四七章 これが熊猛将軍
知恵ある獣。
人間を食らう怪物。
それが
その鬼部が恐怖に我を忘れることがあるとすれば、このときがまさにそうだった。
『将軍』の名をもつほどの鬼がいま、恐怖の表情を浮かべて自分の背後に立つ巨人を見上げている。信じられないものを見た
――鬼部も恐怖を感じる。
鬼部と言えど正真正銘の怪物ではない。
人間と同じく恐れを知り、恐怖を感じる、ただの生物なのだ。
メイズははじめてそのことを実感として知った。とは言え――。
いま、ウルフファングの頭をつかみ、その背後に仁王立ちしている人間を見れば、恐れを知らぬ怪物でさえ生まれてはじめての恐怖を知ったかも知れない。
ウォルター。
その男がそこにいた。
ウルフファングの頭をその手で握りしめて。
ウォルターは傷だらけ、いや、怪我だらけだった。全身から血を流しているし、
体のなかを見ればおそらく、内臓のひとつふたつは潰れているだろう。折れた骨が突き刺さってもいるだろう。それでもなお――。
熊猛将軍ウォルターはそこにいた。
たしかに、生きて立っていた。
何十メートルという高さの崖から落ちて、なおかつ生き残り、しかも、自力で崖を登って戦場に舞い戻ったのだ。
まさに、この男は戦場の申し子だった。
「この熊猛将軍ウォルターをあの程度のことで殺せると思ったか!」
怒りに満ちた吠え声が響いた。
その巨大な足でウルフファングの背中を蹴りつけた。同時に、頭をつかんでいる腕を思い切り引っ張った。ぶちぶちという筋肉のちぎれる音すらさせることなくウルフファングの首は胴体から引きちぎられていた。
ガアアアアッ!
吠えた。
叫んだ。
怒りの咆哮が轟いた。
ウォルターは鬼部の群れに突っ込んだ。
殴る、
殴る、
殴る!
武器ももたず、盾ももたない。崖を登るために脱ぎすててきたのだろう。自慢の鎧さえ身につけていない。
生身の人間。
その生身の人間が鬼部の群れに飛び込み、素手で殴りつけるだけで圧倒している。
メイズは
やはり、ウォルターこそは人類最強の猛将。鬼部を倒し、人類を救うための力。
メイズはそう確信した。
――この男をここで死なせるわけには行かない!
その思いだけで飛び出していた。
「将軍、熊猛将軍! お引きください。ここは一度、撤退し、後日、再戦を期してください!」
暴風のように振りまわされる腕をかいくぐりながらメイズは必死に訴えかける。いくらウォルターが人間とは思えぬ神話的な勇猛さを振るおうとも、戦況それ自体が
このまま暴れていては、いつかウォルターも体力の限界を迎える。そうなれば、鬼部たちによってたかって食い尽くされる。
それだけは防がなくてはならなかった。
ウォルターも熊猛紅蓮隊もこれからの戦いに必要な存在。
こんなところで全滅させるわけには行かなかった。しかし――。
メイズの必死の呼びかけもウォルターには届かない。もともと、見たいことしか見えず、聞きたいことしか聞こえない人物。しかし、このときはそれすらも越えているように思われた。あるいはもう意識すらないのかも知れない。ただただ戦士としての本能だけで動く相手に襲いかかっていたのかも知れない。
――くそっ、このままでは全滅だぞ!
メイズは焦った。
ウォルターが異様な力を振るい、鬼部が怯んでいるいまが撤退するための最後の機会。この機を逃せば必ずや熊猛紅蓮隊は全滅する。鬼部の腹を満たす干し肉にされる。それだけは防がなければならなかった。しかし、どうやって……?
そのとき――。
「メイズ
必死な、しかし、若々しい声がした。その声を聞いた瞬間――。
メイズの頭のなかに希望が芽生えた。
「チャップ!」
チャップ。
遠征前に熊猛紅蓮隊に参加したばかりの冒険者あがりの若者。その若者がついにやってきたのだ。
全力で駆けつけてくるチャップの後ろには何人もの冒険者たちがいた。
スタック。
デューイ。
ダリル。
ヴェチャスラフ。
かつて、チャップがパーティーを組んでいた冒険者たち。
その他、幾人もの冒険者たちが駆けつけていた。
これがメイズがチャップに与えた『特別任務』。冒険者あがりの経歴を生かして知り合いの冒険者を呼びに行かせていたのだ。
普通なら遠く離れたレオンハルトの隣国まで出向いて仲間を集め、それから追いかけてきたところで追いつけるはずがない。しかし、身軽で少人数、しかも、騎士や兵士よりもずっと野山を行くことに長けている冒険者たちだ。軍勢よりずっと早く進める。熊猛紅蓮隊が
「将軍をぶちのめして捕まえてくれ!」
メイズは冒険者たちに向かって叫んだ。
「将軍を連れ戻すためにはそれしかない! ふん縛ってレオンハルトに連れ戻してくれ! 冒険者のあんたたちならできるだろう⁉」
将軍であるウォルターをぶん殴って気絶させ、縛りあげて、故国へ運ぶ。
ウォルターの配下である熊猛紅蓮隊の将兵たちにはとてもそんなことは出来ない。仮にできたところで、それでレオンハルトに戻ればまぎれもなく反逆者。そこで、
「かの
レオンハルトの人間にはとても出来ない。しかし、レオンハルト以外の国の冒険者であれば……。
それが、メイズがチャップに託した熊猛紅蓮隊を帰還させるための唯一の希望だった。
「心得た!」
メイズの叫びにスタックが答えた。
さすがに歴戦の勇士だけあって状況を即座に呑み込んでいた。メイズが何を望んでいるかも。冒険者たちのリーダー格であるかの人は他の冒険者たちに指示を飛ばした。
