第32話 #31


 「桜命症はいつ私に命の終わりを告げるか分からない。その漠然とした恐怖が私を脅かす夜が何回もありました。仕事をしていて辛い思いをしたことも少なくありません。そんな時にカケルくんの顔を思い浮かべると、私の心の中には本当に桜が咲いたように穏やかな気持ちになりました。私が寂しい時や悲しい気持ちの時に一番に会いたいと思ったのはカケルくんになっていました。ハルカ、優子さん、ミク。ごめんね。みんなも大好きなのはもちろん本当です。でも、カケルくんの存在がどんどん大きくなっていったんだ」


式場内には僕と彼女が好きなロックバンドの「BLUE RINGS」のボーカルが、まるでふかふかの毛布のように柔らかくて繊細なバラードを響かせている。これを鼻歌で歌う彼女の声を何度も聴きすぎている僕は、彼女の鼻歌が奏でる旋律をこのバンドの人たちが歌詞をつけてカバーしているのではないかと錯覚するほどには感覚が麻痺している。そして僕の我慢の限界が真っ先に来たのは鼻だった。鼻をすすらないと僕の鼻の穴からは、我慢している涙がそこから流れ出そうになっている。多分今、彼女の顔を見たら僕は泣く。


 「カケルくんとは下らない話もいっぱいしたし、休みの日に家でダラダラしていたら朝から夜までベッドの上で過ごしている日もあったね。衝動的に2人ともモナカアイスが食べたくなって冬の夜中にスウェット姿で街を歩いてコンビニに行って3軒回って結局見つからなくて、体が冷えたからっておでんをおかずに家に帰って晩酌をした時は流石に笑えたよ」


懐かしい。あれは3年くらい前の雪が降っていた日の3時くらいの出来事だ。Newtubeで芸人さんの漫才動画を見ていた時のテーマが「モナカ」だった時に、なんとチハルさんもパリパリの板チョコが中に入っているモナカアイスが好きだったという話から実際にコンビニまで歩いた話だ。チハルさんの家から出た瞬間、雪国にワープしたのかと思えそうなほどしんしんと雪が降り積もっていたなか、冷たいアイスを求めてダウンコートをスウェットの上から羽織って歩き回った。三度目の正直は実らず、ただ体を冷やすだけ冷やして3軒目のコンビニに入った途端、僕の人生の中で一番美味そうに見えた大根のおでんが俺を選べと言いたげに金色のお風呂のような出汁につけられて僕らを待ち構えていた。そう思った矢先、彼女からおでんを食べようと言い出した瞬間に、やっぱり僕はいつかチハルさんと結婚したいと思った。家を出る前、チューハイを5缶くらいは飲んでいて僕の体の中にはしっかりアルコールが入っていたはずなのに、その日の記憶は今でもすぐに鮮明に思い出すことが出来る。


 「キミには感謝をすることは山ほどあるし、謝らなきゃいけないこともたくさんある。でもね、私もこれだけは言わせて。私に幸せをくれてありがとう。私を選んでくれて本当にありがとう。私はキミが思っている何倍も何十倍も何百倍も幸せを味わっています」


彼女の声を後押しするようにみんなの拍手が式場に響く。ダイキは器用に指笛を鳴らし、この場を盛り上げている。チナツちゃんを喜ばせるために練習していると言っていたその指笛が、想像以上に綺麗な音が出ていて正直驚いた。そういうことに気を紛らわせないと、彼女の声を聞くと僕の涙腺は決壊してしまう。僕は動揺している顔を隠すように彼女の方を見て深く頭を下げた。だが、しばらくして頭を上げるタイミングを見失い、僕は拍手が鳴り止んでからもずっと頭を下げていた。


 「カケルくん、いつまで頭を下げてるの? その体勢続けてたら腰、痛めちゃうよ」


彼女の笑い声につられるようにみんなの笑い声も聞こえてきた。僕はゆっくりと顔を上げると、すぐに彼女と目が合った。彼女の目から、すでに大量の涙が溢れていて僕は慌ててタキシードの胸ポケットから柔らかい絹のハンカチを取り出そうとした。彼女は僕のそれを止めるように右手の手のひらを僕に向けて首を横に振った。


 「あと、カケルくん。1つ言い忘れてた」


しししと右の鼻の穴から鼻水がたれるチハルさんが笑いながら言った。仕草がいつも上品で、ピンク色の髪と美術作品のように整った容姿が相まって天使や妖精のように幻想的で神々しい彼女の、いかにも人間らしい部分がこの瞬間初めて見えた気がした。僕はじっと彼女の顔を見つめた。


 「キミの言葉を借りるようだけど、カケルくんは私にはもったいないくらい素敵な人です。今までも、今日も、これからも、ずっと一緒にいてください」


ゆっくりと頭を下げる純白のドレスを着たチハルさん。ふわりと香る、嗅ぎ慣れた薔薇のような花の甘い匂い。僕とチハルさんが初めて出会った頃を思い出させるようにその匂いが僕の体を包み込むように体の中へ運ばれていく。僕は鳴り止むことのない拍手の中、目の前にいる僕にはもったいないくらい素敵な人を抱きしめてキスをした。予定よりも早くキスをしたものだから、式場の隅にいた外国人神父さんが驚きを隠すように丸い縁のメガネの位置を整えていた。それから僕は人生で一番祝福されているその瞬間を、チハルさんと一緒に存分に味わった。僕の両目からは大粒の涙が零れ落ち、私より泣いてるじゃんと、僕が渡したハンカチで彼女が僕の右目から流れる涙を拭ってくれた。そしてお互い、口を大きく開けて笑い合った。

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