第7話 本当の気持ち


 その晩、アシェリーはカサリと木の葉と靴がかすれるような音で目を覚ました。テントの外からだ。

 アシェリーは半身を起こして、暗闇の中で目を凝らす。

 真っ暗なテントの中では、女性の医務官や使用人達が雑魚寝している。ラルフがアシェリー専用のテントを用意してくれようとしたのだが、さすがに一治療師がそんな特別扱いを受けるわけにはいかないと固辞したためだ。

 昼間は魔物狩りで負傷した兵士の手当に尽力していたので、皆すっかり疲れて寝入ってしまっている。


(今の音は何かしら……?)


 視線を巡らせると、月明かりがテントの布越しに人影を映していた。外からだ。

 アシェリーが恐々テントから顔を出すと、そこには神官らしきローブをまとった女性が立っていた。頭に目深にフードをかぶっているので表情は分からない。


「じつは怪我をしてしまった人がいて、来てもらえますか?」


 そう問われて、アシェリーは困惑する。


「ええ。もちろん、すぐに誰か他の人を起こして救助に……」


「あなただけで良いので……ッ! 急いでください!」


「えっ……は、はい!」


 その女性神官は無理やりアシェリーの手を引っ張り、早足で歩いて行く。


(この声って……)


 アシェリーは当惑しながらも、自分の手を引く女性の正体に気付いた。聖女アメリアだ。

 しかし、怪我をした誰かがいると言うなら放っておけない。

 不自然なほど大きい満月が崖の上を照らしていた。野営地から離れているためか、見張りの姿もない。


「怪我人はどこですか?」


 そう問いかけながらも、アシェリーは違和感をおぼえていた。

 聖女が自分に助けを求めてきたのは別に良い。だが誰かが怪我をしたなら、癒しの力があるアメリアならば治せるはずなのだ。そもそもアシェリーと同じ治癒の力を持っているから彼女は魔物狩りに付いてきたはずなのに。


「……あなた、転生者でしょう?」


 アメリアはフードを脱いで、アシェリーに向かって言った。

 どきりと心臓が跳ねる。


(転生者……? そう彼女が言うということは……)


「……もしかして、あなたも?」


「そうよ。せっかくヒロインに生まれたのに、脇役のあなたが原作通り行動しないからストーリーが狂ってるじゃない。悪女なら悪女らしく振舞いなさい!」


 そう痛烈に批判されて、アシェリーは言葉を詰まらせる。


(悪女なら悪女らしく……)


 それは周囲の人々を──そしてラルフを傷つけるということだ。

 アシェリーはぐっと拳を握りしめる。


「……できません」


「はあ? 何言ってるの? 頭とち狂ったわけ? 最近まで、あなたはまぎれもなく悪女アシェリーだったじゃない! どうして私の邪魔するのよ!」


「アメリア様が陛下と結ばれるのなら……それを止めることはしません。私がこれまでの悪事は否定できませんし、簡単に陛下に許してもらえることではないので」


 邪魔はしない。けれど、悪女にもならない。

 それがアシェリーのできる最大限の譲歩だった。

 しかし、アメリアは頭に血が昇ったらしい。


「邪魔なの! 消えろ! この悪党が……ッ」


 アメリアがつかみかかってくる。

 アシェリーの喉がつかまれた瞬間、誰かが叫ぶ声が響いた。


「アシェリー!?」


 遠くにいるその姿は──ラルフだった。


「へ、陛下!? なぜ、ここに……」


 狼狽しているのはアメリアだった。

 怒りの表情をたたえて近付いてくるラルフに青くなっている。


「違うんです。これは……ッ」


「何が違うというんだ。今、俺の妃の首を絞めていただろう!」


(妃!? 陛下、離縁したのを忘れちゃったの?)


 頭に血がのぼってラルフは離婚したことを忘れているのか、とアシェリーは困惑する。


「そ、それは……」


 アメリアが後ずさりする。崖の方へ。


「あっ……! そっちは……」


 アシェリーが止める間もなく、アメリアは足を崖から踏み外してしまう。


「え……?」


 とっさに動いた。

 アシェリーは空中に投げ出されたアメリアの手をつかみ、ぐるりと投げるように彼女を崖の上に戻す。

 けれど、その反動で自分の体が宙に投げ出されてしまった。


「あ……」


 アメリアとラルフの驚いているような顔。

 アシェリーはすぐに状況を理解して、内心仕方ないなと諦めて微笑む。


(……もうこれ以上誰も傷つけたくないもの)


 それは治療師としての矜持であり、過去への懺悔のために。

 けれど、予想外のことが起きた。

 伸びてきた手につかまれ、抱き寄せられたのだ。


「へ、いか……?」


 ラルフが崖から飛んで、アシェリーを抱きしめたのだ。

 そのことにようやく気付くが、理解が追いつかない。


「空気を吸って、口を閉じろ!」


 強く抱きしめられながら、ラルフがそう大声で命じた。アシェリーはハッとして息を吸う。真下は激流だ。

 すぐに大きな衝撃が体を襲った。



 ◇◆◇



 パチパチと火が爆ぜる音が聞こえる。


(あたたかい……)


