第4話 嫉妬
それから一ヶ月ほど経った頃──。
「知っているかい? 聖女様が現れたんだって」
そう治療院でお客に話しかけられて、アシェリーは「そうみたいですね」と苦笑いする。
もう今日だけで、その話題を出してくるお客は五人目だ。神託によって、シュヴァルツコップ侯爵の養女であるアメリアが聖女に選ばれたのだ。
「すごい神聖力の持ち主らしいね。魔力コントロールが得意で、邪気を払うのもお手の物だとか……」
アシェリーは前世、本で読んだ聖女アメリアの境遇を思い返した。
(陛下と運命的な恋に落ちる少女……)
アシェリーはズンと落ち込んでしまった。
もう二人は恋に落ちてしまっているだろう。王宮では盛大に彼女をもてなすためのパーティが行われているはずだ。
(いよいよ悪女は退散しなくては……)
アシェリーは窓に打ち付け始めた雨粒を見つめて、ふうとため息と落とした。
雨の日の客足は伸びない。午前は予約客、午後は当日客で賑わう治療院は、その日は昼頃から雨が降り出したことで、久しぶりの静かな時間が流れていた。
雨音を聞きながらカルテを記入していると、来客を告げる戸口の鐘が鳴る。
「はい、今行きます」
下っ端のアシェリーは真っ先に入り口に向かうと、入り口には見知った相手が立っていた。
「へ、陛下……!? どうして、ここに……?」
アシェリーは困惑しながら、タオルを手に向かう。雨のせいでラルフの髪や肩は少し濡れてしまっていた。慌てて彼の頭にタオルをかぶせて、背伸びして雫をぬぐう。
ラルフは遠慮がちな笑みを浮かべていた。
「いや、今日は何だか調子が悪くてな。いつも来てもらっているから、たまには俺が足を運ぼうと」
アシェリーは大慌てだ。
「そんな……お呼びくだされば伺いましたのに。馬車でいらっしゃったのですか?」
「ああ、表に停めてある。自分だけ特別扱いはさせられない。他にも君の治療を望んでいる者はいるのだから」
「しかし、陛下は特別扱いされるべき人物です!」
「ならば訪問料を払おう。君はいつも治療費を受けとろうとしないからな」
「それは……その、これまでのお詫びですので受け取れませんわ」
「だったら、せめて俺も普通の市民と同じようにこの治療にやってきて順番を待とう」
と頑ななラルフ。
常とは違った彼の強引な態度にアシェリーが困惑していると、奥からサミュエルがやってきた。
「アシェリー、お茶でもしようぜ……って、お客さんが来ていたのか。そこに突っ立ってないで、部屋に案内したらどうだ?」
「あっ……、そ、そうね。こちらへどうぞ」
アシェリーは奥の部屋に案内した。ラルフはタオルで顔が隠れているから、サミュエルは国王だと気付いていないのだろう。
タオルを外そうとして伸ばした手がラルフの手に包み込まれ、ドキリとした。
「ど、どうかしましたか?」
「いや……」
何か言いたげであったが、ラルフは首を振った。
簡易ベッドに横になってもらい施術をする。確かに今日の彼の魔力が不安定だった。疲れがたまっているのかもしれない。
(……もしかして聖女様がいらっしゃっているから、忙しくしているのかしら……?)
そんなことを考えていると、うつ伏せになっているラルフがなぜか言いにくそうにしながら話す。
「その……先ほどの彼は……君のことをアシェリーと呼び捨てにしていたが……」
突然の話題に、アシェリーは目を丸くする。
「え? ああ、サミュエルですね。私の先輩なんです。この治療院の院長のデーニックさんの孫で……」
「……ああ。そういえば話に聞いていたな」
(話に聞いていた……?)
アシェリーは彼に話したことはない。
デーニックもサミュエルも貴族なのでラルフとは顔を合わせたことがあってもおかしくないが……。もしかして何か自分のことを調べさせたのだろうか、とアシェリーは困惑する。
「呼び捨てを許すのはどうかと思うが……」
「しかし、サミュエルは先輩ですし……私はもう王妃ではありませんから」
「しかし、それでも年頃の女性に……」
まだ文句を漏らしているラルフを、アシェリーは不思議な気持ちで見つめた。何がそんなに不満なのか分からない。
「……サミュエルは良い人ですよ。きっと、陛下も話せば分かってくださるはずです。デーニックさんも、サミュエルも私が悪女だと知っても優しくしてくれる方達ですから」
「……悪女」
ラルフはぽつりとつぶやいたきり、黙り込んでしまった。
そうすると、急に外の雨が部屋を押しつぶそうとしているように感じられた。なんだか空気が重くて、アシェリーは困惑する。
帰り際にラルフは言った。
「これからは訪問料を払う」
「い、いえ、そんな……っ! 頂けませんわ!」
「仕事には対価を払うものだ。また王宮にきてくれた際にはお礼をさせてくれ。でなければ、俺がここに通う」
アシェリーはラルフの押しに負けて、治療費を受け取ることを了承した。さすがに毎週国王を街の治療院に通わせるわけにはいかない。
「……聖女様はどんな御方ですか?」
アシェリーはつい気になって、小声で尋ねてしまった。自分の心の傷を深くするだけだと知っていながら聞かずにはいられない。
もしかしたら聖女を絶賛するような言葉やノロケを聞くことになるかもしれない。そう思っていたのだが──。
「聖女?」
ラルフは意外な言葉を聞いたとでも言うように目を丸くしている。
「ああ……彼女は神殿が預かっている。俺は会話もほとんどしないまま引き渡したから、どんな性格なのか知らないな」
「えっ……」
アシェリーは耳を疑った。
(神殿が預かっている?)
