○思考停止とはこのことよ

 お菓子を焼く、甘い香りがする。


「聞いてる、お母さん?!」


 誰かの怒鳴り声が聞こえる。どこかで聞いた声だけれど、どこだったかしら? 上手く頭が回らない。


「ええ。聞いているわ。本当に、貴方あなたはすぐに怒るのだから」


 この声は、覚えているわ。私を眠らせて連れ去った翼族の女の子ルゥちゃんさんだ。


「当然でしょ?! いっつも、いっつも振り回されるワタシの身にもなって! 今回も死滅神様を誘拐ゆうかいなんてして……」

「誘拐ではなく招待よ? きちんとスキルで眠らせて、驚かせる準備も……そうだわ! まだ仕上げがのこってたの。スカーレットちゃんのお世話、任せたわね?」

「あ、逃げるな! そ、れ、を! 世間では誘拐って言うの!」


 近くで行なわれている親子のやり取りと、美味しそうなお菓子の匂いに少しずつ頭がえてくる。


「あぁ、もうっ。もし死滅神様が怒ったら……、いや、迷宮での言動を見ているとそれは無さそう? 言い伝えとは違って人情味のある良い子って感じだったし……」


 独り言を言っている女性の声には、やっぱり聞き覚えがある。誰だったかしら?


「いいえ、それよりもあの従者さんの方がおっかないわ。ショウマが私たちと同じくらいのステータス持ちじゃないかって言ってたけど」


 不意に出て来たショウマさんの名前で、ようやく私は声の主を思い出す。


「ぅん……? ハルハルさん……?」

「あっ。お、おはようございます、死滅神様……」


 私が身を起こした場所は、3人が並んで眠っても問題なさそうなくらいの大きさをしたベッドの上だった。服はいつの間にかつるつるした素材で、フリフリとした装飾が目立つ白い服に着替えさせられている。黒くて長い自慢の髪の毛も丁寧に編み込んで1つにまとめられていて、身体の前面に垂れるようにされていた。

 重い身体で1つ伸びをして、改めてベッドの正面で私を見るハルハルさんに目を向ける。どうやら帰って来たばかりらしくて、赤を基調に金色の刺繍をあしらった外套ローブととんがり帽子という姿だった。


「おはよう、ハルハルさん。今日は赤いローブなのね。それで、えぇっと……ここはどこかしら? それから、私はどうして着替えているの?」

「そうですよね。ワタシもまだ飲み込めてないんですけど、とりあえずは謝らせてください」


 そう言ってとんがり帽子を取ったハルハルさんが、赤みがかった背中まである長い髪を揺らして深々と頭を下げた。


「うちの母、ルゥルゥがとんだご無礼をしたようで、その、本当に申し訳ありません」


 ルゥちゃんさんの名前と無礼という言葉で、私はようやく気を失う前の状況を思い出す。


「そうよ。確かルゥちゃんさんに道案内してあげると車に乗せられて、眠らされて……ここに運ばれてきたのね?」

「そう聞くと完全に幼女誘拐の事案なんですが、その通りなのが残念です。しかも死滅神様が眠っている間に服を脱がせて着せ替えを楽しんでいたそうで……」


 着せ替え……ね。なるほど、ルゥちゃんさんが言っていたお人形さんっていのはそういう意味だったのね。この服を着せたのも、恐らく髪の仕上げを行なったのもルゥちゃんさんなのでしょう。


「そう。状況は分かったわ」

「すみません。ですが本人に悪気はないんです。ただ可愛いものを可愛くしたいだけと言いますか……」


 ベッドから這うように出た私に対して、ハルハルさんは必死で言葉を続ける。


「誘拐だけでなく、意識のない女の子の服を脱がせた時点でもう色々と違法なんですが、とりあえず娘のワタシとしては、衛兵に突き出すのだけはご勘弁頂けると――」

「良いわ。それより私の靴はどこかしら?」

「こちらに。屋敷の中ではこちらを履いてください」


 メイドさんのような“なんちゃって侍女”じゃない。本物の侍女さんらしき女性が私の足元に紐のない、ゆったりとした印象の靴を差し出してくる。毛足の長い絨毯を敷いたりしているところでは、館内用の靴があることも珍しくなかった。侍女さんに一言お礼を言って靴を履き、かかとの具合を確かめる。その間も、ハルハルさんは言葉を止めない。


