第4話 秘密と接吻


「アクセントがフランス語みたいに聞こえるんだよ。日本語じゃないみたい」


 フランス語。


 輝かしい三色のあの国旗がとっさに脳内に閃く。




 私の頭のスクリーンにはシャンゼリゼ通りから見上げた、瀟洒なエッフェル塔と白亜の凱旋門が堂々と浮かんだ。


 自他共に認める花の都、巴里の優雅なテラス席に流れる、ジャズの楽曲が軽やかに聞こえる。




 嘘だ、嘘だ。こんなド田舎、田んぼと牛小屋しかないのに少しも似合わない。


 ノスタルジックな巴里と垢抜けない高原町なんて、天と地の差ほど違うのに。




「宮崎から出たことがないから。福岡にも行ったことがない」


「田舎の子なんだね。真依ちゃんは」


 慣れているもんね。田舎には田舎の道があるよ、と私は私を説得させるように心の中で呟いた。




「何で、真君は帰ってきたの?」


「父さんから逃げてきた。塾の授業もつまらなかったから」


 実家のある福岡から高速バスで乗ってきたんだろうか。


 わざわざ、高速道路に何時間も乗って大変だったろうな、と私はちょっとだけ、呆れて口を少し開けた。




「何も持っていないの? 荷物は?」


 君は壊れやすそうな、精細な飴細工のように、はにかんでから頷いた。


 私はつい、開いた口が塞がらず、クスッと笑うのが止まらなかった。


 君も奥山に鳴り響く山彦のように笑った。君がここまで素直に笑った顔を見るのは、実を言えば、初めてだった。


 笑った顔のほうがいいよ、と深い仲まで培われた恋人のように、そんな軽はずみには伝えられない。




 少女期にありがちな羞恥心をあまり、言えないのに言いたい、と駆られる私がいる。


 こんなにもどかしいのは、春の裏庭に咲く、青い菫のようなセンチメンタルのせい。




 奇をてらった比喩も気軽には言えない。


 なぜなら、私はこの人の言葉になりたいから。




「咽喉が乾かない? 高速バスに乗る直前で買ったんだ。はい、お茶」


「飲んでいないよね?」


 そんなあらぬ、疑いを口にしてしまったのを私は歯がゆく、甘い後悔をした。




 君が直接口をつけたものなら、これ以上にないほど顔が赤くならないか、心配になる。


 そんな些細なきっかけで途轍もなく気にするなんて、ただの自意識過剰なのかな、と私は酷く、ぶらつかせた手首を見つめた。




「大丈夫、口はつけていないよ。僕はこの身体の奥底まで汚れているから」


 ようやく、皇子原公園に到着し、高千穂(たかちほ)の峰登山入り口、と書かれた、茶色の看板のすぐ横にある、赤い鳥居の前の石畳みの階段の上に座った。




 境内から木枯らしのような、凄みのある、風が私たちの背中を牛耳り、誰もいない境内はもう、秋なんだ、と完璧な寂寞感を教えてくれる。


 ぬるくなったお茶を飲んでからも、私たちはしばらくの間、目標を諦めかけたように何も話さなかった。


 発することで否応なしに望まれる、深入りを拒絶しているからだろう。




 君のお父さんはどうして、酷い仕打ちをしたのだろう。


 そんなに追い詰めなくてもいいのに、君のお父さんは冷遇し、わざわざ、縁戚にあたる私の家まで放っておいていたのだ。




 君のお母さんは私のお母さんの年の離れた妹で、それも異母妹なのだ、とお母さんの口伝から聞いた。


 深い事情が秘匿されているのには変わりはなかった。


 ただ、これだけは断定できる。あなたは汚れていない。私の身体のほうが汚れているから。




 線の細い吐息が鋭角的な君の肩に触れあうように手が触れる。


 この人の、清らかな闇まで私は背負っていけるだろうか、と無性に恐れ戦きながら。




 分からない。


 私は私の心の内情さえ、夕霞がかかっているのに、あなたの闇夜に巣食う、心の覗き小屋まで深く開ける、勇気なんて私にはない。




「帰ろう」


 私が相打ちのように告げると君は急に立ち上がった。


「ここはいいところだよ。彼岸花もこうして、咲くとお伽噺みたいだね」


 私は階段の上に座ったままたった。


「ここは皇子さまが住まわれていたんでしょう」


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