翅のある果実
虫太
翅のある果実(改稿)
ぼくがあのコミューンを去ることになったのにはいくつか理由があった。どんな選択にも理由はあるし、意味がある。もしそのすべてがわかったら、もう何も言い訳はできなくなるのかもしれないし、もっと自由になるのかもしれない。
コミューンを出たあの日のことを思い出すと、学舎の初等部にいた頃に地域学の先生が話してくれた古い伝説がいっしょに思い浮かぶ。
はるか昔、天と地が、つまり神々と人間とがもっと近かった頃のこと。かつて蒼穹は、それ自体がカテドラルであり、夜空そのものが星々の運びを集約した天球儀だった。宇宙の理は人の手が届くところにあった。今は何光年も先の銀河の果てにあるという、神々のおわす御処もずっと近く、あのイルミンカエデの大樹の頂きのすぐ上にあったそうだ。
神々は大樹に美味しい果実と朽ちない羽殻をもたらした。甲虫は羽殻を食べ、自由に空を飛ぶ力と永遠の輝きを得た。一方で人間は果実を選び、限られた寿命と地を這う運命を課された。その証拠に今も、イルミンカエデの大樹には人間の背丈より大きな羽根を2枚つけた果実がなっているのだそうだ。
「それって作り話でしょう」生意気だったぼくは先生に言った。「イルミンコガネムシが食べるのは羽殻じゃなくて木の幹だよ」
それに甲翅がいつまでも綺麗なのは構造色だからだし、彼らにだって寿命はある。
ぼくが口を尖らせて言うと先生はニコニコ笑って諭したものだった。
「甲虫は、親もその子もみんな同じ。人間みたいに一人一人が違わないでしょう。何度も生まれ変わってるんだよ。でも、人間は同じ人は二度と生まれないの」
ウルズラに初めて会ったのは、夏、いや葡萄の収穫時期だったからほとんど秋の入り口だったはずだ。でも、雲の背は高く、暑い日だった。
あの日、保育舎で育児員として子どもたちの相手を終えて、川と斜面のワイン畑の間の道を自転車で走っていた。川は空と山を映してゆったりとたゆたっている。ひとつのワイン畑を過ぎたところで、ぼくは少し休もうと木陰に入り、見慣れない赤い車に気づいた。車には人がいて、向こうもこちらに気づいたようだった。
「こんにちは。どこのカンパニーから来たの?」ぼくは声をかけた。森に入る小径に車を停めていた彼女は、窓を開けて地図を見ていた。「つまり、コミューンはどこかってことだけど」
彼女は、車を運転しているのにまだぼくと同じくらいの歳に見えた。びっくりしたような丸い目と固く結んだ口元がシュナウザー犬を思わせる。
「うーん、けっこう遠くかな」
「遠くって?」
「西の方」
彼女がはぐらかすのをもどかしく思った。同じコミューン内でペアになる人もたまにいるけど、たいていは別のコミューンの人とだ。あの頃はぼくもコミューン外の女の子というだけで浮ついた気持ちになっていた。
彼女はウルズラと名乗り、仕事を探しに来たと言った。
――仕事を探しに?