「囲め! 相手を人間と思うな! 特大のダイナリングベアだと思え!」
スタックは地元で最大最強を誇る熊型の魔物の名前を出した。
たしかに、いまのウォルターは小鬼の群れさえ襲って捕食する、この魔物に比すべき存在だった。
ウォルターは敵も味方もないままにひたすらに暴れ回る。統率の取れた戦いしか知らない騎士や兵士であれば危なくてとても近づくことなど出来ない。しかし、そこはさすがに魔物狩りに慣れた冒険者。手慣れた仕種で捕縛に入った。
大柄なダリルが鋼の鎖を振りまわし、投げ付け、体に絡ませて動きを封じる。デューイとヴェチャスラフのふたりが即座に近づき、両腕に縄をかけて縛りあげる。スタックが背後から近づき、強烈な一撃を後頭部にぶちかます。
すでに頭骨が砕け、脳味噌が見えている身。そこをぶん殴ったりすればその衝撃で脳味噌が飛び出すかも知れない。その危険を承知の上でスタックはしかし、ためらうことなくウォルターの後頭部を殴りつけた。見境なく暴れる血みどろの怪物と化したウォルターをとめるには、それしかなかったからだ。
強烈な一撃にさしものウォルターも地面に倒れた。四人がかりで殺到して縛りあげ、縄をかける。そのまま引きずっていく。
「将軍を頼む!」
メイズが叫んだ。
「生き残りは冒険者たちについて行け! 冒険者であればおれたちよりも野山の進み方を心得ている! なんとしても生き延びて国に帰れ!」
一息、入れてからさらにつづける。
「これは敗退ではない! 逃げ帰るのではない!
そう叫びつつ――。
メイズ自身はその場を動こうとはしなかった。
動くわけには行かなかった。ウォルターのあまりの勢いに一度は気圧され、遠ざかっていた鬼部たち。その鬼部たちがウォルターが捕えられたことで再び迫りつつあった。
いくら冒険者たちが加勢したと言っても、鬼部の群れに比べればその数は
そうさせないためには誰かがこの場に残り。追撃を食い止めなければならなかった。
メイズは自分がその役割を果たすつもりだった。しかし――。
「銅熊長ひとりじゃどうにもならんでしょう」
「そうそう。ひとりで
「どうせ、食われるならみんなで格好付けましょうや」
配下の兵士たちがメイズの横に並び、撤退していく熊猛紅蓮隊と鬼部たちの間に立ちはだかる壁となった。その顔には覚悟を決めたものに特有の晴れ晴れとした表情が浮いていた。
「……お前たち」
メイズは言葉を失った。
『逃げろ!』などと説得している場合ではなかった。そんな時間はなかったし、自分ひとりでは必要な時間を稼げないこともわかっていた。
「……すまん」
「いやいや、銅熊長。そこは『すまん』じゃなくて『ありがとう』でしょう」
「……そうだったな、ありがとう、みんな」
かの人たちは戦うために残るのではない。
鬼部に食われることで仲間たちが逃げる時間を稼ぐ。
そのために残るのだ。
そのことを承知の上で全員がメイズと運命を共にする覚悟を決めていた。そして、もうひとり。
「銅熊長!」
チャップが若々しい顔に必死の覚悟を込めて叫んだ。
「おれも残ります!」
「だめだ」
今回ばかりはメイズもはっきりと言った。
「どうしてです⁉ おれだってメイズ銅熊長の配下です。そりゃあ、一度も一緒に戦ったことはありませんけど……」
「お前には特別任務を与える」
「と、特別任務……?」
「ここまで来たからには、おれが残してきた目印は見つけてきたんだろう?」
「えっ? ええ、そりゃあ……」
「その目印のところに紙の束を隠してある。ここまでの道中の地図や、食べても平気だった動植物を書き記してある。そいつをひとつ残らず回収してアーデルハイドさまに届けろ」
「アーデルハイドさま?」
「そうだ。あの方ならきっと今後の役に立ててくださる。いつか再び、人類がこの鬼界島に攻め込み、鬼部との戦いに決着を付ける。そのときのための力となるはずだ。いいな。この任務、必ず果たせよ。お前がこの任務を果たせるかどうかで次の戦いの勝敗が決まるんだからな」
「……銅熊長」
「行け! 命令だ」
「はいっ……!」
チャップは走り出した。その目に涙をいっぱいに溜めながら。
メイズはそんな若者の後ろ姿を苦笑と共に見送った。
「……さて。それでは、おれたちはおれたちの役目を果たすとしよう」
「そうですね」
「ねえ、銅熊長」
「なんだ?」
「もしかして、ですけどね。おれたちの指揮を
「……そうだな。そうかも知れん」
もし――。
そう。もしも、戦略を知り、補給の大切さを知り、情報の有用さを知り、他者と
そうするためには、ウォルターはあまりにも幼稚に過ぎた。他人に指図されることに耐えられないウォルターが――それが誰であれ――自分の上官になることなど認めるはずがなかった。そうである以上、しょせんはあり得ない可能性……。
メイズは首を横に振ってその思いを振り払った。いまさらそんなことを思っても
せめて、次の戦いではその布陣が実現するように。
そう願いつつ、この場での役割を果たすしかなかった。
「次の遠征軍にはそうなって欲しいものですね」
同じことを思ったのだろう。兵士のひとりが言った。
「なってくれるさ。そのためにおれたちはここでやつらに食われるんだ」
「そうですね」
そして――。
メイズたちは残された力を振り絞って鬼部の群れに突撃した。
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