「そうですよね。許せませんよね。ですがどうかご慈悲を。せめてそのお力を使うことだけは待ってもらえませんか?」

「……? 別に怒っていないけれど」

「そうですよね。ですがどうか、どうか怒りを抑えてもらえると……って。怒ってないんですか?!」


 毛足の長い柔らかい絨毯を踏む心地より感覚を味わいながら、私はハルハルさんに向き直って言ってあげる。


「誘拐はお食事に誘ってくれていただけなんでしょう? 少し強引だけれど、別に良いわ」


 思うところがないわけじゃない。だけど、さっきからしている甘くておいしそうな匂いの方に、私の意識は持っていかれてしまっている。私レベルのお菓子好きになると、匂いだけで分かるわ。今焼かれているのはお砂糖たっぷりの焼き菓子、クッキーでしょうね。こんな美味しそうな匂いの前では、私の怒りなんて些細なことだった。


「で、ですが。寝ている間に服を脱がしたことに関しては? あれはもう完全に、母の趣味でしかないのですが……」

「問題ないわ。寝ている間に色々されること、慣れているの」

「はぁ……。はぁ?!」

「ふふ。ハルハルさん、おかしな顔になっているわ?」


 変な声を出して驚いているハルハルさんの顔が可笑しくて、私も思わず笑ってしまう。日頃から、メイドさんやサクラさんは私が寝ている間に服の採寸や試着などをさせているらしい。最近は無いけれど、リアさんに至っては身体を直接触って来るんだもの。


「服を着せ変えられるくらい、どうってことない」


 それに私はホムンクルスだ。魔石を持った、生きている人形と言っても過言ではないのだから、着せ替え人形にされるくらいは種族としての役割だと思っておきましょう。

 まあ、今まで言ったことは半分は冗談ね。真面目な話、もし私に何か悪意を持って危害を加えようとしたのなら、間違いなく“死滅神の従者”であるメイドさんが飛んでくる。だけど、この場にメイドさんは居ない。その事実だけで、ルゥちゃんさんに悪意が無いと言うハルハルさんの言葉を信じられた。


「これが、死滅神様の度量……なの?」

「それより、よ。ハルハルさん。今は何時かしら。私、少しお腹が空いたのだけど?」


いきなり連れ去られたんだもの。これくらいの我がままは許されるわよね?


「そうですよね。もうすぐ宮殿の昼食が出る12時30分です。もう少しだけ、待っていてください」


 申し訳なさそうに苦笑したハルハルさんの言葉に頷いて、私は自分が目覚めた寝室を見回す。ベッドのそばにはケリア鉱石製の大きな窓があって、天頂付近にあるデアの光が存分に差し込んでいる。窓から見える庭はきれいに手入れされていて、見ているだけで安らぐような安心感みたいなものがあった。

 気を失う前にルゥちゃんさんが言っていたから、ここは恐らくルゥちゃんさんのお屋敷なのでしょう。


「って、そうよ。ルゥちゃんさんはどこに行ったの? 馬鹿と言われたことだけは、きちんと訂正してもらうわ」

「母は多分、厨房を借りに行ったんだと思います。昼食の前には帰って来ると思うので、その時に必ず謝罪させます。必ず」


 2回も誓ってくれたハルハルさんに免じて、私も怒りを鎮める。侍女さんが開け放った窓から風が入って来て、透かしの利いた垂布カーテンが揺れる。

 温かな日差しで照らされる室内は白を基調とした滑らかな壁と天井、赤い絨毯の床だ。壁にはずっと昔のフォルテンシアの言語で書かれたらしき紙片が入った額縁がくぶちだったり、刃のない武器だったりが飾られている。後は、ソファや座卓と言った調度品ね。どれも意匠が凝っていて、ある種の芸術品みたいだった。


「……ふぅ。さて、現実逃避はここまでね。ハルハルさん、あなたのお母様の名前はルゥルゥさんで合っている?」

「え、あ、はい。合っています」


 ローブを背もたれにかけてソファに座っていたハルハルさんだけれど、私の問いかけにすぐに立ち上がって答えてくれる。

 そう、私はこれまで、現実感がなさ過ぎて流していたことが色々ある。あの波打つ赤髪が印象的な私より小さい女の子が、年上なだけじゃなくてあろうことか母親でもあること。しかも翼族が成人するのは100年以上生きてから。つまり、ルゥちゃんさんは100歳を優に超えているということになる。にわかには信じられないけれど現実を、きちんと、受け止めないと――。


「うん、無理ね」


 信じたくない事実を前にして、私の思考は完全に停止してしまうのだった。

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