そんなシーンは原作にはなかったはずだ。確かラルフの強い希望で、アメリアは王宮に滞在することになっていたはずなのに……。
戸惑っているアシェリーにラルフは「何か気になることがあるのか?」と尋ねてくる。
「い、いえ……別にそんなことはないのですが……」
(おかしい……。原作と流れが変わってきてる?)
アシェリーが悪女をやめたから、その影響で展開が多少変わってもおかしくはないが……それにしてもラルフの聖女への対応が変化したのは解せなかった。
◇◆◇
(一週間がこんなに遠いとは……)
ラルフは卓上のカレンダーを眺めながら、ため息を落とした。
先日アシェリーが王宮にやってきてから、まだ三日しか経っていない。あと四日……体調としては待てないわけではない。けれど、なぜか気持ちが逸ってしまう。
(俺は……彼女に会いたいと思っているのか?)
自分の気持ちの変化が不思議だった。これまではアシェリーのことを考えるたびに苦い感情が込み上げていたのに。
むしろ憎んでさえいた彼女に対して好意を抱くなんて……そんなことありえるのだろうか?
けれど、自分が汚名をかぶってもラルフのことを護ろうとしてくれた彼女のことを考えると、胸がざわざわしてくるのだった。
「……たまには、俺から治療院に行ってみるか」
ちょうど仕事も切りが良いところまで終わった。
窓から外を見れば、ぽつぽつと小雨が降り始めている。きっと、治療院も空いているはずだ。
午後は予約客はなく、先着順だと聞いているから運が良ければ、すぐアシェリーに診てもらえるかもしれない。いや、彼女と話せるなら多少待っても構わないと思った。
その自分の感情の変化が不思議で、けれど決して不快ではない。
「支度をしてくれ」
従者に告げて馬車の手配をさせた。目を丸くしている部下に、ラルフはこう言い訳のように言う。
「体調が悪いんだ」
それは嘘ではない。こういう雨の日は気分がすっきりしないし、さらに二日前に聖女が現れてから、ラルフはその対応に追われていた。通常業務とは別に、神殿とのやりとりや聖女の引き渡しでいつもより疲れが溜まっている。
ラルフの苦しい弁解に、従者は「ほほう? そうですか、そうですかぁ」と、からかうような眼差しを向けてきたが、ラルフはそれらの一切を無視した。
(突然行ったらアシェリーは驚くだろうか……? もしかして、喜んでくれるか?)
先ほどの憂鬱だった気持ちは消え、ウキウキしはじめている自分に気付いていた。
治療院にたどり着くと、すぐにアシェリーが現れた。肩を濡らしているラルフにひどくビックリしているようだった。
「へ、陛下……!? どうして、ここに……?」
そう戸惑いながらも、タオルでラルフの髪をぬぐってくれる。冷えた体に彼女の熱が移ってゆくのが心地よかった。
しかし、予想外の不協和音が入ってきた。
「アシェリー、お茶でもしようぜ……って、お客さんが来ていたのか。そこに突っ立ってないで、部屋に案内したらどうだ?」
見知らぬ男に声をかけられ、アシェリーは親しげな笑みを彼に向けた。
「あっ……、そ、そうね。こちらへどうぞ」
そう奥の部屋にうながされて、ラルフはついアシェリーの手を包み込んでしまう。
(──なぜ呼び捨てを許しているんだ?)
そう問いただしたかったが、ラルフは口を開けなかった。
アシェリーはまだ王妃だ。離婚届を渡されたが、ラルフは名前を書いてないし提出もしていない。
王宮からアシェリーが出て行ったことで周囲は勝手に『王妃が愛想を尽かされた』とか『離縁したのだ』と噂されているが、どれも真実ではない。
(君は俺の妃だろう……!)
そう言ってしまいたかったが、アシェリーはすでに夫婦ではないと思い込んでいるのだ。だから、あまり強い口調では言えない。それにラルフとしても、どうして離婚届をまだ出していないのか知られると返答に困ってしまう。
しかし、どうしても青年のアシェリーに態度が納得できずに苦言をていしてしまった。
(──俺はどうして、そんなことに拘っているんだ……?)
けれど、自分の知らない彼女を知っている男がいると思うと落ち着かない。自分よりアシェリーと身分の壁がなく、気安い仕事仲間なのも気に食わなかった。
(どうして、俺は……)
アシェリーのことは、ただの鬱陶しいだけの相手だと思っていた。名ばかりの妃で、決して愛することはないだろうと。
けれど、もしかしたら幼い頃から──憎しみの中にわずかな愛情があって、憎悪が薄れたことでその感情が表面化してしまったのかもしれない。ラルフでさえ気付かない、ほんの小さな種がアシェリーの変化をきっかけに芽吹いてしまったのかも……。
そう気付いてしまったら、もう駄目だった。半ば強引に治療費を払う約束を取り付けて、また王宮にきてもらうよう予約をする。
(次こそは、お茶に誘ってゆっくり話そう)
そう決意して。
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