第2話 帰省 後


「――――……」


 驚いて、声すら出てこない。

 手のひらに落ちる雪の欠片。

 舌の上に綿飴みたいに解けては消える。

 確かに、雪だった。


「こんなことが、あるのか……?」


 星々と月の光を反射しながら、粉砂糖みたいな雪が、真っ黒い空と地面を、染めていた。

 消えて行く雪、頬を伝う滴。

 ――黒く乱雑な線が、目の奥を走った。

 どこか、心の中にざわつきがあった。

 目隠しをされて、暗い病院の中を歩いているような、妙な不安。


「しーちゃん、なんか、ヘンだよ」


 悠里は、驚いたように俺を見た。


「ああ、どう考えたって、普通じゃない」


 何かが、始まる予感がして、手のひらの上で解けていく雪を見つめていた。


「ねえ、しーちゃん。なんか……」

「どうした、悠里」


 左手で顔を押さえた悠里は、苦しそうに頭を垂れていた。


「おい、大丈夫か」


 大きく肩が揺れて、それを支えるために左足を出した瞬間。


「あ……」


 体重の軸がぶれて思わず踏み出した足が、体重を支えきれずに前のめりに落ちた。

 椿の花が落ちるみたいに、悠里が地面に吸い込まれていく。


「悠里っ……!」


 地面を蹴る。


「あ……」

「おい、おい悠里。大丈夫か?」


 なんとか倒れる前に肩を支えることができたものの、瞳は未だ雲のように朦朧としている。受け止めた体の体温は妙に熱っぽい。


「落ち着いて、ゆっくり呼吸しろ」


 悠里の体を静かに仰向けに横たえて、ほら、と促す。


「ふう、はあ……はあ……」


 そういえば、俺が医者を目指したのは、コイツがこんな風に急にぶっ倒れたりするからだったように覚えている。

 まあいずれにしろ、結局内科にも外科にもなれずにこうして精神科になっている辺り、紆余曲折なのだが、閑話休題それはさておき


「そう、ゆっくりでいいんだ」


 はあ、はあと必死に呼吸を整える悠里の目の照準は、ゆっくりと定まっていった。

 呼吸も自然に落ち着いて、妙に熱かった体も、段々とマシになってきたように感じる。


「ふう、落ち着いた、しーちゃん。やっぱ頼りになるね。いっつもこんなんばっかり」

「貧血か? 調子悪かったなら言えよ。ただでさえ体弱いんだから」


 額の汗を拭き取って、張り付いた髪をそっと流す。


「もう弱くないよ。急に雪が降った後、ちょっとふらってしただけ。全然問題ないよ」

「本当か?」

「お医者さんに見て貰った方が早いかなあ」

「じゃあ手術です」

「あら困っちゃった」


 わざとらしく頬に手を当ててみせる悠里は、確かに苦しそうには見えなかった。


「よっと」


 むくりと起き上がって、付いた葉っぱを払った。


「本当に大丈夫か?」

「うん、全く問題ないよ!」


 その時だった。


 背後の教会の中から、大きな音がした。

 まるで何か重たい金属を木にたたき付けたような音。

 老朽化した教会の一部が、崩落でも起こしたのだろうか。


「あれ、なんで石なんかが降ってきたんだろ」


 ――ああ、そうか。悠里の位置からなら、見えてたのか。


「石?」

「うん、石。雨みたいに一瞬だけ」

「雪の次は石か。今度は槍でも降ってくるんじゃなかろうな」

「気にならない?」

「危ないだろ。ほら、帰るぞ」


 頭の上にビニール袋を乗せる悠里を無視して、車に向かって足を向けた。

 時計をのぞき込めば、もう日付だって変わっている。

 二〇一六年八月三〇日、俺の短い夏休みの始まった日。

 社会人だから夏休みなんて表現はどうかと思うけれど、俺は夏休みだって言い張りたい。だって、夏休みっていうのは俺にとっての理想郷――まあ一場の夢であることに目を瞑れば――だったのだから。

