前世の記憶を取り戻したので最愛の夫と離縁します〜悪女と評判でしたが天才治癒師として開花したら、なぜか聖女が自爆しました〜【書籍化・コミカライズ】（Web短編版）

第2話 揺れる感情

　ラルフと離縁してから、アシェリーは王都にある小さな治療院で働きはじめた。

　カーテンで仕切っただけの半個室で、アシェリーは患者の胸に手をあてて自分の体内の魔力を患者に流す。それによって滞りがある箇所が分かるのだ。

（……内臓にダメージがあるみたい。お酒の飲みすぎかしら？）

「デーニックさん、さては昨日酒場に行きましたね？　しかも、たくさん飲んだでしょう？　奥さんに禁止されているのに」

　アシェリーが困ったような笑顔を向ければ、白髪の老人はカッカッカと快活に笑う。

「アシェリーには何でもお見通しじゃな」

「治療師には何でもお見通しです。体内の魔力の流れを探れば、どこが悪いかすぐ分かりますから」

　アシェリーは微苦笑した。

　すべての人間には魔力があり、それがうまく循環することで健康を維持できる。

　しかし、年齢や生活習慣によって魔力は体内の色んな箇所に滞り、時間が経つとコブとなって不具合を生じさせてしまうのだ。治療師は万病を治せるわけではないが、多くの症状を改善することができる。

「これで大丈夫ですよ。気持ちよく歩けるはずです」

　アシェリーがそう笑顔を向けると、簡易寝台から立ち上がったデーニックは「おお、ありがたい」と言いながら身を起こす。

「でも私がしなくても、デーニックさんは自分で治療できるじゃないですか」

「いや、アシェリーは本当に腕が良いからな。君に任せると、ずっと体調が良いんだ。アシェリーはワシが今まで見てきた中で一番の治療師じゃよ」

　そう感謝されてアシェリーは目を丸くした後、「……ありがとうございます」と頬を緩めた。こうして頼りにされることが嬉しい。

「デーニックさんが私を雇ってくださったおかげですわ。……私の正体をご存じなのに」

　神妙にそう言う。

　アシェリーがこの治療院で働き始めてから三か月が経とうとしている。徐々に仕事にも慣れてきて、指名してくれるお客さんも増えてきた。

　デーニックはこの治療院の院長で、アシェリーの正体を知る数少ない人物だ。公爵という高い身分にも関わらず、領地経営を息子に譲ってからは王都で治療師として第一線で働き続けている慈善活動家だ。アシェリーが悪女と名高い前王妃と知りながら、身分を隠して働くのを許してくれている。

「なんの。アシェリーのような才能を拾わない方が愚か者じゃよ。むしろ、ワシの方が良い刺激を受けさせもらっておる」

「いえ、そんな……」

「世辞なんかじゃないぞ。君のおかげで、どれだけの患者が救われたか。君が提唱した『医療衛生』という概念……これは医術革命と言っても良いくらいじゃ！」

　デーニックはアシェリーの手を握りながら、少年のように目を輝かせた。

　この世界では医療衛生という概念が存在しなかった。汚れた手や器具で手当てや手術を行い、その結果感染症が広がって多くの人が亡くなるという悪循環。そのため戦場などでは半数近くの負傷兵が死亡するのが当たり前の世界だった。

（まあ、前世でも近世ヨーロッパ時代はそうだったみたいだけれど……）

　けれど不必要な死を目の当たりにするのが耐えられなくなったアシェリーは、前世の知識を使って医療革命をしたのだ。

　いくら治療師が施術をしても、衛生管理を徹底しなければ際限なく病人が増え、治る者も治らない。

　そこで過去の戦争や国内の治療院での死亡者の統計を調べ、その結果をデーニックに伝えて『医療衛生』の概念を提案した。デーニックはアシェリーの考えに全面的に支持して協力してくれた。今や国内の多くの治療院で衛生管理の意識が広がりつつある。

（医療衛生と言っても……やることは治療院を掃除して埃から細菌を広めないようにするとか、医療器具はアルコール消毒して他の患者にそのまま使わないとか、手をこまめに洗って清潔にするとか、現代では常識なことばかりだけれど……）

