第十六話 白銀の酷薄 ①
パンの焼ける匂いとコーヒーの匂いが混ざった香りが室内を満たしていた。
掛け布団を押し除けて上体を起こすと、椎本は微笑んだ。
「起きた?朝食出来てるよ」
「ありがとう。顔洗ってくるね」
ユニットバスの洗面台で冷たい水を顔につけると、だんだんと思考がクリアになっていく。
そうだった、昨日は椎元の部屋に泊まって——。
フラッシュバックの様に、昨晩の痴態が蘇る。
やってしまった。
理性というものが吹き飛んでいて、獣の様な本性を剥き出しにしていた自分がいることを、知った。
彼女への想いが募り募って現れた、苛立ちを、半ば八つ当たりの様に椎本にぶつけてしまった。
椎本を守るだなんて言いながら、二度と治らない傷を負わせてしまったのではないだろうか。
鏡の中の私を見る。
誰かを傷つけたのかもしれないというのに、あんなにも凶暴な本性を愛する人間に見せつけたというのに、嫌になるくらい、頬が緩んでいる。
椎本に夢中になり過ぎているという自覚はあった。だとしても、彼女の前では誠実な人間であろうと決めてもいた。
それなのに、昨日の自分は少しおかしかった。
軽蔑しただろうか。恐怖しただろうか。
昨晩の行為が、彼女の中にどんな感情を芽生えさせたのか。それが怖くて、洗面所から出る勇気が出ない。
「どうしたの?」
なかなか出てこない私を心配したのか、椎本が覗き込んで来る。
私は返事すら出来ずに、振り向くだけだった。
「……後悔してるの?」
私の表情を見るなり、脈絡無く唐突にそんな言葉を投げかけた。
一瞬、私を責めているのかと思ったが、その声色は優しいものだった。
「する訳、ないじゃん」
経緯はどうあれ、相手の気持ちがどうであれ、愛する人を愛せたのだから。
そこに後悔なんてもの混ぜ込む程、私の頭は複雑ではない。むしろ、後悔すら出来ないほどに単純な私の思考が嫌になるくらいだった。
今すぐ抱きしめたいほどに嬉しいし、思わず叫びたい程に幸福すぎる。
なんて自分勝手な女だろうと思う。
「私も、別に後悔なんてしてないからね」
救いのような一言を椎本は告げる。
そして、もうこの話は終わりだと言わんばかりに、その後は私に食卓につくことを急かした。
椎本は、普通じゃないほどに普段通りだった。果たして昨日の出来事は夢だったのだろうか。そんな筈は無いのに、それを疑ってしまう程に、彼女は昨晩の事を態度に出さなかった。
それ故に、私は椎本の心の中を測りかねていた。
「あ、このキャスターさん髪型変えたんだね」
二人して朝のニュース番組を見ながら朝食を摂っているが、椎本はそんななんて事ない話題を半ば独り言の様に呟く。
「あ、そうだ。私昼からバイトだけど、江月はどうする?」
じゃあその時間に一緒に帰るよ、と伝えようとしたところで、突然の甲高い音に言葉を止められる。
多分インターフォンの音なんだろうけど、思わず竦むくらいに、妙な高音だった。
「誰だろ?変な勧誘とかじゃないといいけど……」
言いながら椎本は玄関へ向かう。
まぁ、後で伝えればいいか、と。
朝食の続きを再開したところで、テンションの高い聞き覚えのある声が玄関の方から響いた。
「江月先輩も来てたんすか。もしかしてお泊まりっすか?私も呼んでくださいよぅ」
ナンテンが当たり前の様に椎本の家を訪う事実に多少なりとも驚いた。
ナンテンは大して怒ってもいないくせに不機嫌さをアピールするためにブーブー文句を垂れている。
椎本はそれを苦笑しながら宥めて、パンをもう一枚焼き始める。
随分と仲良くなったものだ。
なんとなく気づいていたが椎本は押しに弱い。ナンテンが押し掛けてもきっと何だかんだ言いながら相手をしていたのだろう。