 何か温かいものに包まれていることに気付いて、アシェリーは薄っすら目を開けた。

 半裸のラルフが目の前にいた。アシェリーの衣装は半ば脱がされかけている。


「は? え……っ?」


 混乱しているアシェリーからすばやく退いて、ラルフは狼狽した様子で深々と頭を下げた。


「す、すまない! これは違うんだ……ッ! 別に変なことをしようとしたわけじゃなくて、衣服が濡れたままだと風邪をひいてしまうから! とりあえず上着だけでも脱がして乾かそうかと思っただけなんだ……!」


 慌てふためくラルフ。

 ラルフの上着は焚火のそばの大きな石の上に広げられており、乾かしている最中のようだ。だから半裸だったのか、とアシェリーはようやく状況を理解して、露出した胸元を腕で隠した。顔面が勝手に赤らむ。


「あ……そ、そうなんですね。な、なるほど……状況は、飲み込めました」


 どこかの洞窟の中にいるらしい。川のそばにあるのか、暗がりの向こうからは水音が聞こえる。


(どうにか溺れ死ぬことは免れたみたいね……)


「その……風邪をひいてはいけないから、君も脱いだ方が良い。濡れた上着を絞って、火のそばに置いておけば乾くだろう。俺は反対側を向いているから」


「あ……そ、そうですね。お気遣いありがとうございます」


 アシェリーは戸惑いながらも同意した。


(確かに、このまま服が濡れていると寒いわ)


 秋口とはいえ、夜は冷える。ラルフは論理的な思考で、アシェリーの服を脱がそうとしたのだ。そこに深い意味はないと己に言い聞かせる。

 ラルフは洞窟の入り口の方に体を向けてくれていた。アシェリーは濡れた衣服を苦労して脱ぐと、それを絞ってラルフの服の隣に並べる。


(心もとないわ……)


 アシェリーは顔が熱くなっているのを感じた。

 貴族の子女にとって下着なんて、もう裸も同然だ。いくら元夫とはいえ、夜を一度も共にしたことがない相手だ。こうして二人きりでいることが気まずい。

 ラルフが申し訳なさそうに言った。


「……すまない。どうにか岸辺まで泳いで洞窟を見つけたまでは良かったんだが、この夜陰では身動きが取れなくてな……。従者に告げずに出てきてしまったから、捜索も時間がかかるだろう」


「あ……いえ! 助けていただき、ありがとうございます。すみません。少し動揺してお伝えするのが遅くなってしまい……」


 アシェリーはそこで、後ろを向いたラルフの背や腕に傷や打撲の痕があることに気付いた。


「陛下、傷が……! すぐに手当します!」


 アシェリーは慌ててラルフの元まで寄っていくと、手が触れないように気をつけながら治療を開始した。


(もっと早く気付いていれば……いえ、そもそも陛下を傷つけてしまうなんて……)


「申し訳ありません、陛下……御身に傷が……」


 アシェリーはそう言って唇を噛む。


「気にしなくて良い。鍛錬していたら傷は日常茶飯事だ」


「ですが……」


「俺が良いと言っているんだ。……君に怪我がなくて良かった」


 アシェリーはその時ようやく、自分はかすり傷ひとつ負っていないことに気付いた。

 きっと、崖から落ちる時も川の中でも必死に護ってくれたのだろう。気絶した人間を救助することは大変だっただろうに。自分の身を顧みずに助けてくれたことが嬉しくて、それ以上に心苦しかった。

 耐えきれず涙をぽろぽろとこぼれてしまう。何とか誤魔化そうとしたが、鼻をすする音で泣いていることに気付かれてしまったらしい。

 ラルフはぎょっと様子で後ろを向いたまま問いかけてくる。


「え!? ど、どうしたアシェリー? 泣いているのか?」


「いえ……すみません。陛下を傷つけてしまったことが申し訳なくて……」


 ラルフが息を飲んだ空気がした。


「陛下は王です。この国の民にとって唯一無二の高貴な存在です。たとえ元王妃であっても、あなたが危険を犯して助けるべき存在ではありません」


 アシェリーがそう語気を強めて言うと、ラルフは表情を皮肉げに歪ませる。


「……妃の一人も護れない王など、価値はない」


「ですが……」


「──それとも、もしかして君は死にたかったのか?」


 その棘のある言葉に、アシェリーは凍り付いた。


(……死にたかった?)