　逆に言うと、それすらされていなかったのだ。いくら治療師が頑張っても患者が減らないはずである。

「治療院にやってくる患者達が無事に退院してくれることが、治療師であるワシの喜びじゃ。アシェリーが来てくれたおかげで、この治療院で悲しむ患者と家族が減った。本当に感謝している」

　デーニックが優しく目を細めて、そう言った。

「デーニックさん……」

　アシェリーは胸がじんと熱くなるのを感じた。

（──こんなこと、今までなかったわ……）

　天才的な魔力制御の才能を持ちながら、アシェリーは今まではその力を活用してこなかった。ラルフに振り向いてもらうために美容には気を遣っていたものの、その能力で誰かを助けようなんて考えたこともなく、人から感謝される喜びを知らなかった。

（この治療院で働けて良かったわ）

「アシェリー！　それより、そろそろ昼休憩だろう？　近くに美味しい飯屋ができたんだ。一緒に行かないか？　って……じいちゃん、またアシェリーに治療してもらっていたのか」

　そう言ってカーテンを開いて顔を覗かせたのは、褐色の肌の青年──サミュエル・ラダーだった。彼はアシェリーの先輩で、デーニックの孫だ。そしてラダー伯爵家の次男坊でもある。

　そう誘ってくるサミュエルに、アシェリーは申し訳なく思いながら首を振る。

「ごめんなさい。午後から王宮に往診に行かなければいけないから、あまりゆっくりできそうになくて……」

「陛下のところへ行くのか？」

　眉をひそめて尋ねるサミュエル。彼もアシェリーが元王妃なことを知っている。

「離縁したなら、アシェリーがそこまで気を遣わなくても良いだろうに」

　サミュエルはそう不満そうに言う。宮廷治療師がいるのに、なぜわざわざ元王妃のアシェリーが出向かねばならないのかと不思議なのだろう。

　ラルフの魔力暴走のことは世間では知られていないし、それを制御できるのがアシェリーだけだと知っている者はわずかだ。

　週に一度はアシェリーが魔力制御をしなければ、ラルフは周囲を無差別に攻撃してしまうか、発熱して倒れてしまう。

（……聖女が現れるまでは、これは私だけの役目だわ）

　そこに、ほんの少しだけ優越感と独占欲を感じる。

　聖女がいれば、アシェリーがいなくてもラルフを癒してあげることができるだろう。だから、それまでは。

「アシェリー……もしかして、陛下とよりを戻そうとしているのか？」

　サミュエルの問いかけにアシェリーは苦笑して首を振る。

「……まさか」

　そんな高望みはしていない。

（この治療師の力を使って多くの苦しんでいる人を救っていきたい）

　それが愛する人を苦しめてしまったことを懺悔であり、今のアシェリーの夢だった。

　今はラルフの治療のために週に一度は王宮へ行かねばならないが、彼が聖女と結ばれた後は王都から離れて働き口を探そうと思っている。

（……故郷に戻るのも良いかもしれないわ）

　ラルフとの離縁を知らせる手紙を出したら、両親から心配されて子爵領に戻ってくるよう説得されているのだ。

（この治療院を離れるのは寂しいけれど……）

　でも王都でラルフと聖女が幸せな生活の話を聞きながら働き続けることはできない。想像するだけでも嫌だから。

　二人の邪魔はしないから、せめてラルフと聖女の話が届かない遠い場所に行きたかった。

　◇◆◇

　ラルフは報告に耳を疑った。

「何度も聞くが……これは本当にアシェリーの話で間違いないんだよな？」

　報告書は数枚でまとめられた少ないものだったが、ラルフが知らないアシェリーの話ばかりだった。

　目の前にいるのは腰の曲がった老人──デーニック公爵だった。

「何度もご報告いたしました通りです、陛下」

　王宮から出て行ったアシェリーは街の小さな治療院で働きはじめた。それがこのデーニックが経営する治療院だった。

　彼の元でアシェリーが働き始めたのは偶然だったが、ラルフはデーニックとは旧知の仲だったので、月に二回ほど報告を上げさせることにしたのだ。

（最初は、どうせすぐ音を上げるだろうと思っていたのに……）

　アシェリーは働いたことがない貴族の令嬢だ。彼女は周囲を見下す癖があり、その神がかった能力を人のために使うことを良しとしない女だった。少なくともラルフの知る彼女はそうだった。

