第11話 #10
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「見て! カケルくん。こんなに大っきいハンバーガー久々に見た!」
夜空に光る星空みたいに目を光らせて手元にあるハンバーガーを見つめるチハルさんの脳内にはおそらくトーストの存在は無いだろうと考えられるくらいには頭は冷静になっていた。
「チハルさん、さっきトーストが美味しいって言ってませんでした?」
「美味しいよ。けどね、このメニューに書いてあるハンバーガーが私に食べてほしそうに私の目に入ってきたんだ。これは断れないよ」
「な、なるほど……」
「ちなみに朝食べるハンバーガーは今日が生まれて初めてかも」
しししと笑いながらチハルさんは両手でハンバーガーを掴んだ。小柄なチハルさんが掴んでいるのもあるのだろうけれど、確かに大きさは相当のものだ。チハルさんの顔より大きい気がして彼女の顔とハンバーガーを見比べてみたりした。
「うん? どうしたの? カケルくん」
「い、いや。本当に大きいハンバーガーだなぁって思って」
「すごいよね。私の顔より大っきくない?」
チハルさんはそう言うと、両手に掴んだそれを顔の横に添えた。本当にチハルさんの顔より大きいのにも驚いたし、何よりも僕と同じことを考えていたことに驚きを通り越して嬉しく思えた。
「はい。おれもちょうどそう思ってました」
「ホントに? なんか調子良いこと言っちゃってさ」
「ホ、ホントですって」
「ふふ。まぁいいや。いただきまーす」
小さな一口をそれにつけたチハルさんの顔は、うっとりと表現するのが正しいのかは分からないけれどとても満たされた表情でそれを見つめていた。
「やばい。ホントに美味しい。これ」
「うん。めっちゃ美味しそうです」
「カケルくんも半分食べてみて!」
チハルさんの歯形がついた反対側の方を指差して彼女はまた笑った。
「いや、おれは朝食べなくて」
「うん? ホントにコーヒーだけで済ませるの?」
「そうですね、基本おれ、夜しか食べないんで」
「えぇ? よくそれで倒れないね」
「燃費がいいように出来てるんですよ」
「ふーん。じゃあ私が食べきれなくなったら食べてくれる?」
「う、うーん」
チハルさんの小柄で細い体型では、この大きさのハンバーガーを食べきるのは確かに難しそうだ。チハルさんは、まるで仔犬が飼い主を見つめているようなあざとい表情で僕を見つめている。
「まぁ、それなら食べますけど」
「やった! なら、心置きなく堪能させていただきます」
「は、はい。どうぞ」
チハルさんはハンバーガーを口に運ぶたびに美味さを顔で表現している。『すなっく緋色』では見ることのなかった表情で、これまでにも見ることのなかった幸せそうな顔でそれを食べていく。僕はその顔に文字通り釘付けになっていた。その顔を見つめていると、チハルさんが自分の口元を気にしながら僕の方を見た。
「ん? 今、口元忙しいから閲覧禁止だよ?」
「い、いや、そこは見てませんから」
「え? じゃあどこ見てるの?」
「ど、どこも見てません!」
「ふふふ。そこは否定しなくていいのに」
僕を玩具にして楽しんでいるようにチハルさんは口元を手で隠しながら笑った。
「そ、そういえば……」
「うん? 何?」
「チハルさんは今、その、すっぴんですか?」
ポカンとした顔になったチハルさんは何も言うことなく、表情も無くなり口元だけが咀嚼するためだけに動いている。目以外の身体機能が止まってしまったように見えた。僕は禁句を言ってしまったと、本気で焦った。
「い、いや! 顔とかを見てたらすっごい肌とか綺麗だなって思って」
「ふふ。肌、見てんじゃん」
チハルさんはそう言って再び柔らかい表情で笑った。やっぱり僕で遊んでいるようだった。けれど、その笑顔を見ることができて正直、心底安心した。
「ご、ごめんなさい。直接言う勇気が無くて」
「すっぴんかどうかを女に聞く方が相当勇気いると思うけどね」
「ほ、ほんとにごめんなさい」
「そんなに謝らなくていいよ。何も気にしてないからさ。うん、キミの察しの通り、今はすっぴんだよ。3時ぐらいまでは化粧してたんだけどね」