 毎日少しずつ進んでいく宿題と、毎日進んでいく日めくりカレンダー。

 学校に行かなくていい日は一日だって増えて欲しいものに違いはなかったけれど、それでも自分が少しずつやるべきこと終わっているという実感は、悪くなかった。

 それに、毎日のように宿題をやりに来るという名目で家に押しかけては、僕に一顧も与えず一人キャンバスに向かって落書き(にしか見えなかったが、本人は本気で描いていたのかも知れない)している悠里を見るのも、俺は好きだった。


『しーちゃんこれわかんないよ、教えて!』


 当然、悠里は絵を書くだけだから宿題は僕がほとんど手伝うことにはなった。


『しーちゃん、イーゼル壊れちゃった……どうしよぉ』


 コイツは毎日トラブルを産んで、俺はそれを片付ける。

 今となって思えば、そのお陰で俺の夏休みというのは、楽しかったのかもしれない。

 毎日、楽しいことばかりだった。絵日記の宿題なんて、書いている暇だってなかったんだ。

 他にも何かあっただろうか。その頃はおじさんにもよく遊んで貰っていたな。

 何をしたっけ。夏祭りの花火だとか、夜の海辺でボートを浮かべて星観察だとか、そんな風情のある場所に悠里と一緒に手を引かれて行ったことは覚えているが、それくらいだ。

 やっぱり子供の頃の記憶は、いくらか抜けていってしまうモノなのだろう。

 今ではおじさんとの思い出を全て語ることは間違いなく不可能だ。とはいえ、そんなことを本人に言ったところで、『それでいいんだよ。思い出が思い出せなくても、無くなったことにはならないからね』なんて至極どこ吹く風という風に流されてしまうのだろうけれど。

 ……改めて思う。

 この廃教会の丘には、おじさんと悠里とは来ていないだろうか?

 ここまで星が綺麗に見えるところだ。あの星フリークであるおじさんのことだから一度くらいは連れて来てくれたことがあるんじゃないだろうか。

 いや、三咲町の大体の天体観測スポットは恐らく制覇している以上、ここに二人と来ていないことは逆に不自然だ。しかし、ここまでいっかな思い出せないということは、そうなるための記憶の引き金さえもないってことになる。

