第7話 愛のかたち
兄と楓さんの祝言が一週間後に迫った頃、都内のホテルでパーティが開かれた。
兄が暴力団の長であることは公然の秘密だが、一応彼は多くの傘下を抱える企業の会長という表の地位も持っている。
その兄と同じく大企業の社長令嬢である楓さんの結婚は当然のように注目を浴びていて、百人ほどの客が訪れた。
お客様の言葉に応じて談笑するのが、私の妹としての務めだった。
「お嬢様はいつ見ても優雅で、大和撫子そのものでございますね」
「いえ、わたくしはまだ子どもで。いつか奥様のような気品を身につけられたらと思っております」
「あらあら。お嬢様ったら」
財閥の会長夫妻や俳優、海外の貴族など様々な人が招待されていた。
物心ついた頃から兄に連れられて上流階級の人たちの相手をすることを覚えたから、今更気疲れすることはない。
けれどドレスの衣擦れやシャンデリアの眩しさに溢れた馴染んだ空間で、ふっと意識が宙に浮いた。
レオの腰にしがみついて、排気ガスにまみれながらバイクで疾走した感覚がふいに蘇る。
たった半日で、他愛ない話しかしなかった。それなのにあの日の一瞬ごとが夜空に浮かぶ星のように胸の中で瞬く。
兄のための務めの中で、上の空の自分が恥ずかしかった。
「はるか?」
自分で帰ると決めたはずなのに、一目だけでもレオに会いたいと思ってしまっていた。
「遥花、どうした。顔色が悪い」
はっとして顔を上げると、兄が心配そうに私を見下ろしていた。
私は慌てて客人に気取られないように兄に返す。
「……なんでもありません」
「無理をするな。今朝もあまり食べていなかったじゃないか」
兄は招待客に向けていた完璧な微笑を消して、首を横に振る。
「具合が悪いのにこんなところに連れてきた兄が悪かった。誰か、車を……」
「龍二」
家の者を呼ぼうとした兄を、急ぎ足で近付いてきた楓さんが呼びとめる。
その声が強張っていたのに兄も気づいたらしい。
「どうした」
あでやかな真紅のドレスに身を包んだ楓さんは、心なしか青ざめて見えた。
……その後ろに、タキシード姿の銀髪の少年が立っていた。
少年は微笑んで兄に声をかける。
「あなたが浅井様ですね。ご招待ありがとうございます」
貴族の子弟のように優雅に一礼したのは、まぎれもなくレオだった。
きらめく碧の目で、レオは私に目配せしてみせた。
兄はそれに気づいて、不快を気取られないように言う。
「私の思い違いでなければ、初めてお会いするように思う。どちらからいらっしゃったのだろうか?」
兄は楓さんと違って顔色を変えなかったが、守るように私の肩を引き寄せながら問いかけた。レオはそれに母国語で返す。
『カルナコフ家三男、レオニード・カルナコフです。こちらは従兄弟のアレクセイ』
レオが示した先には影のように控えた青年もいて、青年は軽く会釈する。
兄は微かに眉を動かして、何かに思い当ったように目を上げる。
レオは兄の反応を気に留めず、淀みなく話を続けてみせる。
『今まではあまりお付き合いがありませんでしたが、父はこの期に懇意にさせて頂きたいと言っておりました』
『お父上の噂は伺っている。各国に優秀な一族をお持ちだ』
私はレオから目が逸らせなかったけれど、兄の言葉の真意は感じ取れた。
レオの家も裏の家業を持っているらしい。兄たちと同業者、しかも相当な規模を持つのだと察せられた。
そして兄はそのファミリーともめることができない。たぶん招待客のリストには載っていなかったはずのレオを追い返す様子もない。
レオはふいに私をじっとみつめて言った。
『美しい妹さんですね』
レオが目を細めて笑うと、兄は表面上穏やかに返した。
『私にとっても自慢の妹だ。が、今は少し気分が優れないようだ。失礼する』
『それはいけない』
レオは掠め取るように私の手を取って引く。
『気分を変えるといいですよ。私と踊りましょう、お嬢さん』
会場内にかかるピアノの音に合わせて、レオは私を躍らせ始めた。
ダンスならたしなみとして覚えてはいるけれど、私は心臓が高鳴ってつまずきそうになる。
「びっくりした? ハルカ」
レオは私の耳に口を寄せるようにしてささやく。私はどぎまぎしながら言った。
「びっくり、なんてものでは……ありません」
「ね、僕に会えて嬉しい?」
顔を離して、レオは花のように笑う。
「……はい」
「二人ともそうって、幸せなことだよね」
他に踊っている人などいないから注目を浴びる。けれどレオは周りなどちっとも気にする様子がない。
呼吸でもするように軽やかに踊りながらレオは言う。
「実家の名前もたまには役に立つなぁ。まあ、アレクを連れて行くっていう条件はつけられたけど」
「大丈夫なのですか? その……」
「それは誰の心配?」
レオは首を傾けておどける。
「僕のことだったら、何にも心配要らないよ。僕は昔から好きなように過ごしてきて、邪魔をする奴は片っ端から片付けてきたもん。父さんだってもう諦めてるし」
呆れる私に、彼は悪意を感じられない口調で告げた。
「なんとなく日本の音大に籍を置いたままにしてただけで、そろそろ帰国するつもりだったんだ。でも思いがけず面白い子をみつけた。君だよ」
レオは笑いながら言う。
「ハルカ。君は僕の特別な子なんだ」
私は思わず目を瞬かせる。