「あ、チハルさんも仕事だったんですね。お疲れ様でした」
「ふふ、ありがとうございます」
「ごめんなさい。チハルさんも仕事終わりなのに運転してもらって」
「ううん。全然いいよ。私、結構運転するの好きだからさ。でも、肌が綺麗って言われるのは嬉しいな。色々気にする歳になってきたからさ」
「チハルさんはほんとに30歳に見えないです」
「カケルくん?」
僕を呼んだチハルさんの眉間には明らかに眉間の皺が寄っていた。そして彼女の背後には激しく燃える炎のようなものが見えた気がした。
「は、はい?」
「私、まだ29なんだよね。来年で……」
「あ、ごめんなさい!」
チハルさんの目が鋭くなって、恐ろしいほど僕を見つめる。まるで、川の上から獲物を狙う鳥のような目つきだ。今さっきの柔らかい表情はどこへ行ったのか分からなくなって僕は視界があちこちに飛び回った。
「あはは。カケルくん、焦りすぎ。気にしてないって」
「いや、おれ、さっきから絶対失礼なこと言ってる」
「ううん。私も何だかんだ楽しんでるから。それなら問題ないでしょ?」
「そ、それならまぁ。そうっすね」
「ふふ。分かればよし」
チハルさんの目の前にあるハンバーガーはまだ半分以上残っていて、彼女は結局その状態で僕に差し出してきた。小さな歯形がうっすらと残るそれに少し緊張しながらも僕は受け取り齧り付く。確かに美味い。仕事後で腹が減っているのもあるのかもしれないけれど、フライドチキンのちょうどいい揚げ具合と香ばしいバーベキューソースが僕の食欲を刺激する。
「ごめんね。結局ほとんど食べてもらうことになって」
「いえ。何か想像以上に美味いんで多分すぐ食べ終わっちゃいます」
「良かった。キミぐらい大きな人がそのハンバーガーを持つとサイズ感が丁度よく見えるね」
「た、確かにちょうどいいかもしれません。そういえば、チハルさんは身長どのくらいなんですか?」
「私は155センチ。小学6年生の時はクラスでいちばん大きかったのに、私はそれから身長は伸びなくって。かれこれ15年以上155センチです」
「あ、身長、母親と同じです」
「へぇ! そうなんだ。何だか親近感湧いちゃう」
チハルさんは手元にある透明なグラスを撫でながら笑顔になる。これから母さんを見るとチハルさんを連想してしまいそうになりそうで焦る。
「カケルくんは181だったよね」
「あ、はい。よく覚えてますね」
「私ね、記憶力には自信あるんだ。キミが私たちの店で話していたことも割と正確に覚えてるよ」
「マ、マジっすか……。酒に酔って変なこと言ってませんでした?」
「変なことって?」
チハルさんはじろりと目線を上に上げながら僕を見つめる。急に詰め寄られたような気がして、そして、彼女の顔が僕に少しずつ近づいてくる。近づいてくるにつれて僕の心臓は徐々に鼓動が早くなっていく。
「い、いや、失礼なこととか言ってなかったかなって」
僕の言葉を聞いたチハルさんは、さっき見せていた優しい笑顔に戻って僕に微笑んだ。
「大丈夫。キミは誠実だったよ。ずっとね」
「そ、それなら良かったです。てか、キ、キミは?」
「うん。ダイキくんはちょっとハメ外してたかなーとは思うけど」
「え? そうだったんですか?」
「まぁ多分、ハルカに気に入られたくてそういう振る舞いをしてたのかなって私は思ってたけど」
「へ、へぇー。そうだったんですね」
「ねぇ、あの後、キミたちは私たちの話、した?」
「え? スナック楽しかったーみたいな話ってことですか?」
「そうそう」
僕は自分の記憶がある限り、あの日を辿る。1ヶ月ほど前の記憶だけれど、思い出すのにあまり時間はかからなかった。そして、ダイキと話した内容を思い出すと一気にまた心臓が強く脈打つ。
「は、話しましたよ! また絶対行こうなとか! 週1では行きたくなったなーとか」
「うんうん! 他は?」
彼女の目がまたキラキラ輝きだした。もちろん、チハルさんやハルカさんの話題も出ていたけれど、それを本人に話すのは恥ずかしすぎて出来そうにない。
「そ、そうですね! おれの顔色が前よりも良くなったって言ってくれたりしました。本当にあの場所を楽しんでたんだなってダイキが言ってました。確かにおれもあの日はすごく楽しかったので。帰ってから寝る前も4人で撮った写真を見てしばらく余韻に浸ってました」