 更にあの様子では悠里の記憶にもないってことだから、そうなると消去法的にも、帰納法的にも俺たちがここに来たのは初めてってことになる。


「う~ん……思い違いだな」


 ぼんやりと考え事をしていたら、道のり半分ほどやってきていたらしい。

 足下には、砂利のような白い花崗岩が散らばっている。


「あれ。こんなに足下ジャリジャリしてたっけか」


 途端、足下の小石が外れて足を踏み外した。


「いった……悠里、そこの石、かなり滑る――あ」


 振り返ると、そこには悠里は居なかった。

 ひょっとして、さっきの物音につられて廃教会に勝手に入ったのだろうか。

 ――いや、絶対そうだ。


「あのバカ」


 俺はどうせ誰も取る人もいないような道の脇に望遠鏡を置いて、走り出した。

 アイツは、すぐこうなのだ。興味を引かれるものがあると、ほとんど制止がなくなって、火に入る虫のようにその場に吸い込まれていってしまう。

 数分の道とはいえ、急勾配だ。それに疲れているのか、さっきよりも妙に足を取られるような感触まである。

 全力疾走で体力のなさを痛感しつつ、なんとか廃教会の前に戻ってくる。

 相も変わらず、不気味な建物だ。

 木製の扉の大扉は完全に腐敗していて、裂け目からは手を伸ばしてくるようなコケ類が繁殖している。

 扉が半開きになっているので、恐らく悠里はここから入り込んだのだろう。

 長年開けられていなかった扉。

 丁度俺の腹辺りまでは腐敗して、その下がトンネルのようになっている。

 きっと、この”トンネル”がここで遊んでいた子供達の、通行門だったのだろう。

 身長がこれを越えるようになれば、もうここに踏み入れることはない。

 きっとここは、そういう意味での聖域、子供の楽園だったのだ。

 ――あの死亡事故が起こるまでは。

 とにもかくにも、無残にも子供達の聖域を守る門は悠里という大人――いや、子供か?――によって破られたわけだ。


 教会の中へと這入っていく。

 罪悪感がないと言われれば少しだけ嘘になるが、子供だけの場所だと思っていたモノが、案外大人に踏み荒らされて整地された後の場所だったなんてことは良くある話だ。ましてや幽霊教会なんて揶揄されるような誰も寄りつかなくなった教会であればなおさらのこと。特に気にする必要なんてないのだろう。

 所々天井の抜けた、紺碧こんぺきの教会。


「確かに、魅力的ではある、な……」


 敷かれていただろう赤い絨毯は、今や気味の悪いぼろきれだ。

 参拝者が座っていただろう木製の長椅子も、ほとんどは朽ち果てて、その面影だけを遺す形骸となってしまっている。

 使われないモノ。

 寂寥で人に忘れ去られて久しくも、忘れ去られ朽ち果てたことによって、新たな美しさを身に纏ったモノ。

 風化したその姿は、どこかインダストリアルで退廃的な魅力を漂わせている。


「うわっ」


 祭壇の上に置かれていたはずの十字架は、老朽化して完全にその身を横たえている。なんとも背教的で頽廃的たいはいてきなその光景は、無宗教で無頓着な一般人の自分でも自然と身が固くなるのを感じた。


「おーい悠里ー! どこだー!」


 遠くまで聞こえるように、大きめの声で呼ぶ。

 しかし空虚にカーテンが揺れるだけで、反応はない。


「おいおい、アイツどこに――」


 踏み出した地面の軋む音。

 その音に被さるように、遠くで何かが鳴った。


「……なんだ」

「きゃあああああ」


 バキンと何かが折れた音と、悠里の悲鳴。

 礼拝堂の先からだ。


「悠里っ!」

 礼拝堂の奥の扉、閉まっているということは、悠里はここから入っていない。

 だが、方向は確かにこっちだ。

 軋んだドアを蹴り破って、奥へ転がり込んだ。

 奥の部屋は、どうも楽屋に近い準備部屋のようだ。

 そしてその真ん中には、楕円型の大穴が開いている。

 さっきの声は、ここからのものだろうか。そうだといいが、いや、良くはないか。


「悠里、聞こえるか? 悠里ー!」


 名前を呼びかけて、携帯電話のライト機能をオンにする。

 暗い地下は、崩れた木材で埋め尽くされている。

 ――悠里はいない。

 どうしたことだろう。

 もしかして、何かの拍子で崖にでも落ちてしまったのか。

 アイツのことだ、無い話ではないだろう。


「なんてことだ……」


 血の気が引いていくのを感じる。

 やっぱり、目を離すべきではなかった。

 ともかく、崖の方を確認しなくては。

 体を起こして、崖側に歩を進める。


「あのバ――」

「しーちゃん、ここここ」


 悠里の声が後ろから聞こえて、振り返る。

 声の方向は、さっき確認したはずの闇の中だった。


「……!」


 もう一度ライトで照らして、中を確認する。


「しーちゃん!」


 そこには、どこからか現れた悠里がいた。


「悠里! どこにいたんだよ。心配したんだぞ」


 俺の心配そっちのけに掛け構えなくにやりと笑う悠里は、心底満足していると言わんばかりに、口元にぴんと指を当てた。


「し。んっとね。あっちの礼拝堂の奥を見てたら地面が抜けちゃって。そしたら地下室? なのかな、ここに入っちゃったんだ。で、この下、なんだかすごいよ! 魔法使いのお家みたいでね、色んなところに繋がってるみたい。下りてきたら?」