「女の子だけど、君とは手をつなぎたい。キスしたい。それなら、僕らは結婚してもいいんじゃない?」
突拍子もないことを言われて、私は一瞬息もできなかった。
震える唇で、私はその途方もない未来を口にする。
「あなたは、私のことが面白いと……それでまさか、結婚?」
「うん、そう」
こくんと頷いて、レオは私を澄んだ碧の目でみつめる。
「そうしたらもっと面白くなるんじゃないかなって」
楽しい提案をするように言って、レオは私をくるりと回転させる。
「ハルカも面白いと思わない?」
再び向き合ったレオは、繊細な水晶細工を思わせる顔立ちに、汚れのない微笑を浮かべていた。
自分が結婚するなど考えたこともない。
兄が私に家を出るのを許すとは思えなかったから、考えることを避けていた。
ふいにレオの従兄弟の青年が足音も立てずに近づいてきて言う。
「レオ。いくらなんでも目立ちすぎです。追い出されますよ」
レオは不機嫌そうに振り向いたけど、ふと私の顔を眺めて言う。
「ハルカ、本当に気分悪いの?」
何気なくレオは呟いて、辺りを見回す。
「僕だけ楽しくても駄目じゃない。お水持って来てあげる」
踵を返したレオの背中を、私は惜しむようにみつめた。
入れ違いに兄がやって来て私の手を取る。
「車を回した。今日はもう帰るんだ、遥花」
……帰りたくない。
首を横に振ってそう告げようとした私を、兄が眉をひそめて見下ろした時だった。
視界の隅に鈍く光るものが映った。
尖った先端が、シャンデリアの光を反射しながら私の胸に向かって突き進む。
一瞬の内に兄が動いた。
私を横に突き飛ばして、その前に兄が立ちふさがる。
ザクッという、嫌な音が耳の奥に響く。
「会長!」
すぐさま家の者たちが集まって来て兄から男を引きはがし、取り押さえる。
私は床に手をついたまま、何が起こったのかもわからず呆然とする。
兄が脇腹から血を流していた。
「にいさま!」
……兄が刺されたのだと認識した途端、私は飛び起きて兄に駆け寄る。
家の者たちに取り囲まれながら兄が問いかける。
「遥花……遥花に怪我は?」
兄の押さえた手から血が溢れるのを見ながら、私は震える声で答える。
「私はここよ! どこも怪我してない」
「そうか。ならいい」
隣に膝をついた私の頭を、兄は血に濡れていない方の手でそっと撫でた。
「大丈夫だ、遥花」
安心させるようにゆっくりと告げて、兄は顔を上げる。
「騒ぐな。大した傷じゃない」
低い声で家の者たちを制止してから、兄は指示を出し始める。
「誰も外に出すな。共犯者がいないか洗い出せ。ただし客人たちには丁重にな」
楓さんがやって来て兄の耳元で言う。
「医者の手配と口止めはしたわ。あなたは少し休んでいて」
「わかった。お前に任せる」
多くを語らなくとも意思を察し合える信頼が二人の間にはあった。
応急処置を終えると、兄は家の者に支えられながらも自分の足で歩いて別室に向かう。
私は自分にできることはないかと考えてみたけれど、混乱した頭ではまとまらなかった。
自分のふがいなさに唇を噛んで立ち尽くした私に、場違いなほど明るい声が降りかかる。
『ハルカ。いいこと教えてあげよっか』
顔を上げるとレオだった。彼は突然の凶事に慌てる客人たちの中でも、そんなことなど関係ないとばかりに涼やかな表情をしていた。
『あれは君を狙ったんじゃなく、最初から君の兄さんを刺すつもりだったね』
つと私は眉をひそめる。
『もっと言うと、殺すつもりはなかった。そうだよね、アレク?』
レオが視線を横に向けると、いつ来たのか彼の従兄弟がそこに立っていた。
『やり口がずさんですし、殺意が全く感じられませんでした』
『何を言って……』
『本当だよ。SP経験があって軍にもいたアレクが言うんだから』
レオはくすっと笑って首を傾げる。
『事前に襲撃者を買収しておいて、わざと刺されたんじゃないかな。たとえば敵方の親玉をはめる目的か……それとか』
思いついたように、レオは指を立てる。
『君を自分の元に留めるため。あはっ、だったらずいぶん姑息な方法を取るよね』
心臓に火が点いたように、私の体がかっと熱くなる。
「……ふざけないで!」
ぱんっと、音を立ててレオの頬を平手でたたく。
「よくもにいさまを侮辱したわね。何がいいことよ。姑息な真似をしてるのはあなたでしょう?」
何が起きたかわからないといったように、レオはきょとんと私をみつめる。
「にいさまはね、ただの厄介者だった私のところに、唯一お見舞いに来てくれた人なのよ」
私はほんの数回父に情をかけられた愛人である母から生まれた。母が亡くなって仕方なく本家に引き取られたけれど、父だってほとんど私のことは無視していた。
――にいさまと呼んで、はるか。俺はいつだってはるかの味方だよ。
兄は病気で寝ている私の所に毎日お見舞いに来て、励ましてくれた。
父や長兄、他のどんなものからも庇って守ってくれた。
「愛してるのよ……!」
兄からの愛情も、私が兄を愛していることにも、疑いを感じたことなど一度もない。
私の頬につたうものを、レオは硬直しながらみつめていた。
踵を返して、足早にその場を去る。人前だというのに、私は涙が止まらなかった。
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