僕は必死にそれを誤魔化した。けれど、チハルさんはそんな僕の心の中を見透かしているような顔で僕を見つめている。心臓の音が僕の耳元で鳴っているのかと思うぐらい強い音が聞こえる。すると、チハルさんはふふ、と優しく笑って手元のグラスを掴んでゆっくりと水を飲んだ。
「私もね、あの日の寝る前、みんなで撮った写真を見返してた。キミと同じだね」
同じだね。その言葉を理解しようとすると、どんどん心臓の音が大きくなる。耳も熱くなってきた。心臓発作なんか起こらないか本気で心配になってきた。僕もハンバーガーを口に入れ、そのままそれを流し込むように水を口に入れ必死に落ち着こうとする。
「カケルくん」
「は、はい!」
「ありがとう」
「……え?」
何の礼を言われたのか分からなかった。その声は、風鈴が鳴ったように透き通った声だったものの、どこか儚さや切なさを含んだような声にも聞こえた気がした。彼女の声色は、とても綺麗でありながら、どこかへ飛んでいってしまいそうな危うさもあるように思えた。
「何がですか?」
「ふふ。ハンバーガー」
「え?」
チハルさんは僕の手元の方へ指差すと、皿の上にはあとひと口で完食できるサイズになったハンバーガーがあった。
「食べてくれてありがとう」
僕の心境など知る由もないチハルさんの笑顔を見ると、心がすっと落ち着いてくのが自分で分かった。
「い、いえ。むしろ、ごちそうさまでした」
「ほとんど食べてもらったもんね。私が注文したのにごめんね」
「いやいや。仕事終わりに美味しいもの食べられたので」
「それなら良かった。じゃあそろそろ帰ろっか? カケルくんも寝ないといけないしね」
「は、はい」
透明の筒に丸めて入れられていた伝票を持ってチハルさんが椅子の音を鳴らさずにゆっくりと立ち上がった。
「あ、チハルさん!」
「うん? 何?」
「こ、ここはおれが払いますっ! 食べたの、ほとんどおれなんで」
僕がそう言うと、チハルさんは首を横に振って笑った。
「ううん。誘ったのは私だし。ここは私が奢るよ。年上だしね」
にししと笑う彼女の顔を見ていると、僕は心の中が何か自分でも分からないもので溢れ出しそうになった。
「じ、じゃあ! 今度はおれが奢りますっ!」
自分でも何故今そう言ったのかは分からない。ただ、次に会う約束がしたくなったことは間違いない。僕はチハルさんにそれを伝えられた自分を心の中で褒めた。
「ありがとう。じゃあ次は私がキミのハンバーガーを食べるね」
「えぇ? 食べきれますか?」
「ふふふ。冗談だよ。楽しみにしてるね」
「は、はい。おれも楽しみにしてます」
結局今回はチハルさんに奢ってもらい、車も運転してもらって僕はさっきの公園まで戻ってきた。
「カケルくん、改めて仕事お疲れ様。また店にも来てね」
「は、はい。ありがとうございます。ご馳走様でした」
「またね」
チハルさんの走り去る車が見えなくなるまで僕はそれを見つめ続けた。
これまで生活のほとんどの時間を1人で過ごしていた僕。職場ではゴミのような扱いを受ける毎日。終わりの見えない暗いトンネルを歩き続けるような日々。あまりにも長すぎるこれからの人生を考えて絶望していた僕。時にはこの世界からいなくなることも考えていたりもしていた僕。そんな僕の生活の中に異質な存在が突然現れた。それが彼女だ。人を好きになったことはあるわけがない。ましてや女の子の友達ができたことすらない。むしろ友達と呼べるのはダイキしかいない気がする。そんな僕が今、彼女に抱いている感情がどういうものなのか自分でも分からない。ただ、ダイキと会っている時や、チハルさんと一緒にいた今さっきの時間は、まるで僕が知らない世界を目の当たりにしているように心が躍った。絶望感しかなかった僕の人生が少しずつ変わる兆しが見えてきたのかもしれない。穏やかな朝の時間、子どもたちの笑う声や鳥たちの囀りが聞こえるなか、僕は心の中でそんなことばかり考えていた。
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