「……あのな悠里」

「後で、後でいっぱい怒って。ちゃんと反省するから。だから今は一緒に来てよ」


 悠里の瞳は輝いている。

 ……。

 ……言いたいことは山ほどあるけれど、今はいったんは乗ってやることにしよう。張り合っても無駄だ。


「……わかったよ。ところで、三メートルはあるだろうこの段差、どうやってそっちに降りたらいいと思う?」

「その辺のボロそうな床の上でジャンプするとエレベーターになるよ」

「……」

「ご、ごめんってば」

「そっちにハシゴとかはあるか?」

「ううん。でも、崖側の壁の方に穴……? 星空が見えるから、そっち側から回り込めば多分入れるんじゃないかな」

「わかった」


 崖側に回り込む。

 それにしても、悠里が落ちたのは別の穴だとして、じゃあこの穴は誰が開けたモノなのだろう。ここだけ床が一層薄かったなんてことは考えにくいだろう、ということは、雨漏り……なんて考えられないか。

 雨ざらしの礼拝堂ならまだしも、ここはまだ天井がその役目を果たしている。

 ということは……。

 分からないな。

 薄く崩れかかって斜めに止まった裏口をひっぺがして、教会の裏側に出る。

 こちら側は三咲町側の反対側、久那次湖くなつぎこを一望できる。

 遠くに見える湖面には星が反射して、もう一つの宇宙を広げている。

 静かな湖面だからこそ、これほどの水鏡になるのだろう。

 三咲町の海側では、淡くしか映らない。

 半分腐葉土のようになってふかふかとした地面を、足下に気をつけながら降りていく。

 斜面には恐らく足がかりだったように見える、人工物じみた階段の跡が残っている。

 それに沿って少し降りると、すぐに横穴が現れた。

 丸くて大きな、まるでトンネルのような穴だ。

 ……奇っ怪な光景だった。

 とても人間が設計したと思えないような円形の入り口は、扉の類が設置してあった形跡すらもない。

 これでは吹きさらしだ、なんて感想は恐らくこれを見た人間全てが思い描くのではないだろうか。

 ともかく、そこに足を踏み入れる。

 進んでいくと、急に段差が現れて、足を取られた。


「いたっ」


 足下に目線を飛ばすと、そこには木製の板が、急に張られていた。


「しーちゃん、わっ」


 横から飛び出てきた悠里の頭に軽く手刀を入れて、上を見る。

 確かに、ここがさっき上から見ていた部屋、つまり地下らしい。

 それにしても、こんな場所、何に使っていたのだろう。


「悠里、怪我してないか?」

「うっ、してないよ」

「本当か」


 手が下半身を弄んで、ぴたりと止まる。


「膝でもすりむいたのか?」

「落ちたときのかすり傷だもん」

「……しょうがないヤツだな。動くなよ」


 膝を照らして、患部に持ってきていた飲み水を流す。


「んひっつめたっ」

「我慢しろ。よっ」


 ハンカチをペットボトルのラベルで軽く縛って、止血する。

 ほんの少しすりむいただけだったようで、これでも十分事足りそうだ。


「あうっ……もっと優しくしてよ」

「しっかり押さえないと血って止まらないんだよ。それに、ヘンなばい菌が入って膿んだりしたらもっと嫌だろ」

「うん……」

「さ、行くぞ」


 部屋の中身を見渡す。随分と古ぼけて、汚らしいという表現がよく似合う。


「えっとね、こっちだよ。と、その前に」


 悠里はライトを付けて、部屋の壁を照らし出した。

 暗澹あんたんとした闇がのっぺりとタールみたいにへばりついた壁が、光によって漂白されていく。


「これは……」


 第一印象は、虫の這った足跡。

 暗くギザギザとした何かが壁を百足のように模様付けて、それが立体的に見える程に細かく刻みつけられている。

 その様は不穏や不可思議、それに附随してくるような言葉では陳腐にさえ思えるほど、直感に何かを訴えてきていた。

 肌を駆け上がってくる悪寒、小さな感情の吹きだまり。石の裏で眠る蟲の群れを見てしまったような、えも言われないような吐き気。この壁が俺に見せるのは、そういう類いの感情だった。