 その言葉は、すとんと自身の中に落ちてきた。

 アシェリーは消えてしまいたかった。愚かだった過去を思い出すたび、彼を諦めようと決意した後も。

 治療師として人々に奉仕しながら、ラルフと聖女の幸せだけを祈って生きていく。それが償いだと思ってきた。

 けれど長い時間それに耐えられるか自信はなく、心のどこかではさっさと生を終わらせられたらどれほど楽だろう、と思っていたのかもしれない。

 愛する人と別の女性の幸福な姿を見続けることができないと分かっていたから、王都から離れようとしていた。

 だからきっと、アメリアを助けるためとはいえ、躊躇もなく崖から飛び降りてしまったのだろう。──やっとそれに気付く。

 アシェリーは頬の涙をぬぐって、深く息を吐いた。


「……そう、ですね。陛下とアメリア様がお幸せになられる姿を見ているのが辛かったので……」


 ラルフはぽかんとした表情でアシェリーの方を向きかけて──あられもない姿を見てしまいそうになり、慌てて顔を戻す。


「え? 俺と聖女が……なんだって?」


「その……陛下とアメリア様がご結婚なさったら……」


「俺と聖女が結婚!? なぜ!?」


 ラルフがこちらを向いて問いただしてくる。心底わけが分からないと言った様子だ。

 アシェリーは頭の中で疑問符が浮かびながらも首を傾げる。


「え……だって、陛下と聖女様は想い合っていらっしゃるでしょう?」


「まずそこからおかしい! 俺は聖女のことは何とも思っていない!」


「え……?」


 もうこの時点で二人は相思相愛のはずなのに、ラルフは聖女と何もないというのだろうか。


(原作とはもう完全にかけ離れたストーリーになっているの……?)


 アシェリーは当惑しながらラルフを見つめる。

 熱を帯びた青い瞳に射抜かれ、一瞬息ができなくなる。


「アシェリー……」


「は、はい……」


「その……どうして、俺と聖女が幸せそうな姿を見ているのが辛いんだ?」


 その問いかけの答えをすでに察しているのか、ラルフの頬は紅潮していた。

 アシェリーの全身の熱が一気に上がる。誤魔化そうか悩んだが、アシェリーの気持ちは昔から知られていることだ。今さら隠したって意味はない。



「そ、それは……陛下をお慕いしておりますので……」


「アシェリーが?」


「は、はい……ご存じでしょう?」


 耐えきれず顔を両手で覆う。

 ラルフは押し黙った後、深く息を吐いて自身の顔を撫でた。


「……てっきり愛想を尽かされたのかと思った。君は俺のことを避けているようだったし」


「それは……今までが不躾すぎたので……。それに陛下が私のことをお嫌いなことは存じ上げております。ですから……遠慮しておりました」


 自分で言っておきながら自分の言葉に傷つく。

 涙目になったアシェリーの手を、ラルフはそっとつかんだ。

 見たことがないほど彼は真剣な眼差しをしていた。


「……嫌いではない。確かに、君を憎んだ時もあった……だが、そんな気持ちはもう忘れた。君が変わろうと努力しているから、俺も悪い部分ばかり見るのは止めたんだ。今では君に一目置いている」


「陛下……」


 アシェリーは呆然とつぶやく。

 ラルフの言葉で、心のどこかで自分に嵌めていた枷から解放されたような気がした。

 じわじわと内側から喜びが駆け上がっていく。

 彼は視線を外して、どこか恥ずかしそうに首を掻いた。


「……俺もじつは謝罪しなければならないことがある。……その……とても言いにくいことなのだが……」


 アシェリーは姿勢を正す。どんなことでも受け入れるつもりだった。


「何でしょうか?」


「……じつは離婚していないんだ」


「……えっ?」


 アシェリーは硬直する。言われたことがすぐに理解できない。


(え? 離婚していない? えっと……つまり、私と陛下はまだ夫婦関係にあるということ……?)


 ラルフはきまり悪そうだった。

 あまりにも予想外なことを言われて、頭が真っ白になった。


「その……最初は君に言われた通り離縁するつもりだった。だが、君が何か企んでいるのかと警戒して様子を見ていたんだ。そして、そのまま離婚届を出すタイミングを見失ってしまって……」


 ラルフがゴニョゴニョと言い訳めいたことを口にする。


「そう……だったんですね」


 そう言うしかなかった。


「だが、これで良かったんだと思っている。アシェリー」


 ぎゅっと両手を握りしめられ、アシェリーの胸が高鳴る。


「俺達、もう一度やり直さないか? 今度は名ばかりではなく、本当に信頼し合える夫婦になるために。……どうか王宮に戻ってきてほしい」


「へ、陛下……良いんですか?」


 アシェリーは驚きつつも問いかけた。


「──もちろん。俺は君に惹かれている」


 熱のこもったラルフの言葉に、アシェリーは表情を泣き笑いに歪ませる。耐え切れなくなった涙がこぼれた。


(夢みたい……)


「うれしいです……とても」


 言葉がうまく出なかったが、どうにかそれだけ言う。

 ラルフは「そ、うか……」と上擦った声で言うと、そっとアシェリーの頬に指を這わせて涙をぬぐってくれた。

 至近距離から交錯する視線に、これまで感じたことがない喜びをおぼえる。


「……俺もだ」


 そうこぼして、ラルフはアシェリーに口付けた。

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