　それなのに、この三か月の彼女の働きは目覚ましいものだった。

「……今でも信じられない」

　ラルフはそう呻いた。

　アシェリーが提言した医療衛生という概念は、戦時下の負傷兵の死亡率を半分に下げる革命的なものだった。アシェリーが作成した資料は、綿密な調査と統計を元に算出されたもので、初めて目にした時は『これは本当に、あの彼女が作ったのか？』とラルフは目を疑ったものだ。

　その後、デーニックや軍医、宮廷治療師と話し合いを重ね、ラルフは軍会議で医療衛生の必要性を説いて医療衛生の意識を広めた。それはわずかな期間でも驚くほどの結果をもたらし、小さな怪我から破傷風になって亡くなる者が激減したのだ。

「……アシェリー様は素晴らしいお方です。彼女目当ての客で最近は店も繁盛していますよ」

　デーニックの言葉を受け、ラルフは静かに報告書を机の上に置いた。

（……確かに最近はアシェリーの態度が変わった）

　週に一度アシェリーは治療のために王宮にやってきていたが、治療で肌に触れる必要があるのに必要以上の接触を避けているようだった。

（これまでは必要もなくベタベタ触ってきていたのに）

　それどころか義務的に会話をした後はさっさと帰ってしまうので、いつも拍子抜けしてしまう。

　デーニックは穏やかな口調で言った。

「私もアシェリー様の悪女の噂はかねがね耳にしておりました。しかし、私の目にはそんな悪い娘には見えません」

「……人はそんなにたやすく変わるとは思えない。お前はアシェリーのことを深く知らないから、そう言うんだ」

　ラルフはそう突っぱねた。そうであって欲しいと願っていた。

　アシェリーにこれまでされたことは簡単には許せることではなかったから。

（十年だ。十年という長い年月、彼女を憎み続けてきたのに……）

　その時、従者が新しい報告書を持ってきた。それはアシェリーに密かにつけている護衛からだ。

　ラルフは眉をよせて、従者に「この報告書にあるメイドを連れてこい」と命じる。

　間もなく怯えた様子のメイドがやってきて頭を下げる。

「お、お呼びでございますか？」

「お前、アシェリーに助けられたというのは本当か？」

　メイドはてっきり何か粗相して怒られるとでも思っていたのか目をぱちくりとさせて、うなずく。

「は、はい。先週、魔力暴走を起こして倒れたところをアシェリー様に助けられました」

　護衛の報告は事実だったらしい。

　今までの彼女なら、ラルフがいくら諌めても『どうして私が下働きの者のために動かなければならないの？』と冷たく言い放ち、見捨てていただろうに。

　黙り込んでいるラルフに、メイドはぽつりと言った。

「恐れながら……私はアシェリー様に助けて頂いたお礼がしたいです」

「そうか……では、次に彼女がきた時に機会を設けよう」

　報告書とメイドの証言をラルフも受け入れるしかなかった。これ以上、アシェリーの功績を聞いていられず、うなだれる。

　メイドが立ち去った後で、デーニックが言った。

「──人はそう簡単に変わるものではない。その陛下のお言葉には私も同意します。……けれど、もしかしたら、アシェリー様は変わろうとなさっているのかもしれません」

「アシェリーが変わろうとしている……？」

（そんなことありえるのだろうか……？）

　ふいにアシェリーが王宮を去る時に言った台詞が脳裏をよぎる。

『私が陛下を愛することは、二度とありません。それもお疑いでしたら魔法紙に誓約書を書きましょう』

（本当に……彼女は俺に心から謝罪して、過去を償うつもりでいるのか？）

　だから離婚して、ラルフに利しかない誓約を結ぼうとしたのだろうか。

　あの時の彼女の態度には、これまでに感じたことがない誠意があった。それはラルフも気付いている。認めたくないことだったが、さすがにずっと見て見ぬ振りはできなかった。

（だとしたら……俺は彼女にどう接していけば良いんだろう）

　憎いだけだったはずの妻に、ラルフは初めて心を動かされるのを感じた。