「変な感じでしょ? 魔法使いのお家みたいって言ったのはこれのことでさ、それで、更に面白いのがさ。ほら」


 悠里は壁のライトを、崖側に向かって這わせていく。


「この模様ね。こうやって崖側に向かって進めていくとさ……」


 円をした光の中に映る線は、進めば進むほど濃く、そして暗くなっていく。

 次第に深淵に近付いていくような変化をもたらしたその円は、ある場所で光が届かない闇に消えた。


「はっ」


 いや、光が届かないではなく。

 穴が、開いているのだ。


「そういうこと」


 つまり、壁の穴の開いた部分――つまり俺が入ってきた部分は、その模様の一番濃いところだったということか。

 俺が足を引っかけた段差をもう一度見直してみる。

 外から見ればなんともない段差だった。

 内側からは――。


「っ」


 丸く、縁取られたように、綺麗にえぐられた跡がある。

 明らかに、人為的だ。

 自然環境における腐食であれば、こんな風にクッキーの型みたいに綺麗に削れることはないだろう。

 ……。

 背筋に、何か冷たいモノが這い上がってくる。

 こんな、こんなことがあるだろうか。

 ここは十数年前にはもう廃墟になった教会だ。

 それは良く理解している。

 誰が、こんなことを。

 いやそれか、この教会が稼働していた時から、この跡はあったのかもしれない。

 でも、だとしたとしてだ。

 なんの為にこんなことを。


「この位置に、あの模様が集まってきてるみたいじゃない? それで、一番濃いところに穴が開いてる。これって、不思議じゃない?」

「――ああ、そ、そうだな」


 奇妙だが認めざるを得ない連関に、俺の心はゆっくりと弱気になっていた。

 手に汗握る――誤用だとしても、今の俺にはその言葉が最も似合っていた。


「あ、もしかして。しーちゃん怖いの?」

「いや、大丈夫だよ」


 それより、とバレバレな流し文句を使って、俺は話題を流そうと尽力する。


「他の部屋っていうのは、その奥なのか?」

「うん、そうみたいだね。奥に行けば行くほど模様は薄くなっていくみたいだよ」

「そ、そうか」


 なんとなく安心して、ため息が漏れた。

 こんな不気味な部屋がそう何部屋も続かれたらたまらない。


「あは、しーちゃん今安心したでしょ」

「疲れてきたんだよ」

「そっかぁ」


 とてとてと音を立てて奥の扉を開ける悠里。


「大体の部屋は見て回ったんだけどさ。一番の奥だけ、まだ確かめきれてないんだ。だから、一緒に行こ」

「ああ」


 奥の廊下は、一本道を鈎型に曲げたような廊下だった。

 左に一部屋、右に一部屋。

 突き当たりの右側、つまり教会の赤カーペットの真下に当たりに部屋があり、悠里はそこから落ちたらしい。

 最初は暗くてびっくりしたそうだが、途中でこの教会のデザインの良さに気が付いて夢中になってしまったそうだ。なんだその理由はという話なのだが、腐っても芸術家気質の変人だ。そういう面では納得せざるを得ない。この妙な肝の据わり方は、悠里の母や叔父のものにはとても見えない。

 ……ということは悠里の父親からの遺伝、ということになりそうなものなのだが、悠里の父の話は俺でさえも一度も聞いたことがない。家に写真もなければ来ていた服もなく、また一切の消息もないと来れば、その実態はどうやったって謎だ。まあ、そんなことを知ったところで、どうしようもないのだろうけれど。