当時のぼくには聞き慣れない言葉だった。僕の動悸は、そのままの速度で少し冷たい手触りにニュアンスを変えた。産業スパイという言葉が頭を掠めた。
森からは腐葉の香りが漂う。山のワイン畑の方からはポツポツポツと絶え間なく、落ちた葡萄の粒がブリキ板を叩く音がしていた。
ぼくたちのコミューンで開発された葡萄は、果柄の細胞が決まった時期に自死するようプログラムされていて自動収穫が可能だ。その操作された遺伝情報は知的財産として国の法律で厳格に保護されている。
産業スパイの話は、学校で聞いていた。コミューンの成員になったように見せかけて、別のカンパニーに情報を送る人。そんなことをして何の得になるのだろう。自分の生活水準は住んでいるコミューンで決まるのに。それとも配給とは別にお金を得てこっそり都市で贅沢しているのだろうか。
「あなた、どこか行くところ?」
「えっ、ああ、帰り道だよ。義務保育労働の」
考え事を中断されて慌てて答えた。
「子どもが一人で?」
君だってぼくと変わらないじゃないか、と不満に思ったが、車から出て地図をたたむウルズラは少し大人びて見えた。
「こんな町外れに住んでるんだね」
「今はね。住宅街にある家より静かで落ち着くんだ」
「なんか、わかる気がする」
ぼくは自転車を押し彼女も歩き、二人は森へと進んだ。彼女の歩き方は、少し緊張しているようにも見えるし、おどけて行儀よく行進して見せているようでもあった。それが普段通りの彼女だと知ったのはもう少しあとになってからだった。
「車は置いて行っていいの?」
「自動運転で私のいるところに呼べるから」
彼女はキーホルダーの先の端末を揺らして見せた。
森の小径はひどく蛇行して、木々に覆われた池を何度も右へ左へ迂回している。川の支流の周りには敷設される前に川だったS字の池がいくつもあるためだ。オークの木の隙間に家が見えたがもうひとつ川を迂回しないといけない。遠くにはイルミンカエデの大樹も見えた。
家にはアンおばさんだけがいた。彼女はホームの共有居間で資料を広げて設計作業をしていた。
「あら、お客さん」
ウルズラは初めましてと挨拶し、「あなたのお母さん?」とぼくに小声で尋ねた。
「え、ちがうけど」
"お母さん"だなんて乳児にいう言葉じゃないのか。ぼくは怪訝に思った。本当に彼女はどこから来たのだろう。
「じゃあどういう関係?あなたの母親は?」
「さあ、ここに移ってからほとんど会ってないからな。評議会で忙しくしてるんじゃないかな」
ぼくの産みの親は、保育舎の子どもたちの人気者だった。子どもの世話が得意な人だから当然だろう。子どもや高齢者の世話が得意なことは、評議会で政治力を得る上で大事な資質だ。
でもぼくはどちらかと言えばアンのような、子どもが苦手で、そしてそれゆえに大人扱いしてくれる育児員に懐いた。アンが童謡を唄ったり、裏声で人形を動かしたりするなんて想像するだけで滑稽だ。
「そう。そうだったね、あなたたちのところは」
「まあ寛いでよ。うちのホームはみんな好き勝手してるからね」
ウルズラの言葉に少し引っかかるものを感じながらも、ぼくはソファを勧めてお茶を淹れに行こうとした。
「あなた、どこのコミューンにも属していない人でしょう」
急にアンがウルズラにそう言った。きっぱりとした、しかし責めているふうでもない口調だった。ウルズラは、こくりと頷いた。
「それって、どういう…。都市市民ってこと?」
ぼくは要領を得ず、そう尋ねた。
「都市にもコミューンの機能はあるでしょう。そうじゃなくて、なんて言ったらいいかな、産みの親と子どもと、ときには孫の集まりだけでひとつの労働と財政の単位を形成している人々だよ。親しい血縁集団がコミューンでありカンパニーなんだ」
当時のぼくには理解し難かった。
「それで生活できるの?」
「そういう人間はけっこういるんだ。表向きには隠されているけどね」
「私が子どもの頃、父と母は仕事で家にいないことが多かった」
ウルズラはティーカップを抱くように手で包み、話し始めた。彼女の親二人はコミューンでペアになったあと、コミューンを出て彼女を産んだ。二人はラボを渡り歩き情報関連の技術を開発しては近隣コミューンに売り込んだり、短期の仕事を受注したりして稼いでいた。
「いつも両親の帰りが遅くて、思い出というと暗い部屋で独りで食事をとっていたことばかり」
彼女の子ども時代は、物心ついた頃から保育舎の子どもと育児員の大人が周りにいたぼくには想像しにくかった。何だかウルズラが気の毒に思えてきた。アンは話を聞いているのかどうか傍目からはよく分からない様子で、作業ウィンドウを操作しながら横に開いたニュースフィードを移動させて眉をしかめている。
