五二章 勇者を我がもとに
「勇者を仲間に引き込むですって⁉」
ハリエットの言葉に――。
アステスは椅子を
――そんなことはあり得ない!
アステスの表情がそう言っていた。
「失礼だぞ、アステス」
いつもなら即座にそうたしなめるジェイもこのときばかりは無言だった。それどころか、ピクリ、と、眉を吊りあげてハリエットを注視した。ジェイがハリエットに対してこんな視線を向けるのははじめてのことだった。
その視線にも、視線に込められた意味にも気が付きながらハリエットはつづけた。
「そうです。ガヴァンさまはまぎれもなく神託の勇者。人類最強の戦士。ふたりの仲間フィオナとスヴェトラーナも人類最高の聖女であり、最強の魔女。この三人が仲間に加わってくれれば三年後の反攻にどれほど心強いか。そうでしょう?」
「しかし……!」
「陛下」と、ジェイ。
その声は静かだったがそれだけにいと深く、アステスの叫びを打ち消すほどの力があった。アステスも思わずジェイの姿に引き込まれ、自らの言葉をつづけることを忘れてしまった。
ジェイは決して譲れない思いを視線に込め、ハリエットに告げた。
「陛下。あの勇者が人類最強の戦士であることは承知しています。たしかに、あの力があれば人類の大きな支えとなることでしょう。しかし、あの男はエンカウンにおいて戦死した兵士たちの
「そうですとも! 絶対に、できません……いや、やりたくない!」
アステスの叫びは子供じみた感情的なものになったが、それだけに譲れない思いに満ちていた。モーゼズ、バブラク、アルノスの三人もそれぞれにうなずいていた。兵士たちを率いる将として、部下の死を辱める無礼者に対する思いは同じである。
「わかっています」
ハリエットは、こちらも静かに、しかし、やはり確固たる思いを込めて答えた。
「わたしとてあの光景を忘れたわけではありません。ガヴァンさまはたしかに強い。しかし、自らの強さに
ですが、いまも同じとは限りません。
ガヴァンさまは
勇者と言えどひとりでは戦えない。下働きをして支えてくれるものが、共に戦ってくれる大勢の一般兵が必要なのだと言うことが。
その一点さえ理解してくれればガヴァンさまの存在はまちがいなく人類の切り札となります。わたしはそれに懸けたい。もちろん、エンカウンでの一件をうやむやにするつもりはありません。仲間になってもらう条件として英雄たちの霊に対して謝罪することは要求します」
「要求に応じなかったら?」
「そのときは……残念ながらガヴァンさまは最後まで大切なことに気が付けない
「いいでしょう」
ジェイはそう言った。
「ならば、私も行きましょう。もし、謝罪するものなら私のこの手で謝罪させたい」
「私も行きます!」
アステスが椅子を蹴倒して立ちあがった姿勢のまま叫んだ。
「エンカウンで踏みにじられたのは私の部下でもあります。形の上だけではあっても。私にもあの礼儀知らずの勇者に謝罪を求める権利はあります」
「わかりました。あなた方の思い、ぜひともぶつけてください。それでも、気が付かないとなれば……」
あの方も終わり。
ハリエットはその一言を声には出さずに呑み込んだ。人ひとりの破滅を予言するのはハリエットの性格上、どうしても出来なかった。まして、相手は『嘘でも』婚約者だった身。なおさらである。
「うむ。行ってくるがいい。留守は
スミクトルの
ハリエットは深々と頭をさげた。
勇者ガヴァンは疲れ切っていた。
もう何日、休みなしで戦っているだろう。近づいては離れ、離れては近づく小鬼たちの群れに囲まれて、町のなかに帰ることも出来はしない。眠れもしない。食えもしない。水も飲めない。
足元はふらつき、手にした剣は頼りなく振るえている。あえぎ声が漏れ響き、肩で息をしている。汗と小便で全身はずぶ濡れであり、大半を費やして開発された勇者専用の鎧もその輝きを失っている。
それはもはや『神託の勇者』などと言うご大層な代物ではなかった。どこからどう見てもくたびれはてた
――くそっ!
ガヴァンは心のなかで
誰を?
それは本人にもわからない。とにかく、罵るだけ罵った。本来、ガヴァンが罵るべきは誰よりも自分自身であったろうが。
――くそっ、くそっ、くそっ! おれは神託の勇者だ、人類を救う英雄なんだぞ! それがなんで、こんな
エンカウンの警護騎士どもはなにをやってるんだ⁉ 勇者の盾となって散るのが、役立たずの雑兵どもの役目だろう! それなのに、守るべき町を見捨てて逃げ出しやがって。卑怯者どもが!
ジェイをはじめ、エンカウンの警護騎士たちは町を捨てて逃げ出したのではない。ガヴァンが自分自身の
その思いの行き着くところ、ガヴァンの心のなかではいま、エンカウンを去った警護騎士たちへの怒りが燃え盛っていた。
――せめて、フィオナとスヴェトラーナがいれば……!
あのふたりさえいればまだまだ戦える。
ガヴァンが前線に出て剣を振るい、その間にスヴェトラーナが魔力を溜めて巨大魔法で敵をなぎ倒す。敵との距離が開いた隙にフィオナがガヴァンを回復させる。体勢を立て直して敵が攻めてくればガヴァンが剣を振るって接近を阻止。その間にスヴェトラーナが再び魔力を溜め……。
その繰り返しでどんな大群相手であろうとも勝利出来るはずだった。しかし――。
いま、ガヴァンの側にはフィオナもスヴェトラーナもいない。ふたりとも相変わらず、自室に引きこもったまま外に出てこようとしない。ガヴァン自身、ふたりに思い切り顔を引っ掻かれてからふたりに会う勇気がなく、一言も交わしていないままだ。結果、ガヴァンは本当にひとりで鬼部の大群を相手にしなければならなくなっていた。
小鬼たちを指揮する知殺将軍エイプヘッドの
「はははっ! さしもの勇者もそろそろ限界のようだな。勇者らしく敵の大物と差し違えるのではなく、小鬼の群れを相手にみじめに敗れ、食われる気分はどうだ? 泣いて謝れば許してやらんこともないぞ?」
「くっ……」
「さあ、小鬼どもよ! そろそろ
くたびれはてた勇者に小鬼の群れが襲いかかる。ガヴァンは剣を握り、斬り捨てようとした。その瞬間――。
ガヴァンの身を
戦場にあって、
敵の大群にいままさに襲われようとするその場にあって、
ガヴァンはほんの一瞬、眠りに落ちた。それはまぎれもなく命取りとなった……はずだった。しかし――。
斬ッ!
音高く
「なに……⁉」
あり得ない事態にさしもの知恵自慢のエイプヘッドが驚きの声をあげた。
そこにはひとりの剣士が立っていた。
元エンカウン警護騎士団長ジェイ。
「起きろ。勇者だろう」
「お、お前は……」
目の前に立つ黒髪の剣士を見てガヴァンは思った。
――誰だ?
もとより、自分とふたりの仲間、そして、ふたりの兄以外は役立たずの雑兵としか思ったことのないガヴァンである。自分を見捨ててこの地を離れた警護騎士団長の顔など覚えているはずがなかった。
「まったく。呆れてものも言えないな」
まだ一〇代の少年に見えるほどに若々しい、愛らしい顔立ちの若者が現れた。副団長のアステスである。
「まさか、戦場で居眠りとはね。こんな間抜けを『救世の英雄』と
――眠りたい。
ただただそう思うだけである。
「ここはおれが引き受ける。帰って寝ろ。お前をまっているお方がいる」
その言葉に――。
神託の勇者は意識を失った。
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