第25話 #24


 夜の風。太陽は沈んでも、まだまだ体に纏わりつくネチネチとした暑さがじわりと顔に汗を滲ませる。部屋に戻ったら、またあのお風呂に入ろう。多分チハルさんも同じことを思っているだろう。


 「良い音だね」

 「え?」

 「波の音。心が落ち着く」

 「あ、あぁ、確かにね」

 「ホントに思ってる?」

 「思ってるよ。ちょっと蒸し暑いけどね」

 「それ、私も思った」

 「本当に思ってる?」

 「思ってるよ」

 「おれもチハルさんがそう考えてるだろうなって思ってた」

 「それは絶対嘘だね」

 「いや本当だから」


僕らはじゃれ合うように夜の道を歩く。彼女の言った通り、近くから聞こえる穏やかな波の音は、僕の心を落ち着かせてくれるようだった。いつか家族で来ていたこの海沿いの道を、歳を重ねて自分の大切な人と一緒に歩けるとは考えもしなかった。


 「おれさ、ずっと思ってたことがあるんだけど」

 「何? もしかしてすごいこと言おうとしてる?」

 「ううん。チハルさんってさ、夜が似合うよね」

 「え? どういうこと?」

 「何かさ、上手くは言えないんだけど。夜に見るチハルさんは昼に見るチハルさんよりも神秘的に見えるんだ」

 「神秘的って久々に聞いたよ。天使か何かに見えてるの?」

 「そうだね、わりと冗談抜きでそう見えるかもしれない。特にピンク色の髪の毛が少し光って見えたりする時もあるんだよ」

 「何それ。私、完全に人間じゃないじゃん」


チハルさんはぷっと吹き出して両手を叩いた。笑われるようなことを言ったのは自覚しているけれど、彼女は本当に夜の景色に映える。薄暗い闇の世界に差し込む淡くて優しい髪の色。月のように静かに煌めく彼女の大きな瞳。彼女の全てが神秘的で幻想的な妖精のように見える。ただ、そういう存在に見えるものだから、ふと突然僕の前から消えてしまいそうな怖さを感じることが時々ある。それは怖くてとても彼女には言えない。


 「すごい! 何この景色!」

 「うわ、すごい眺めだね」


しばらく海岸に沿って道を歩いた後にたどり着いた堤防をゆっくりと登った先に見えた景色。それはまるで、僕らの眼前に小さな宇宙が広がっているように海が輝いて広がっていた。海面は満月に照らされ、それに水が反射してあちこちに星が散りばめられているようだった。そのなかに星の道みたいに青白く光っている何かも見えた。昔、ここから同じようにこの海を見た記憶はあるけれど、ここまで綺麗な景色を見たのは今この瞬間が初めてだった。


 「何でこんなに光ってるんだろ」

 「満月だからじゃない? 月とか星の光が反射してたりして光ってるんじゃないかな。あの星の道みたいになってる細長いのは何か分からないけど」

 「プランクトンが何かの影響で光ったりするっていうのは昔、学校の先生から聞いたことあったな」

 「さすがチハルさんだね。何でも知ってる」

 「いや、自信は無いよ。けど、何にしてもめちゃくちゃ綺麗だね」


僕らはそれから時間を忘れてその宇宙みたいな海を見つめ、優しい波の音に耳を澄ませていた。僕らと同じようにこの海を見に来ていた人たちは入れ替わり来たり帰ったりしていたけれど、僕らはずっとこの眺めを堪能していた。


