくれてるみたいで、欲してくれてるみたいで、勝手に嬉しくなる。だから、少しだけ、繋いだ手に力を入れる。

 こいつ、俺がそういうの苦手だって知ってるくせになんでこういうことしてくるんだよ。嫌がらせか? でも世間一般的には言葉にしてくれない恋人ってのは良くないって聞く。俺からの気持ちも言葉にしないと、こいつでも不安になったり怖くなったり……するんだろうか。だから、ほんの少しだけ、それだけ。

「俺だって……お前のこと好きだよ。もう絶対離してやんないし、遠い世界になんて行かせてやらないから」

「ふふっ、ひめちゃんかっこいい〜!」

「おいおま――」

「ありがとね、ひめちゃん」

 和が心底嬉しそうな笑顔を浮かべるから、俺は喉を引っ掴まれたような気分になる。恋愛なんて慣れないことだらけだ。それでも隣にいてくれるのがこいつだから、和だから俺は。

 手を引っ張って、和を俺の腕の中におさめる。

「わわっ――」

 和は少し戸惑って、それからその手を俺の背に回してくれる。しっかりと、優しく柔らかく。

「どしたのひめちゃん、今日やけに素直だね。もしかしてお仕事疲れちゃったとか?」

「いいだろ別に……俺にもこんな日があったって」

「もちろん! ひめちゃんが素直だとおれも嬉しいかな」

 こうやってくっついてると和の方が背が高いのを感じるから、なんだかしゃくだ。

「あっ」

 頭の後ろから和の声が聞こえる。背中に回されてた手が離れて、まっすぐ空を指す気配を感じた。

「ね、ひめちゃん見て見て」なんて言うから、名残惜しいけど和から離れてその方向に身体を向ける。

 雲が流れて消えたのだろう、満月がよく見える。

「きれいだねぇ」

「……うん、きれい」

 まっすぐ前を向いたまま、和は静かに言葉をもらす。

「おれね、来年も再来年もその先もずうっと……ひめちゃんとこの景色を見たいよ」

「俺は――」

 正直、俺はその言葉を信じていいのかわからない。だってこの関係は、そう長く続かないんだと思ってたから。でも、こいつがそう言うなら――。

「俺も、綺麗な月を見るのは和とふたり、こうやって静かに団子でも食べながらがいいな」

「えへへ」

 ふたりどちらともなく指を絡めて、手を繋ぐ。和の大きな手に包まれて、この上なく安心してしまう。俺は、自分で思ってる以上にこいつのことが好きなんだな、なんて。

 満月を見ながら考える。

このままなら、俺たちはどこまでだって行けるのかな。いつまでもふたりでいられるのかな。

 そうだったら、俺は嬉しいな。


お題:十五夜/満月

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