しかしナンテンは、あの性格だし、友人も慕ってる後輩も多い。だというのにいくら何でも、直接的な関係のない年上に対してここまで懐くものだろうか。
もしかして、とあり得ないと割り切れるはずの可能性が脳裏に浮かんで、私はそれを一笑して消す。
「ナンテン、いくら椎本が優しいからってあんまり迷惑かけるんじゃないよ?」
と釘を刺しておくと、ナンテンはむぅ、と唇を尖らせた。
「もしかして、椎本先輩、迷惑でした?」
台所の方から、そんなことないよ、と優しい声が飛んで来る。
妬みよりも嫉みに近い感覚だ。
そして、そういう感情が自分の中にあるという事を最早否定もせずに素直に認められる程に、多分私は椎本に対して独占欲が働き始めている。
ほんと、単純だなぁ。と自分に対して苦笑する。
何かへの執着心というものの強さを、私は初めて感じつつあった。
ナンテンはどうやら日曜日なのに予定が無いのは絶えられない性分らしい。
朝から椎本の家を訪ったのはその為で、午後からバイトがあることを知ると直ぐに標的を私に変えた。
「まぁ、ナンテンとも遊ぶのも久しぶりだしね。で、どうする?」
「カラオケとかどうっすか?」
私はナンテンの提案に難色を示す。
中学の時は部活という付き合いもあったし、嫌々行ってたけど、正直余り気乗りはしない。
何故そんなにカラオケが好きなのか、基本根暗な私には理解し難い場所だ。
ナンテンは流石に先輩に可愛がられる後輩ナンバーワンの座を長年維持しているだけあって、気乗りしていない事を悟るとすぐに撤回した。
「あ、でもこないだ私行ったばかりなんですよね。別の場所にしましょうか」
しかも、撤回する理由を自分の所為にするという高度なテクニック持ちだ。私は先程まで嫉妬していたことも忘れ思わず可愛がりたくなる衝動が走る。
天真爛漫な様で、実はかなり気遣いの出来るところが、人を惹きつけるポイントなのだろうか。
「じゃあさ、江月。ナンテンの勉強見てあげなよ。来年ウチの高校に入りたいんだってさ」
私達の会話をニコニコしながら聞いていた椎本が、そう提案する。
「んー、じゃあ、お願いしていいっすか?」
「分かったよ。午後になったら勉強道具持って図書館ね」
やれやれ、と私は嘆息する。
折角椎本と良い感じの朝を迎えたというのに、とんだ邪魔が入ったものだ。
とはいえ、そこで憎みきれないのがナンテンらしいが。
それに、少しだけ助かったのも事実だ。
勢いに飲まれて、椎本とそういう行為をしてしまったのはいいが、彼女が行為に対してどう感じているのか。
それを問うには、まだ少し私には時間が必要だったからだ。
昼前に私とナンテンは、互いの家に戻り準備をするために一度解散した。
タバコを吸う人の気持ちは分からないけど、人生で何となく初めて、吸ってみたいと思った。
昨晩、私と椎本が睦み合ったあの部屋の空気が、どこか私にとっては落ち着かないものだったからだ。
もっと肺腑に悪い物を吸えば、そんな気持ちもどこかへいってしまう様な、そんな気がしたからだ。
「江月」
椎本の部屋を出る直前、彼女は靴を履いている私の背後から、短く名前を呼んだ。
「なんか忘れ物でもした?」
振り向くと、椎本が少し照れた様に笑っている。
「今度は、私から誘うから」
それは、何でも無い言葉だ。
だけど、今の私と椎元の間には特別な意味が生まれる。
椎本は、昨日の全てを肯定してくれたのだ。
たったその一言だけで彼女の全てを許してしまいそうになる自分が、酷く愚かしくて、その一方で誰かに自慢したくなるほど、誇らしかった。
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