 「何かさ、夢の中にいるみたいだね」

 「本当だね。チハルさんが一段と妖精に見える」

 「あはは、海の妖精って何だか強そうだね。大っきいフォークみたいな武器持ってそう」

 「確かに。地上を侵略したらダメだよ」

 「うん、今のところその予定は無いかな」


僕らの笑い声と波の音が混ざり合って目の前の海に溶けていく。海の潮独特のからっとした匂いと一緒に彼女の髪から届いているいつもの優しい薔薇の香りが僕の鼻をくすぐる。


 「チハルさん、最近の心境はどう?」


唐突に僕はチハルさんに聞いた。彼女をちらっと横目で見ると、少しも焦ることなくうーんと言って海の方を見つめている。


 「悩み事は着実に増えているよ」

 「そっか……」


彼女とは友達以上の距離感であることは間違いないと僕は勝手に思っている。ただ、彼女は自分の悩みなんかを僕に伝えたことはこれまでに一度もない。そして今も悩み事はあるのに僕に伝えることはしない。それを追及しても言ってくれる気もしないから僕はそこまで踏み込まないようにしている。けれど、今日はこの場でどうしてももう一度、伝えようとしていたことがあった。


 「チハルさん、やっぱりおれとは恋人になれない?」

 「……」


彼女がさっきよりも顔を俯かせて黙っている。何も言わない彼女だけれど、彼女の顔をじっと見つめると何かを迷っているような、そんな表情を浮かべているように見えた。


 「カケルくんさ」

 「……うん」


永遠にも思えた沈黙を彼女が終えて僕の目を見た。海の光が反射しているからか、彼女の目が今まで見てきたなかで一番光っているように見えた。それこそ涙を流す寸前のように潤っている。


 「宝くじの1等が当たる確率ってどれぐらいか知ってる?」

 「宝物? え? うーん、分からない。どうして急に?」


焦る僕を見てチハルさんはふふっと口角を上げて笑った。


 「種類にもよるけど、大体1000万分の1なんだって。すごい確率だと思わない?」

 「そ、そうだね。想像もつかないけどなかなか当たるもんじゃないよね」

 「でも私はね、それよりもすごい確率の病気に選ばれたんだ」

 「え?」


病気。彼女が言ったその言葉を聞いた瞬間、僕は耳が無くなったのかと思うほど何も聞こえなくなった。頭の中も真っ白になった。僕の生きている時間が急に止まったように何も考えられなくなった。


 「桜命症」


彼女の声が耳に届いた瞬間、体から離れた意識を引き戻してくれたように僕は我に返った。


 「お、おうめいしょう?」

 「うん。私ね、10億人に1人の確率で発症する病気なんだ。すごい確率でしょ? もちろん日本では私1人だけなんだって」

 「じゅ、10億人に1人? おうめいしょう? そんな病気、聞いたことないよ……」


僕の頭の中は、10億人に1人だとか、おうめいしょうだとか、そんなものを理解する余裕なんてあるはずが無かった。動揺を隠しきれないまま、額から嫌な汗がじわりと滲んだ。


 「うん、私もそれを担当の先生に伝えられるまで知らなかった。桜命症はね、まだ医学的にも解明はされていない謎の病気らしくって、治療法も全然分からないんだって」

 「……うん」

 「特徴は主に3つ。1つ目は、髪の色が生まれてきた瞬間からずっとピンク色だということ。2つ目は、その髪から花の蜜みたいな甘い匂いがすること。私、結構特徴的なにおいしてたでしょ? あれ、香水つけてたりとかしてなかったんだ」

 「た、確かに薔薇みたいな匂いはいつもしてるなって思ってた……」

 「あはは。薔薇じゃないよ。カケルくん、花には疎いんだね」


無理して笑っているように見えるチハルさんの笑顔が、まるで鋭い針の先で僕の胸が突かれたようにチクリとした痛みが走った。


 「そして3つ目はね、寿命が極端に短いということ」


気がつくと僕は無意識に目から涙が零れ落ちていた。極端に寿命が短い。その続きを聞く恐怖よりも、僕は目の前にいる彼女の全てを知りたいという気持ちが勝った。


 「き、極端っていうのは?」

 「人間ってね、本来心臓が動く回数が決まってるんだって。私たち桜命症の人たちはね、その回数が3分の1くらいしかないんだってさ」

 「さ、3分の1?」

 「うん。仮にカケルくんが90歳まで生きて心臓を動かしたとする。でも私は30歳くらいまでしか心臓を動かすことが出来ないんだって。症例が少なくて、あくまで目安らしいんだけど、桜命症だった人が一番長く心臓が動いていた人でも33歳の時に心臓の活動が止まったんだって。だから私はね、もういつ心臓が止まってもおかしくない状況なの。私、もう31歳だしね」