「一番奥の部屋の扉ね、これ、とっても重たくって。全然開かないんだよ。うーんっ……!」


 悠里が必死に引っ張ってもびくりともしない木扉。

 ノブを引っ張ってみても、確かにガチャガチャと音を立てるだけで動こうとしない。


「一緒に引っ張るか?」

「でもノブは一個だけだよ」

「それもそうだ。貸してくれ」


 悠里をどかせて、今度は自分の手で試してみる。

 ノブはところどころ腐食の見られるブラス製だ。

 何かの彫り物がされているようで、ツノのようなものが立っている。


「綺麗でしょそのノブ。想像なんだけどさ、ひょっとしてこの教会って、怪しいカルトもやってたんじゃないのかな~って」

「どうしてそう思う」

「そのノブに彫り込まれてるの、蛇なんだよ。しかも体みたいなのがちゃんとあって、頭のところにね、星形の紋章みたいなのまで書き込まれてるんだ」

「それだけ?」

「ううん。でも、やっぱりちょっとおかしいの。確か聖書って、蛇がアダムとイブに嘘をついて知恵の木の実を食べさせたんじゃなかったっけ? そのせいで神様が噴火しちゃって地面を這うようになったってお話」


 新約聖書の創世記、三章の十四節だったか。

 蛇は悪魔とも解釈されるようで、そう考えれば悠里の説にも一考の余地があるのかもしれない。


「ね。だったらさ、そのキリスト教の教会で蛇がノブに刻まれてるなんて、ちょっとヘンじゃない?」


 首を傾げる悠里。


「さあどうだろう、でも、その根拠だけじゃ、ちょっと弱いんじゃないか? はっ」


 反論ついでに指先に力を込めて、開かずの扉に肉薄する。

 裏から金属同士が擦れる感触がして、ノブが回る。

 どうやら内部機構は動いているようだ。扉自体の機能が破損しているわけではないらしい。


「……っ」


 相変わらず力は込め続けてはいるのだが、一向に動く気配はない。

 いや、言い換えた方がいいだろう。

 上下でぱったりと固定されているように、動かない。

 ひょっとして、こうか。

 右肩に力を込めて、体重のかかる向きを変える。

 扉の重みと、砂を噛み潰す車輪の音。

 ……なんだ、こういうことかよ。

 右向きに、少しだけ、力を込める。


「やっぱりか」

「わあ!? これ、スライドさせて開ける扉だったんだ!」


 滑り出すように動いた扉は、まるで今までの徒労をあざ笑うように、まるで障害なんてはじめから存在しなかったように軽快に動き出した。


「すごいねしーちゃん! なんでわかったの?」

「なんとなくだよ」


 それにしても、念入りだ。

 スライド用のレールが、見えないようにしっかりと覆われている。

 ということはだ、何かしらの理由で、この部屋を作った人間はひねくれていたのか、それとも隠したいモノがあったってことだろう。

 まあ、なぜそうなっていたのかは……この中を見れば、恐らくわかるのだろう。

 さて、いよいよ持って部屋の中に入れる訳だが。

 ここまで焦らされたら、嫌が応でも期待が募るっていうモノだ。


「悠里、足下に気をつけろよ」

「うん」


 奇妙な扉を抜けた先には、妙に天井の低い息苦しい間取りがあった。

 奥に見えるのは――手術台だ、間違いない。その奥には、焦げ痕? 黒くて丸い染み――暗闇の中でも明確にわかる。

 どうしてだ、なぜこんなものがここにあるんだ?

 それにこのどこか酸っぱい本のような匂いは――。


「ちょっとここで待ってろ」

「……? うん。わかった」


 悠里を扉の前で待たせて部屋に這入り込む。

 二メートルほどしかない天井は、もはや潜り込むと言った方が的確とさえ思えた。焦げ痕は、どうやら部屋全体に点在しているらしい。

 とにかく違和感の最も強い場違いも甚だしいオブジェクト――手術台に向かう。こいつだ。

 ボロの廃教会だ、医療施設を兼ねていたかは知らないが――いや、教会が医療施設を兼ねていたなんていつの時代のどこの話だ――なんでこんなものがあるのだ。

 手術台は少しリクライニングを起こしてあった。

 丁度蚕の繭のように、表面がへこたれてクッション面が沈んでいる。黒ずんでいるのを見ると、使い込まれているのが見て取れる。


「何に使ってたんだ、こんなの」


 ――怪しいカルトでもやってたんじゃないかな~って。

 悠里の言葉が反芻される。

 そんなことは……そんなことはないだろう。そう思いたいだけか?