「少し散歩しようか」
表示ウィンドウをすべて消し、アンは言った。
イルミンカエデの大樹は森のさらに奥にあった。幹は集合住宅ほどもあり、近くに来ると天辺が見えないくらい高い。巨大な翼果が落下してくるため、金網の屋根が幹の10mほどの高さをぐるりと囲っている。アンはハーネスを腰と肩に巻き、金具でザイルに装着した。そして、君たちも、というように目で合図する。ぼくはどうしてこんなところに来たのか釈然としないまま、ウルズラに教えながらバックルを嵌めた。ウルズラは物珍しそうに大樹やザイルを見ていた。
アンが端末を操作して上を見た。木の上の滑車の向こうで機械がたっぷり雨水を貯めた缶を落としたはずだ。ウルズラが悲鳴を上げた。体重の軽いぼくもかなりの勢いで身体を引き上げられた。その衝撃で思わず息を飲んだまま一息つく間もなく金網の隙間を抜けて大樹の上の小屋まで昇っていった。
鉄柵を掴んでタラップを踏むと、遅れてアンも到着した。胸壁に囲まれたバルコニーからは、この辺りの森とその向こうの平野と丘が一望できた。小屋内には雑多な機器や古道具が置かれている。天井からは天秤をいくつも繋げたようなオブジェが吊るされている。鉱石と薔薇、立方体と珊瑚、飛行機と蜉蝣、指矩と薬壜、対になった品々がクルクルとその位置を反転させていた。
「警備委員会が君を捜しているらしい」小屋に入って一息つくとアンがウルズラに言った。「うちのコミューンは君を保護するつもりらしい」
ウルズラはハッとしたように顔を上げたあとうつむいた。
彼女がぼくたちのコミューンの一員になる、それはぼくにはとてもいいことに思えた。「じゃあ、評議会の人たちにも紹介して…」
「君はコミューンに属したくない。そうだろう?」
はしゃぎかけたぼくを遮ってアンが言うと、ウルズラはゆっくり頷いた。
「どうして」ぼくは納得がいかなかった。「このまま不安定な生活を続けたいの?カンパニー同士がやるような競争をキツネやシカみたいに小さい集団でやるの?」
「いろんな暮らし方があるんだよ」
「私たちがキツネなら、あなたたちはアリやハチでしょう。大丈夫、お金も貯めてるし」
彼女はサラッと言ってのける。アンが味方と分かったことで余裕を取り戻したようだった。
「父と母がコミューンを出たのは、何かを創り出してもそれはコミューンの共有財産になってしまうからだった。私も自分の名前と創造物を世界に残したい」
「なぜこの翼果がハングライダーに使えるか考えたことはある?」アンが立ててあったイルミンカエデの実を取り出した。
翼殻は丈夫で軽く、プロペラの羽のような形の羽が左右対称についている。そのまま落とせば回転しながら下に落ちるが、重心を斜め前にすることで紙ヒコーキのように地面と水平に進み、風に乗ればかなり遠くまで飛ぶ。
「イルミンカエデは昔、このコミューンの誰かが遺伝子操作で創ったんだよ」
その話は初耳だった。彼女はグライダーの軸を翼果に装着し、滑走レールに載せた。
「委員会の者が君を捜してそろそろうちにも来ているはずだ。これに乗れば捕まらずにエリアを出られる」
彼女はグライダーを操縦したことがない。
「ぼくが送るよ」
気づけばそう言っていた。
羽の下に入り、二本の軸に張った布にうつ伏せに寝てベルトを締めた。ウルズラが背中に乗ってきて、その髪が頬に当たった。
「これを」とアンが小さな袋をぼくのベルトに結びつけた。あとで開けると中身は金貨だった。彼女は気づいていたのだ。
アンは後ろの鉄棒にぶら下がってグライダーを目いっぱい両足で押した。体がストンと支えを失って、顔に風がぶつかってきた。ウルズラがぎゅっとぼくの肩を掴む。
グライダーが安定すると、地平線を見渡して不意にぼくは気がついた。今までにも何人もの人々がぼくと同じ決断、あるいはぼくと逆の決断をしてきたのだということに。何度も何度も。ユートピアを逃れて、ユートピアを目指して。頽廃と道義、不死と短命、伝統と新奇、すべてが宙を漂っていた。
あの瞬間に得た啓示のほとんどを今ではもう忘れている。今では、自分の決断を正当化するために考え出したいくつもの理由と重ねた選択でぼくの思想は固められている。
日光を反射して、甲虫のようなウルズラの車が地上でぼくたちを追いかけていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます