第10話 お姫様

 翌朝目覚めると、既に兄は家にいなかった。

 朝食の席で給仕をする家の者が私に告げる。

「九州で会議があるそうなんですよ。それだけはどうしても外せないみたいで。明日の昼にお戻りになるみたいです」

 私は家の者に心配をかけたくないと思いながらも、気分が悪くてほとんど食べられなかった。

「……すみません。下げてください」

 席を立って戸口に向かおうとしたところで、視界が真っ暗になる。

「お嬢様!」

 私はどうやら倒れたらしく、次に目を開くと隣室の布団に寝かされていた。

 すぐに医師が呼ばれて診察を受ける。ここのところあまり食べていなかったことと前日のショックで貧血になったようだった。

「落ち着いて。大したことはありません」

 私は点滴を受けながら、慌ただしく出入りする家の者たちをどうしようかと考えていた。

 けれど体が酷く重くて制止の声にも力が入らなかった。

 熱も上がってきたようだった。意識が朦朧として、どうにも収拾がつかない心地になる。

 幼い頃からよく高熱を出した。そのたびに兄がお見舞いに来てくれた。

 でも今日は来られないとわかっている。怪我をおしてまでの会議なのだから。

 何度も上がっては落ちる意識の中で、私は夢を見ていた。

 ぼろぼろのぬいぐるみを抱きしめて、私はどこかの座敷に座っていた。白く横長の台が目の前に置いてあって、その上には小さな袋が乗っていた。

 色々な人が部屋を出入りする気配を感じる。けれど私は睨むように小さな袋をみつめたまま動かなかった。

 まるで目を逸らしたらそれが消えてしまうかのように、ただその袋を見続けていた。

 ふいに視界に入って来た人たちがいた。五十台くらいの大柄な男の人と、十代前半の少年だった。

――君が遥花?

 少年に声をかけられたけど、私は黙っていた。少年の父親らしい男の人は、周りの人たちと何か話していた。

 ふいに男の人が小さな袋に手を伸ばす。

 その瞬間、私はきっと目を尖らせて立ち上がっていた。

「おかあさん」

 熱に浮かされてつぶやいた私は、傍らに誰かが座っていることに気付く。

「かわいそうに、遥花」

 額に触れる大きな手と馴染んだ声に、私は目を開く。

「……にいさま?」

 枕元に座って、眉を寄せながら私を見下ろしていたのは兄だった。

「どうしてここに。今日は外せない会議だって……」

「遥花より大事な会議なんてない」

 まだ朝の光が残る時間だ。途中で引き返してきたのだろうかと、私は言葉を失う。

「起こしてしまったか? すまない」

 兄は布を桶の水に浸して絞り、私の額にそれを乗せる。

 私はうろたえながら兄を制止する。

「にいさま、私のことはいいの。お仕事に行って」

「代理をやっておいた。遥花こそ、兄の心配は要らない」

 私がどれだけ勧めても、兄は腰を上げる気配がなかった。

 それから兄は私に熱さましを飲ませたり、手ずから果物をむいてくれたりした。

 幼い頃からのいつもの風景に、私は会社の者たちに申し訳ないと思いながらも心を和ませる。

 薬が効いて少し落ち着いて来た頃、兄は私の髪を撫でながら言った。

「遥花、初めて会った時を覚えているか?」

「ええ」

 兄と初めて会ったのは、母の葬儀の式場でのことだった。

 母の親族がどういうつてを使ってか父を呼んで、兄はそれについて来ていたのだ。

「遥花は親父の手を叩いて怒ったな。「触るな」と」

 母の遺骨に触れようとした父に飛びついて、私は叫んだ。

「「小さくなってもはるかのお母さんだ。汚い手で触るな」と親父に怒鳴った」

 今思えばずいぶん無謀なことをしたものだ。裏社会の長だった父にそんなことをすれば、どんな目に遭ってもおかしくなかった。

「にいさまが庇ってくれなかったら、どうなっていたかわからないわ」

 五歳の子どもの言葉とはいえ、父はさすがに青筋を立てた。だけどその間に兄が割って入って父を宥めてくれた。

 顔を歪めた私に、兄は優しい声で言った。

「そのとき兄は遥花を、本物のお姫様なのだと思った」

 私が目を上げると、兄はまぶしいものを見る目で私をみつめていた。

「親父は汚いことや酷いこともした。それを遥花は感じ取って拒絶したんだろう。兄はこの子と半分でも血がつながっていると知って、舞い上がるくらいに嬉しかった」

 兄は首を傾けて苦笑する。

「親父と同じで、兄も汚いことや酷いことをする。遥花に嫌われても仕方がないとわかっている」

 兄はそっと屈みこんで、額の布ごしに私に口づけた。

「だが遥花を愛しているんだ。……それは、わかってくれ」

 私は兄を見上げて言葉を探したけれど、みつからなかった。

 兄はしばらく私の髪を撫でながら、何かを考えている気配がした。

 長い沈黙の後、彼はふいに口を開く。

「遥花、兄に何か話したいことがあるんじゃないか?」

 手を止めずに、彼は穏やかに私を見下ろす。

「それを言ったら兄が怒ると思っているかもしれないが……兄は遥花に怒ったりなんてしない。遥花が望むなら何でも受け入れよう」

 きっと兄は、私がレオを好きなことをとっくに気づいている。

「兄に言ってくれ、遥花」

 ……言うな、遥花。

 兄の苦しそうな黒い瞳は、口に出したこととは正反対の言葉を告げている気がした。

 兄にレオへの想いを告げるのは、他ならぬ兄を傷つけること。

 私はそれに気づいて胸が張り裂けそうなほど痛んだ。

 結局私はただ喉を詰まらせて、何も言葉にすることができなかった。

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