 「そ、それは何とか心臓を動かす回数を増やすことは出来ないの……!?」


僕の顔を見たチハルさんは、これまでに見たどんな時よりも口を大きく開けて笑っていた。


 「カケルくん、泣きすぎだよ」

 「だって、信じられないよ。急にそんな話……」

 「だからね、私はずっと君と一定の距離を保ってた。ずっと前にさ、好きだった人がいたって話してたでしょ?あの話、全部嘘なんだ。ごめんね。何とかキミが諦めるように仕向けてたんだ」


確かに聞いていた。それもかなり鮮明に。その話が嘘だったのかなんて今はどうでもいい。それよりも深刻な現実の話が僕の目の前に、彼女の目の前に立ちはだかっている。


 「あの時カケルくんがさ、私に告白してくれた時ね、涙が出るほど嬉しかった。私もずっとカケルくんが好きだったし、キミとなら付き合いたいとも何度も思ってた。でもね、やっぱり自分の命の限界が分かっていると、どうしても前に進めなかったし近づけなかった。もし私が死んだらキミにも悲しい思いをさせるしね」

 「……」


告白を断られたあの日からの彼女との日々を思い返していく。一緒の部屋で美味しい料理を食べたりお酒を飲んだり、唇や体を重ねたり、時にはお風呂も一緒に入ったりした。恋人同然の生活を繰り返しながらも、やはり僕らの距離には、1枚とても厚い壁が聳え立っていたんだ。同棲をしようということにもならなければ、毎日会おうということを彼女は言い出さなかった。そこには、今彼女が言った僕への配慮や、いつか自分の命が終わることへの恐怖心があったのだろう。


 「お、おれは、それでもチハルさんと一緒にいたい」

 「……」


体育座りをしている彼女が膝と膝の間から小さな顔をひょっこりと出して、じっと僕を見つめている。僕はそんな彼女を無性に抱きしめたくなって、座っている彼女を体全体で包み込んだ。蒸し暑い気温なのに、彼女の体は冷凍庫から取り出したアイスクリームのように冷たくなっていた。


 「え? チ、チハルさん? 寒い?」

 「ううん、涼しい。今カケルくんが抱きしめてくれてちょうど良いくらいに温かったかも」

 「そ、それなら良かったけど。もう一回抱きしめていい?」

 「ダメ」

 「う、うぅ……」

 「ふふ。ウソだよ。抱きしめて。すごく幸せな気持ちになった」


再び彼女を抱きしめると、体に命が宿ったようにほんのりとした暖かみが僕の体に伝わってきた。


 「私、悲しい気持ちになると体がすごく冷たくなるの。知らなかったでしょ」

 「う、うん。初めて知った。それもその桜命症の症状なの?」

 「どうだろうね。先生は言ってなかったと思うけど」


彼女を抱きしめたまま会話を続けていると、彼女の生気が少しずつ強くなっていくように体の温度が上がっているようだった。


 「チハルさん、今さっきも言ったけど、おれはやっぱりチハルさんと一緒にいたい。もし心臓の活動が止まる瞬間が訪れても、おれが隣で見届けたい。チハルさん、やっぱりおれはずっとあなたが好きなんです。おれと結婚してくれませんか?」


僕は彼女の全てを知った。そう思った。だから、あらゆる段階を飛び越えて僕の方も彼女に全てを伝えるつもりで彼女にそう言った。

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