 辺りの壁側を見渡す。

 小さな棚がある。古ぼけていて、脳みそが揺れるような奇妙な模様によって包まれている。

 壁もどこか気味の悪い壁紙――シミなのかもしれない。瑪瑙のような波線が渦を巻いては欠けて、どこかに繋がって、一周ぐるりと空間を包んでいる。


「手術台はあるが、用具などはナシか。まあ、確かに年式を考えればないのが当然なのかもな――引き上げられててもおかしくない」


 ……それにしても、やはり気になるのは壁や床の焦げ痕だ。直径にして二メートルくらいの円形の黒く炭化した水玉模様が、アトランダムといった様子に点々と壁に刻印されている。

 模様と被っているところがないことから、最初からあったものではないとしても――。

 足下にある焦げの縁を指で擦ってみる……最近できたモノではないはずだから、表面の突起はある程度風化して削られていて、怪我などはしないはずだ。


「……?」


 指先に、硬くざらついた、角の残った感触。

 ――新しい?

 最近できた痕ってことなのか。でもそんなことありえるだろうか、ここはもう一〇年前には廃教会になっていたのだから。だが、だとすればなぜ痕が新しい――あり得るはずがない。

 焦げの外周、何かが目の端に映り込んだ。

 それは、糸くずだった。いくつかの埃を巻き込んでいるようで、灰色の繊維がダマになっている。


「明確に人がいた形跡――」


 しかし――

 手術台の裏側に回り込む。

 ない。

 床の焦げ痕はどうやら手術台の足下にあった一つだけのようだ。

 ここで火炎放射器でも使ったのか? いや、それなら引火して今頃こんな地下室は跡形もないだろう――。


「ん……?」


 妙に目に付く色があって、手術台の下に手を伸ばす。


「これは……」


 黄色い、小さく焦げた布きれだった。

 裏地にだけミシン目があるところを見ると、洋服であった可能性が高い。


「なんにせよ、早く撤退した方が良さそうだな――」


 誰かがいる可能性が高い、長居しない方がいい――そんな風に、直感が告げた。

 部屋の外に向かって踵を返す。

 スライド扉を開けようとドアノブを回そうとした。

 その時だった。


「ない」


 ドアノブがない。


「嘘だろ……」


 内側からは開かないようになっているのか……?!

 焦燥感で、汗が噴き出した。

 なんだこの地下室。まるでこれじゃ――地下牢じゃないか!

 じゃ、じゃあ、あの手術台は、本当に――!

 視線が、手術台に引き寄せられる。

 あの黒ずんだ部分は……本当に使用されていたからそうなったんじゃないか――?

 じゃあ、この床の焦げたような跡も、壁のも、全部。

 悠里が言ったみたいに本当に妙な儀式に使っていて――


「悠里! 悠里! 開けてくれ!」


 こんなところに閉じ込められるのはごめんだ。さっさとこんなところからは出た方がいい。第六感が告げていた。さっきから妙だとは思っていたんだ。こんなどう考えてもおかしすぎる。気味が悪い、異常だ――正気じゃない。


「どしたのしーちゃん」


 扉の前から間延びした声が聞こえた。


「悠里、誰かがここに来るかも知れない。帰ろう。すぐに帰ろう。危ないかも知れない。早くここを出よう」

「えっそうなの? わかった~」


 ゆっくりと扉が開いて、ようやく悠里が見えた。

 暗く死角の多い地下室の全てが危険だ。

 こんなところ、やっぱり来るべきじゃなかった!


「行くぞ悠里」

「う、うん!」


 俺は悠里の手を引いて、地下室の裏から駆けだした。



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